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京都雑感 3 [徒然]

昨日記事を書いたのは、妻をトイレに起こした後だった。その後朝食の支度をして9時前に妻を起こそうとしたのだが、もう少し寝かせて欲しいと言われたので、そのままにして10時過ぎに起こしに行って驚いた。最近にはなかった記録的なお漏らしをしていたのだった。胸から下がびっしょりと濡れ、最近シーツの下に敷いているお漏らしシートの範囲を超えて布団までぬれている。とんでもない量のお漏らしだった。
これは以前尿崩症を疑ったときに匹敵するかそれ以上の量で、なんだか気のせいか顔がほっそりしたように見えるほどだった。前夜お風呂に入ったばかりだったが、仕方なくその場で身につけているものを全部脱がせて、風呂場まで抱えていきシャワーで身体を洗った。私の布団にもう一度寝かせてから、布団を干し、シーツや衣類の洗濯をして妻のところに戻ると、お腹がすいたという。よしきたほいとばかり、抱え起こして食事をさせると、軽快にたいらげて自分で椅子から立ち居間に移動してテレビの前に座った。なんだか体の中の悪いものが出たように、ちょっとキリッとした表情に戻っている。その後は自分で這って行って布団に横になったのだが、これもここ数日の中ではなかった能動的な行動で、少し復活の兆しを自分で見つけたのではないかと期待している。

さて、六年前に叔父が亡くなった時、住んでいた家を整理して、そこそこの量の本を家に持ち帰った。筑摩書房版の世界文学全集や日本文学全集、それに平凡社の東洋文庫等々。その持ち帰った中に昭和39年発行の中公新書、林屋辰三郎の「町衆」があった。その序文を読んで古くて新しい問題として京都の現状を嘆いているのを発見して、笑った記憶がある。いま本棚からその本を取り出し、序文を少し引いてみよう。

ー略 京都ではいま、「応仁の乱いらいの破壊が行われている」という警句がきかれる。しかしそれは京都だけのことではない。全国的に都市・農村の近代化、観光・産業の開発といった気運のもとに、新しい施設や道路の建設がすすめられ、それらが日本の歴史的風致や文化財の破壊を、つぎつぎにともなっているのである。とくに京都の変貌はいちじるしく、最近では名勝双ヶ岡(ならびがおか)の売却問題や、史跡御土井(おどい)の破壊、さらに駅頭の京都タワー建設などは、京都の歴史性や芸術性をまったく無視したものだと思う。こうした現在の破壊を見るにつけても、この千年の古都を今日まで伝えつづけてきた祖先たちのことが思われてならない。中略ー

ー略 それとともに、京都のみならず全国的な問題として、伝統行事や祭礼など無形文化財の廃絶あるいは歪曲という現象がある。祇園祭のめぐり来るごとに、それはいつも新聞の新しい話題として提供されている。祇園会ばかりではない、大阪の天神祭もまた同様であるが、かつて祭礼をささえた信仰の力は、もはやその影をうすくしてしまい、ようやく観光資源として役立つもののみが、それ向きに変改を加えられてたくみに利用されているのである。中略ー

林屋辰三郎が京都の、いや日本の変貌の中で「じっとしていられぬ気持ち」に駆り立てられて(と自分で記している)この本を書いたのが43年前のこと。京都タワーはすでに京都の表玄関を飾る象徴となり(京都の人はとても嫌うが)、さらに物議を醸した京都駅もさしたる違和感も無しに受け入れられているようだ。だが、林屋辰三郎が今の京都を見て果たして絶句するのか、あるいは地域的共同体の解体は歴史の必然なのかを改めて問い直すのかはわからない。

衰退する都市の実感として京都雑感を書いてみたが、単なる実感だけをたよりに無責任なことを書いても仕方がないと思い、京都市創世推進室から出されているものを見てみた。ごく一部なのだが印刷すると100ページは優に超え、厚さは2センチほどにもなった。京都創成推進室は、「国家戦略としての京都創成の提言」に賛同して、提言の実現を応援する組織、京都創成百人委員会を組織し、その世話人代表に哲学者・梅原猛が就任している。ざっと目を通したのは「時を超え光り輝く京都の景観づくり審議会」最終答申と、「京都市基本構想」、あと京都市経済統計などの資料である。
思った通り、経済統計では観光消費額は付加価値を含めても京都市総生産の一割にも満たない。
最終答申と基本構想はさすがに当代の文化人、知識人などをかき集めてまとめられているだけに、私が心配するまでもなく京都の現状と問題点のほとんどが網羅されていた。

簡単な感想を。驚いたことに、この基本構想と最終答申の底流に流れているのは、京都の「敗北宣言」であった。京都が明治以降、かつてないほど病み、そして絶望的な変貌と解体のプロセスにあることを図らずも表明しているのである。京都「らしさ」(なにが?どこが?)は、あらゆる要素に分解され、悲鳴のように京都を形容する。そして遂には京都という都市が持ち得た自律的な時間性と文化性の再構築を国に委ねたのである。

「現代の大都市でもある歴史都市・京都には、こうした永い歳月の中で、三方の山々と鴨川、桂川などに代表される山紫水明と称せられる豊かな自然と、世界遺産を含む数多くの歴史的資産や風情ある町並みとが融合して、地域ごとに特色ある多様な景観が創り出され、それらが重なり合って全体として京都らしい景観がはぐくまれてきた。
このような京都の景観とは、本来、京都特有の自然環境の中で伝統として受け継がれてきた都の文化と町衆による生活文化とが色濃く映し出されているものであり、日々の暮らしや生業等都市の営みを通じて、京都独特の品格と風情が醸し出されてきたものである。また、時の移ろいとともに変化する町の佇まいや四季折々の彩りが京都の景観に奥深さを与えてきた。
このため京都の景観は、視覚的な眺めだけではなく、光、風、音、香りなど五感で感じられるもの全てが調和し、更には、背景に潜む永い歴史と人々の心の中に意識されてきた感性や心象も含めて捉えられ、永らく守るべきものとして認識されてきたのである。」序 〜時を超え光り輝く京都の景観づくりについて〜 より抜粋

なんと惨憺たる文章だろうか。これとは別に京都市基本構想は少し違う趣を持っている。それは市民に対する呼びかけの体裁を持ち、キーワードをいくつかあげて市民を鼓舞するところから始まっている。だが、ここで呼びかけられる市民は、いない。
例えば景観問題を施政者が条例などで規制しても解決しない。なぜなら様々な問題が関与しているからだ。条例で規制に反対するのはその規制地域に住んでいる人が多い。それは資産価値に直接影響するからである。こういう問題を包括し得ない施策は意味をなさない。土地の資産価値に匹敵する環境的価値が現実のものとして反映する仕組みこそが施政者に問われているものだと思う。

思うに、京都の人は景観や歴史にさほど関心がないというのが私の印象である。町家は、実際に住んでみるとわかるが非常に不便である。いくら、故人の知恵を力説されても、ウナギの寝床での炊事は不便なのだ。冬は寒いし夏は暑い。ずっと昔、冬期の室内温度が一番低い都市はどこかというデータを何かで見たことがあるが、京都が一番だった。どうりで北海道出身者が冬休みになると真っ先に京都は寒いからと言って帰省していたはずだ。
京都の人のプライドは、かつて京都が日本で最たる工業都市であったところにあるのではないかと思う。歴史や景観は生み出されるものに対するいわばレバレッジ的な(ブランド化?)意味しか持ち得ていなかったのではないだろうか。だから新しいものには寛容であると同時に古いものにしがみつきたくないという。京都の人は伝統的な町並みに世界的な建築家の意匠に富んだ建物が平然としかも忽然と建つのを良しとしてきたのだ。

だが、である。最近私の住む町内の人たちを見渡してもあまり元気がない。住民の高齢化に拍車がかかり、見事にドーナッツ化現象が起きている。京都だけではないだろうが、地区の学校も統廃合の話が具体的なスケジュールとなって聞こえてくる。次から次に町家は姿を消し、マンションが建ちはじめる。あるいは、建物が壊された敷地には小さな駐車場が時間稼ぎのようにあっという間に出現する。意外にも町内の人はマンションが建つことに拒否反応はない。新しい人が町に来ることを歓迎している風でもある。だが、それはある種の諦めにもにたため息を伴っている。
私にわかっていることは、マンションが建つたびにその地域にあった公共ではない公共的な空間が確実に失われていってしまうことだ。それは路地奥の小さな家が何軒か集合している玄関先の狭い空間に置かれたお地蔵さんであったり、小さく狭い軒先の間の通路であったり。そこは子供たちの格好の遊び場であったり、表通りから身を隠せるところでもあった。それが消失していくことは、追い打ちをかけるように地域そのものにダメージを与えているように思う。

最後に。東北に位置する比叡山から見る眺望と、西北に位置する愛宕山から見る眺望は京都の洛中・洛外を一望できる景観として素晴らしいものがある。御所を中心にして整然と並ぶ町並みに東側は高野川と鴨川が合流し、西には桂川が流れているのが見える。やがてそれは合流し淀川に注ぐはずだ。市中に点在する寺社や、山裾に鎮座する寺社もいっそう古都の趣を演出している。北白川や北山、そして岩倉の里から八瀬に至る道、山科の里、西の双ヶ岡や西陣の町並み、嵯峨野や宇多野まで、まさに京都盆地に築かれた都の姿に感慨を覚えたものだ。
が、ある時、桂の方から西山と呼ばれる山(小塩山)にバイクで登ったときのことである。眼下に見える京都を見て驚いたことがある。そこから見る京都は、比叡山から見る京都でも愛宕山から見る京都とも違った異相を見せていた。都から吐き出されたような形で、南に伏見から宇治、京田辺、山城に続く工業地帯と新興住宅街が茫洋と無定型に広がる姿だった。それは洛中に生息していると気づくことがない、まさに150万都市としての不気味な巨大都市、京都の姿だった。この時不意にここから見る京都の姿こそが、平安京を作った古代人の視線ではなかったかということと、やがて京の都は吐き出したものから飲み込まれるのではないかという奇妙な思いだった。


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コメント 10

昔、京に都ができたときも、古代の人はこう思ったのでしょうかね。

京都は府の自治だけでなく、国自体の文化財産的なイメージもあって国も関与してくるというやっかいな土地柄という印象です。
長屋など趣があっても、住まれている方には、不便だったり。私も寒いのは苦手なので、もし住んだら、不快な住まいと感じるのかもしれませんね。マンションの建設等で、子どもの遊び場などが失われていくのはさびしいかぎりですね。
by (2007-05-20 10:09) 

練習菌

きっと天皇が京都に居る間は、日本一の都として、賑やかであったし、さかんにスクラップ&ビルトしていたんでしょうね。
今の京都の衰退という状況は、古くからの首都として、新陳代謝というか維持更新し続けてきたものが、
皇居を東京に移してしまった為に、明治から緩やかに血行不良による壊死が始まっていたっていう事なのかなあ?
「ギャラリーフェイク」という漫画にも京都の町家の取り壊しを惜しむ東京の人と、経済的な理由で手放さざるをえない地元の人が出てきます。
例えその1軒は残せられても、同様のケースが沢山有るので、京都の景観は、結局、変わらざるをえないという話だったかなあ?
そういえば、川にダムを作ると海に流れ込む砂が無くなって、砂浜が無くなってしまうという事と同じなのかも知れません。
明治以降、水が無くなって立ち枯れた木がとうとう腐って倒れ始めているのかも。

工業地帯の場所は、平安時代には広大な巨鯨池がひろがっていたはずで、
その当時から使えた土地には、家が建ってしまっているから、工場は建てられないでしょうねえ。
すると、工場の建っている所は訳ありの土地と言うことだなあ。
by 練習菌 (2007-05-20 13:28) 

miyata

タケノコさん、こんにちは。
古代人の人はどうだったんでしょうね。平安京以前は秦氏や渡来系の文化が盆地に発達していたようですね。八坂神社も元は渡来系の神を祭ったものだそうで、京都盆地の西と東で相違う渡来系の文化が交錯して地域文化を形成していたようです。京の町家の風景が解体していくのは住み難さもさることながら、相続税の問題や固定資産税の問題など多種多様です。無為無策を長く続けてきた行政の失政ぶりは、振り返って後の世代に呆れられるのではないかと思います。
by miyata (2007-05-20 16:48) 

miyata

練習菌さん、こんにちは。
京都の歴史をちょっと見るとすさまじいですね。東京都知事選に出た外山恒一ではないけれど、もう、スクラップ&スクラップの歴史です。土一揆を始めてとして、百鬼夜行、悪党どもが跳梁跋扈するまさに闇の世界です。京都盆地はいくつもの河川が流れ、湿地帯であったことはよく知られています。河川を改修して灌漑をして平安京を作ったものの、右京はその湿潤な地形故に寂れて廃れます。朱雀大路も(80メートル以上あった通りだったようです)羅生門も消えて左京を中心とした今の都が形作られます。だけど、現在の京都の町の基礎を作ったのは豊臣秀吉なんですね。その後も幕末には薩長に荒らされますし、ある意味本当の意味で発展を遂げたのは明治維新以降で、現代の目から見て雅やかな京都としてもっとも美しかったのは大正から昭和の始めであったろうとは識者が語る京都です。今の京都はかつての土一揆の形を変えた蘇りかもしれませんね。
by miyata (2007-05-20 17:20) 

シマリス

miyataさん、こんにちは。
奥さまの状態が少しずつ好転されているご様子、やはり人間の生命力ってすごい!

観光消費額は付加価値を含めても京都市総生産の一割にも満たない・・とは以外です。何十年も京都を訪れた事のない私が言うのも変ですが、私の周りでは季節を問わず毎年必ず京都へ行く方が多いので
す。
そこに落ちるものは大手資本の元へ行ってしまうと言うことでしょうか。
古い家並や町屋を守り住み続けていく、維持管理する手間暇は大変なものでしょうね。
修理する職人さんもいなくなっていることでしょうし・・・・
私達の生活と共に住む都市も変貌していく、その方が自然なのでしょう。
木と紙で出来ている家、そこに問題があるのか・・・
ヨーロッパのようにレンガや石だったら、内部は変えて外観は古いままも可能でしょうから。
新しいものを進んで取り入れて、古くなってしまったものは捨ててしまう、日本人の国民性も関係しているのかもしれないです。
by シマリス (2007-05-21 14:17) 

Silvermac

奥様が小康状態を取り戻されたとのこと、良かったですね。miyataさんの場合、「老々介護」ではなく、「壮々介護」であることが、幸いしている面もありますね。老々の場合、抱え上げることも難しいでしょう。日本の代表的な古都、京都は「いかにあるべきか」を国、地方ともに真剣に考えていなかったのでしょうね。何を守り、何を守るかを選択する時期でもあると思います。住民が二つに分かれてしまった東洋町は、300有余年続いた地区の祭も今年はやらないそうです。室戸周辺の祭りも若者が帰省して行われているそうです。miyataさん、さんが生粋の京都人でないだけに、客観的な「京都考察」、大変説得力があります。
by Silvermac (2007-05-21 16:25) 

miyata

SilverMacさん、こんばんは。
確かに、私の状態が「老々介護」であったなら、やむを得ず妻を施設に預けるしかなかったのではないかと思います。だから、10年後、20年後は考えないようにしています。とりあえず、目の前の日々を越えていく。それしか考えられません。その中で、得られるものはないか、付け加えられるものはないか、(たぶん、何もないでしょうけど)を手探りするしかないですね。
東洋町の町長になられた方ですが、72、3年頃新聞に報じられていたこともあって私は少し彼のことを知っているようです。
by miyata (2007-05-21 22:06) 

miyata

シマリスさん、こんばんは。ほんとに少しずつですが自分で立つ気力が出てきたようです。だけど正直困りました。
京都の観光消費額は意外でしょう?私も調べてみてちょっと驚きました。いくらなんでももう少しあるのではないかと思っていたのですが。観光京都のイメージは今まである意味京都の余力だったんですね。だけど、産業都市としての京都が産業構造の変化にちょっとついて行けなくなったとき、いくら観光に力を入れてもそれは京都を支える原動力とはならないことを示していると思います。簡単に言えば、土・日の二日間で後の五日間をカバーできないということです。京都の観光客は昨年約4900万人、日帰り客の平気消費額は約6000円ほど。宿泊客の平均消費額は約20000円ほど。直接の観光従事者は約5万人。間接雇用と併せて約8万人ほどだそうで、150万人を超える人口の割合でいうと多いわけではありません。とても大事なことはここに隠れている消費額のうち、表に出てこないものとして各お寺の拝観料がありますね。1000億円以上が、まったく京都の経済に関わりなく宗教法人に流れていっています。これに課税するということで(古都税)、一時京都は大揺れに揺れました。人をして、比叡山焼き討ちの信長以来の対決だと言ったそうですが、これは市側が折れていわば敗北しました。地元の感覚で言いますと、表にあまりでませんが、有名寺院のライトアップなどは、寺側がやっているのではなく門前町の自治会が負担してやっています。お寺側は、お寺があるから門前町が成り立っているのだから、それは当然という感じで横柄です。地元の感情としては、実はあまり有名寺院に対しては良い感情を持っていないのです。観光客で市内の交通は慢性的に麻痺状態で行政は打つ手無しというか放置。しかもそれこそ坊主丸儲けで、地元への還元はほとんどありません。いや、あるのはお寺さんの祇園町での散在でしょうか(笑)。
行政は無策というか、胡座をかいていたために有力企業が本社を隣接市に移転したり、有力大学が市内を出て行ったりと、踏んだり蹴ったり状態です。しかも、シマリスさんが言われるように、都市の自然な変貌を規制するものですから、人は環境問題や景観問題を構造的に捉えようとするのではなくて、規制の網をすり抜けるようにして、条例に合致する建物に建て替えていった結果が今の京都です。遅まきながら町家保存のための補助金制度などを作ったのですが、とても間に合う金額ではありません。今まで京都を支えてきた産業が税金として京都市に落としてきた莫大な税金はどこに消えてしまったのでしょうね。かつて、任天堂の元会長が建都1200年祭の時に市への寄付金を断固拒否した話は有名です。インフラ整備として地下鉄を計画したとき、途中でお金がなくなり、長い間工事が中断していたことも記憶に新しいところです。
ただ、京都の文化は先の林屋辰三郎などの研究が明らかにしてきたように、地域文化として、時の公権力に対する町衆の反逆や知恵、あるいは協力的な関係として発展してきたものだろうと思います。それは姿を変えきっとまた新しい京都を創るのではないかと期待しています。
by miyata (2007-05-21 23:47) 

左膳

京都の問題として、拙者が初めて接したのが拝観料の問題だったと
記憶しています。次に、京都タワーの問題で景観論争が起きていたことです・・・。
現在でも、町屋を壊すのではなくリフォームして利用する宇運動があるやと聞いています。
by 左膳 (2007-05-22 13:29) 

miyata

左膳さん、こんにちは。
拝観料の問題は、大問題でしたね。京都タワー問題の時は私は京都とは全然縁のないところに住んでいたので知らないのですが、これはかなり京都市民の間で問題になったようです。
私が知っている景観問題では、京都ホテルの高さ問題ですね。仏教界からクレームが出て市も巻き込んで大問題になりました。
町家の保存は、西陣あたりが取り組みはじめて我が家の近くにも路地の長屋を残そうという運動があります。若い人たちが自分でリフォームしながらいろんな活動をやってます。こういうのが花開くのには時間がかかるでしょうが、頑張って欲しいですね。
by miyata (2007-05-22 14:03) 

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