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べつに感傷的になっているわけではありませんー古い写真1 [介護と日常]

祖母、父、叔父が息を引き取った私の実家とも言える神戸市にあった小さな家を処分して更地にして去年地主に返した。という話は書いたかもしれない。こぢんまりとしていたが庭もあり、小さな家にふさわしい小さな門がある家だった。戦前に土地を借りて家を建てたものだった。すぐ近所に賑やかな市場もあり、妻が元気だったらそちらに引っ越しても良いと思える環境だったが、古い上に震災の影響もありほぼ全面的に手を入れなくてはならなかった。
初めて神戸に行ったのは小学校に上がる前だったかもしれないが記憶に残っているのは、小学校五年生の頃の夏休みだったと思う。父に連れられて甲浦(かんのうら)からフェリーに乗り一晩かけて神戸にいった。神戸の街のきらびやかさは一種の衝撃だった。それまで一番遠くまでいったのは、小学生の頃に通っていたそろばんとお習字の塾から南国にあった手結(てい)の海水浴場に連れられて行ったのがいちばんの遠出だった。
私の町から安芸市に行くまで、県道は舗装もされていないし、コンクリートの建物がなかった。安芸市にはいると「デパート前」というバス停があり、「デパート」という何とも言えぬ開明的な響きに一緒に行った連中とバスの中で歓声を上げたものだった。奈半利から見て安芸市はまさに開けた「お町」であった。それでも今から思うと安芸市のデパートはくすぼけた緑色の貧相な三階建ての建物だったし、それ以外にビルのような建物はなかった。安芸市を抜けると自分の町と同じような家並みがポツポツある程度だったのだ。神戸市の街並みの光景、その衝撃足るや察していただきたい。
しかし、神戸での最大の衝撃は「鯨カツ」に尽きる。鯨は臭いがあって嫌いだった。甘辛く炊いても、焼いても煮ても、どうにも食べたくない食べもののひとつだった。遊んでくれた従兄弟が市場に連れて行ってくれ、揚げ物やさんで何気に鯨カツを買って渡してくれた。新聞紙に包まれた熱々の鯨カツに店頭に置いてあるソースをかけて食べたときのあのおいしさは忘れられない。鯨と聞いてさらに驚いた。それから神戸の家にいる間、店屋物を嫌う祖母の目を盗んでは小遣いを握りしめて市場にいき鯨カツを買って食べた。夕飯を食べられなくなって怖い祖母によく睨まれた。
叔父が亡くなった後、建物の相続をした私は友人の建築家に調べてもらったら、改築に最低でも800万円で本格的に直すと1300万円以上はかかると言われた。友人は直して貸すという可能性も含めて親切にもその地域の賃貸相場を調べてくれ、改築資金を借りた場合の利息計算とか月々の返済、家賃収入などエクセルでシミュレーションを出してくれた。また、以前大阪の税務署に勤めていて不動産に詳しい友人も加わって検討した結果手をつけないのが一番良いということになった。
だが、ずっと放置して置くわけにもいかない。戦前からの借地だけに地代は安かったがそれでも毎月9000円を払い続けなくてはならない。家が荒れると近隣から苦情も出てくる。更地にして地主に返すとなると300万円の費用がかかるという。もと税務所勤めの友人が、建物の権利を放棄して、代わりに更地にする費用を地主負担にしてもらう交渉を時間をかけてやれとアドバイスしてくれた。叔父が亡くなってから10年めにようやく地主との交渉がなったわけだ。
家を明け渡す前、最後の片づけに行った。おそらく父がもっていたのだろう古い写真が何点か出てきた。私の記憶にない写真だった。
見つけた写真を小出しにしてブログの長い空白を埋めていこうという魂胆である。
赤ちゃん.jpg
※(ミッチーさんのご指摘により曖昧な書き方を訂正します)お座りが出来るようになった頃の写真らしい。


☆10月5日で、妻が倒れてから10年目を迎えました。あっという間でした。
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ミッチー

いろいろのネット ブログトラブルで変えています
削除もできないまま。
by ミッチー (2011-10-07 07:28) 

ほんのり

後ろの金太郎人形みたいですね^^
by ほんのり (2011-10-07 09:11) 

Silvermac

昨日未明高熱38.8℃しましたが、今日は良くなりました。
帰郷後堀川沿いの育った場所を訪ねましたが、その付近は一変し、昔の知り合いは誰一人いませんでした。唯一私達が住んでいた証しは、一軒おいた西隣にあった元水上警察署跡に造られた小公園の記念碑に祖父の名前を見つけました。祖父の名前を見つけただけで満足し、一緒に遊んだ幼なじみに会いたくなったことを思い出します。
by Silvermac (2011-10-07 10:20) 

yakko

こんにちは。
神戸にお住まいになっていたんですね〜 神戸って憧れますヨ (^。^)
初めて都会を見た時の衝撃。私も田舎から高校卒業後東京に出たときはビックリ( ・_・;) 3年間の東京は青春の思い出です。
写真、カワイイですね。面影はありますよ〜〜∈^0^∋
by yakko (2011-10-07 11:18) 

hana2011

こんにちは。
上のベビーちゃんは勿論、60年近く前のmiyataさんですよね!
とても可愛らしいですね。
またこの写真を撮った時のご両親のお気持ちを想像すると、胸が熱くなります。
それはだれにでもある、若き日のもう戻ろうとしても戻ることの出来ない懐かしい日々。思い出のお写真ですね。

私も小学校の入学前後に行った母の実家や江ノ島の海での海水浴、上野のデパートで食べたお子様ランチとか・・・覚えているものですね。
ブログ開設10周年、重ねておめでとうございます!
by hana2011 (2011-10-07 13:25) 

Allora

神戸に出かけられたくだりを読んでいて、NHKの「坂の上の雲で」秋山好古が松山の浜から小船で出かけ、そして東京に着くシーンを思い出しました。

明治時代と比べる訳にはいかないでしょうが、心持としては好古と似通った感情なのかなと、想像してしまいました。
小生も子供の頃、富山市内の5階建てのデパートを大きな高層ビルに感じたものです。
by Allora (2011-10-07 20:11) 

Allora

ごめんなさい好古じゃなくて、本木雅弘が演じた真之の松山出立から東京着のシーンでした。

いずれにせよ正岡子規も含め、三人は四国が輩出した誇れる日本人である事には違いありません。
by Allora (2011-10-07 20:25) 

miyata

ミッチーさん、こんばんは。
最初わからなくて、ちょっと混乱しました。ネットでトラブルがあったのですね。了解しました。
by miyata (2011-10-08 04:41) 

miyata

ほんのりさん、こんばんは。
こんな時があったのですね。後ろの金太郎はなんとなくですが覚えています。
by miyata (2011-10-08 04:42) 

miyata

SilverMacさん、こんばんは。
38度を超えられたのですか。心配です。無理をされませんように。
私の生家は今では跡も形もありませんが、まだまだ幼なじみや友人が迎えてくれます。ありがたいことです。おそらくもう京都で骨を埋めることになると思いますが、そういう人たちが私の記念碑です。やがてそれも絶えてどこにもなくなってしまうのでしょうが。
by miyata (2011-10-08 04:48) 

miyata

yakkoさん、こんばんは。
神戸は住んだことがありませんが、祖父の代から神戸市にいたようです。祖父は兵庫県庁の職員だったそうですが病気で早く退職し悠々自適とも言えぬ暮らしをしたそうです。父の兄弟たち、つまりその子供達から聞いた話では放蕩三昧の人で、宮田家の命運を最後に閉じた人だったとのことです(^◇^;) 面影ありますかね。こんなにおでこが広かったのかと驚きました。
by miyata (2011-10-08 04:55) 

miyata

hanaさん、こんばんは。
そうです。私です。赤ちゃんの時の写真はほとんどないのでこの写真を見たときはへ〜っと思いました。おでこの広さとか、今とはぜんぜん違うんですけどね。
ブログは6年目ぐらいだと思います。早いもので妻が倒れてから10年目になりました。
by miyata (2011-10-08 05:01) 

miyata

chihiroさん、ありがとうございます。
by miyata (2011-10-08 05:01) 

hana2011

おはようございます。
これは、大変失礼致しました。
miyataさんが50歳の時に、今の生活になられたのですね。
立場は反対ですが、その点は私も同じです。50になって半年ほどの時でした。
入院中に、看護師さんからは「年が若いから、ここまで回復したのよ」と慰められましたが・・・
家に戻った後、どうやって生きていこうと考えてしまったものです。
6年経った今でも多くの不自由と、退行してしまった部分を抱えて生きているのは変わりませんので。
それでも過ぎてしまえば、時が解決してくれるところもあるのですね。私もあっという間の事のように思えます。
by hana2011 (2011-10-08 10:03) 

tomoko

この写真良く覚えてますよ、可愛いいね~。
私はこの頃11歳に成ってましたからね。

東北仙台はもうすっかり秋、朝晩は寒く暖房を入れてます。
自宅の方はヤット工事が始まり大規模半壊の家が半分
に成り座敷が無くなりましたが、住む家が有るだけでも
幸せと思っています。

会社の方は今の処屋根の一部を手を付けて其のまま
工事台半額受け取ったら来なくなり、頭が痛いです。

でもそんな被災地の足元を見たひどい建築業者が
多く問題に成ってます。
我が家にとって全面工事が終わるまで落ち着いた生活は
取り戻す事はありません。
頑張るしかないけど。。。。
by tomoko (2011-10-08 22:18) 

tonton

こんにちわ。
なんだかいい写真ですね~
後ろにピンとが合ってしまっているのもまたいい感じです。

鯨カツ食べてみたいです。
小学校の給食で鯨の肉を揚げて甘辛ソースで合えたものは美味しくて好きでした。

10年あっという間ですね・・・。
by tonton (2011-10-09 13:02) 

すず音

お帰りなさい
本当に待っていましたよ。
私も色々あって
まだまだ
谷底にいます

by すず音 (2011-10-09 19:09) 

タケノコ

私もいろいろあってしばらくぶりのブログ復活です^^;
介護されてから10年ですか、早いものでうちも約8年半。還暦を迎えられたとのこと、うちの父母も幸い70で元気ですが、昔の祖父母のイメージからすると今の60,70の方は若いですね。
鯨は給食で鯨の大和煮というのが出ていた世代です。硬い肉だった記憶があります。
by タケノコ (2011-10-09 21:29) 

miyata

Alloraさん、こんばんは。
最初に見る都会である都市は記憶に残るものですね。神戸の印象は京都よりずっと鮮明に残っています。京都はとても田舎っぽい記憶しか残ってませんから。富山も大きな町だったのでしょうね。
by miyata (2011-10-10 02:07) 

miyata

hanaさん、こんばんは。
どういたしまして。目の前の現実に向き合った時はこの時間が永遠に続くのかと苦悶しましたが、過ぎてくれる、そして何かを運んでいってくれる時間を時が経てから気がつくのですね。
by miyata (2011-10-10 02:11) 

miyata

ともちゃん、こんばんは。
げげげ〜、この写真は仙台にまで行っていましたか。しかも憶えてるなんて!頭あがらないはずです。
ところでずっと連絡もせずにすみませんでした。あんな大きな地震、津波、さらに原発事故まで重なると半年くらいではとてもとても回復するのは無理でしょうね。何も出来ない、動けないのがくやしいです。いつでも京都にどうぞ。家がかわっても二階部分は空いてますから。
by miyata (2011-10-10 02:20) 

miyata

tontonさん、こんばんは。
この頃のカメラはきっと距離を測るのは目測だったんでしょうね。小さい頃、写真を撮られるのは太陽の方を見ながらでなくてはいけなかったのでまぶしくていやだったという記憶しかありません。
鯨が給食に出ていたなんて今では嘘のような話ですね。
by miyata (2011-10-10 02:24) 

miyata

すず音さん、こんばんは。
待っていていただいてありがとうございます。
まだ何も解決してないのですね。とても辛いです。すず音さんがいまだ谷底にいることを絶対に忘れないようにします。
by miyata (2011-10-10 02:26) 

miyata

タケノコさん、こんばんは。
タケノコさんもしばらく遠ざかっていたのですね。
近くの喫茶店で還暦になりましたと言ったら、女将さんにしみじみ「若いねえ」と言われました。女将さんは80歳です。

鯨の大和煮と言えば缶詰を思い出します。これがまた食べたくない食べものの筆頭でした(笑)。
by miyata (2011-10-10 02:30) 

ミッチー

おせっかいですが首が座る(頚定のは生後3月ごろから4月。
お座りは7ヶ月殻8ヶ月
by ミッチー (2011-10-16 15:13) 

miyata

ミッチーさん、こんにちは。
あ、そうなんですか。連続してないということですね。すると写真は生後8ヶ月くらいということなんですね。ありがとうございました。
by miyata (2011-10-16 16:11) 

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