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妻の死のご報告 [介護と日常]

1月9日、妻が息を引き取りました。享年76歳(行年77歳)。俗名 宮田信子 戒名 香雲院信譽光藝大姉 11日に通夜、翌12日に葬儀と初七日を終えました。あまりの突然の死だったので、今はまだ受け止める事ができていません。最初にくも膜下出血で倒れてから、19年目に迎えた終末でした。ここ10年は身体の自由のほぼすべてがままならず、寝たきり状態でしたが、アイコンタクトなどで意思の疎通はあったし(と、信じています)嬉しい時や苦しい時もその訴えは私には豊かに感じられていました。

妻の仕事場のある路地に引っ越してからずっとそういう状態であったのですが、ここ数年周囲の環境がガラッと変わってしまいました。3年ほど前から隣に大きなホテルの工事がはじまり、また反対側もホテル建設が進められ、静かな路地環境は一変してしまいました。そして、工事による騒音、振動から逃れるために、昨年11月から緊急避難のため仮の住居に移りました。この仮住居には妻と私だけが移り、同居している子供は昼間仕事に出かけるためにたいした影響を受ける事がない事から残りました。仮住居での新しい生活は、考えてみれば子供が生まれてからはじめての二人きりの生活となりました。一昨年、昨年と世の中はコロナ禍に見舞われかつて経験した事がないような社会の、世界の動揺に巻き込まれていましたが、それ以上に昨年の妻は体調を崩し3度も死の淵に立ちました。でも、その都度いつも往診に来てくれる医師が驚くような回復を見せ、なんとか仮住居への避難を実現できたのでした。

今年のお正月は2人でお屠蘇を飲み、お節を食べ、のんびりと楽しいひとときを持つ事ができました。妻の表情もずっと穏やかで、訪問入浴や訪問看護師さん、拘縮のリハビリのためのマッサージの先生など皆に妻の回復を喜んでいただいていました。

妻の死はその矢先の事でした。私が異変に気がついた時、もう帰ってこれない歩みを進めている事が理解できました。診療所に連絡し、人工呼吸をしたり、心臓マッサージをしながら救急車を呼び、子供に連絡をするなかで、妻の体は徐々に死に侵食されて行くようでした。到着した救急隊員に妻を委ねた後は葬儀まで、まるで早回しのフィルムの中に投げ込まれていたようでした。

葬儀は路地の狭い長屋で行いました。隣の工事現場はいつも通りに大きな重機がうなりを上げ地面を揺るがしていました。家から妻を送るのは私の考えでした。子供たちも最初は怪訝な顔をしていましたがとくに反対はしませんでした。
家族、兄姉、近い親族だけの小さい葬式でした。気づいた路地の住人数人が見送ってくれました。雪が降りしきる寒い日でした。

火葬場に向かう車の中で、結婚したときのことを思い出していました。あの時もこんな風に雪が降りしきる寒い日だったなと。

このブログでいつも気にかけていただいたみなさん、ありがとうございました。何年も近況を知らせる事もなく不義理をしてしまいました。また、妻の死の知らせが遅れた事をお詫びします。
妻の死に顔は、穏やかとか微笑んでいるとかではなく、笑っていました。私にはその意味が(あるのかどうかさえ)わかりません。ひょっとしたら泣いていたのかもしれません。死を迎える前にはきっと苦しさや絶望や悲しみが嵐のように襲ったに違いなく、死を受容しようとした契機はなんだったのか、数メートルも離れていない私と妻との間で、こえようのない断絶、切断が起こった事が受け止めがたいままです。これから少しずつあるはずもない答えを探していこうと思っています。


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