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脱水症らしい。 [介護と日常]

相変わらず暑い日が続いている。夏だから当たり前というわけではない。すでに京都市内では日陰の涼しさであるとか、それは例えば路地の石畳にうたれた水の涼しさといった情感そのものも奪われているという暑さであって、まぎれもなく私たちが初めて出会っている夏と対決しているのだ。これをすぐに地球温暖化とか言いたいわけではない。おそらく郊外に行けば畑仕事の途中で木陰に入り、ヤカンに入った冷えた麦茶を飲み少しの涼をとるという夏は確実にあると思われる。ということは、都市に住む人間は紀元前から使用されているコンクリートとアスファルトに覆われた大地に復讐されているのだ。都市は残された遺跡と同様の運命を常に内包している。

この界隈では今年も陶器祭りが始まった。陶器祭りが終わるとお盆になり、五山の送り火があり、地蔵盆があり夏は9月の下旬まで至る所にその痕跡を残しつつ消滅する。夏の青空を見つつ子供の頃の夏休みの夏空の記憶に閉じこめられている。

今週の月曜日の朝、5時過ぎに暑さで目が覚めた。すぐにクーラーをつけ、布団を上げてベッドに目をやると妻は目を開けて赤い顔でこちらを見つめている。暑いねと声をかけながら薄い夏布団をめくり、おむつを交換しようとして異変に気がついた。身体が熱い。体温計を脇にはさんで計ってみると38度を超えている。すぐに氷をビニール袋に入れ両脇の下と首筋を冷やした。冷たいお茶を飲ませたり氷を交換したりしながら時間を見計らっていたが下がらないので病院に電話した。すぐに往診してくれることになった。
夜中のクーラーは、まず私が苦手だということと、一晩中クーラーをつけるのは身体にも悪かろうという思いこみがあった。夜の空気を入れつつ、水分に気をつけていればうんと健康的に夏を越せるのではないかと思っていたわけだ。往診に来た医師はすぐに点滴をして、血液を採取しその結果を持って翌日も来てくれることになった。
翌日、一回の点滴では熱は下がらなかった。血液検査の結果では、ナトリウム値も正常だったが炎症値が少し高いということで抗生剤を加えて熱が下がるまで24時間継続の点滴ということになった。そして、火曜日から木曜日まで一日1.5リットルの輪液に、抗生剤が朝夕2本に各種ビタミン。ようやく熱が下がった昨日から一日1リットルの輸液に朝夕の抗生剤が続いている。

で、なにが原因の発熱であったかというのは三度の血液検査でもわからない。きっとたんなる脱水症ではないだろうかということに落ち着いた。今は医師の指示に従って一日中クーラーをつけっぱなしにしている。そして自分がクーラーを避けて隣接する居間に布団を敷いて寝ている。
昨年の夏か一昨年の夏にも同様のことがあり、その時は入院した。そして、ふと思い至ったのは以前の発熱も自分の思いこみ(常識)が招いていたのかということだった。なにかがあるとつい相手の側に原因を見ようとする。悪い癖だ。

今回、初めて訪問看護を受けている。往診に来てくれる先生も看護婦さんたちも臨機応変で感心させられることが多い。病院での診療とはまた違う感じで頼もしい。彼らもまた「ブリコラージュ」の人たちであるなと感じる。また、入浴が出来ないので全身をきれいにしてくれるためにヘルパーさんたちにも入浴以上に世話になっている。昨日などは訪問日でもないのにベッドのことで電話をくれて、アドバイスをいただいた。こういう支援にはほんとうに力づけられる。やっていけそうだと思う。

ここ最近、アクセス数が少し増えているのに気がついた。何気なしにリンク先を見ると野田さんがリンクを貼っていてくれた。少々というかそうとう面はゆくて恥ずかしい。野田さんはケアサポのWEBでも「俺流オトコの介護」という連載をはじめている。私より少しだけ若いが(少しだけは余計かもしれませんが)、ほんとにくぐり抜けたものだけが語れる「本音」を表現できる人だ。私の考えでは、「本音」とは辛い苦しいを生のままの声で表現することではない。介護という千差万別の現実を串刺しにして、獲得できる可能性としての現実を表現できるのが「本音」である。だから、彼の表現は専門家にも届くし、介護の現実を知らない人にも届くのだと思う。彼が以前テレビで在宅での介護に触れて、もっとも辛かった時期をふり返りつつそれは「心が砕かれるんですよね」と胃の腑から吐くように絞り出した言葉が忘れられない。
私は以前、この在宅介護の大先輩にちょっと失礼な紹介の仕方をしたがこの場でお詫びをします。私が一方的に感じていたシンパシーゆえのことでして、ご勘弁ください。リンクありがとうございます。

さて、退院後いきなりの病気報告となったがさいわい元気を取り戻して、いつものように食欲も旺盛になってきている。点滴はこの週末は続けて月曜日に外すことになっている。
最後に笑い話を。24時間点滴体制をとるのに腕に針を刺したままだとほぼ間違いなく抜いてしまうだろうということで、動かない方の足に点滴針を指すことになった。幸い看護婦さんの腕がよかったのか、一発で針は血管に入りしっかり固定されて若い医師と可愛い看護婦さんと三人で「これで万全!」と喜んだ。で、二人が帰ってしばらくしておむつを交換しようとしてハタと気がついた。パンツはサイドが破けるので外せるが、穿かせられない。なんということだ。ハンガーに釣られた点滴とラインと悪戦苦闘しつつパジャマとパンツに通してその日はなんとか交換できた。苦境を聞きつけて、訪問に来てくれた看護婦さんが翌日緊急に前あわせのオムツを差し入れしてくれたので、なんとか急場をしのげた。入院時以外はずっとリハビリパンツでやってきたのでオムツがない。動けるようになるとオムツは極めて非効率的で動きを妨げるからなんとか買わずにすませられないかと思ったが、諦めました。以前のようにあまったらすぐにオムツをデイケアで使ってもらったりせずに、こういうことは今後もあるだろうということで常備することにした。
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いちおうこんな状態で点滴を続けている。

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晴れて老人の仲間入り [介護と日常]

連日猛暑が続く。17日祇園祭の鉾巡航日に長い梅雨が明けたようだが毎日のように37度をこえる日が続くのにはまいった。この間雨は一度だけ、20分ほど雷と共に滝のように落ちてきたが雨が上がると蒸気が立ち上りサウナのようになっただけだった。こんな夏は三年ほど前にもあったように思うが、気温が35度をこえるとさすがにきつい。

最近急に身体が軽くなってきた。どこかしこ張ったり痛んでいた箇所に痛みが無くなり、身体に薄皮のような筋肉の膜が一枚かぶさったような感じだ。とくに腰から臀部にかけてそれを感じる。

27日は妻の65回目の誕生日だった。これで、晴れて老人の仲間入りとなった。まだ以前のようにはじけるような笑顔を披露してはくれないが、昨年末のことを思うとこんな風な時間を一緒に過ごせるとは正直思えなかった。これは子供達も同じだった。ささやかなケーキだけを用意して誕生祝いをした。プレートの名前が「様へ」となっているのがおかしいけれどもそういうことはもう気にしない。喜んでロウソクもぜんぶ吹き消したし、久しぶりに家族四人でいろいろ談笑した。

ところで妻は少々夏ばて気味なのかもしれない。それに四日前の火曜日、シャワーの時にヘルパーさんにお尻から太ももにかかるところにすこし床ずれの徴候があると指摘された(発赤)。部位を確認するとどうやら車椅子や室内の椅子に長時間座ることによってできかけているようで、ベッドと椅子に床ずれ防止のクッションを用意しなくてはとちょっと焦っている。(その後すぐに、ヘルパーさんからケアマネに働きかけてくれていて昨日レンタル会社が試用品を持ってきてくれた。介護保険のレンタルでいけそうだ。ヘルパーさんたちにはほんとに助けられている)

NHKのETV特集で、胃ろうについての特集番組をやっていた。胃ろうを日本に広めた医師が、胃ろうから栄養をとりつつも意識もなくベッドに寝たきりになっている高齢者の姿を見て、これが人間本来の姿なのだろうかと疑問を持つところから始まる。そして、胃ろうを拒否して「自然死」として親を看取った家族の話や、さまざまな患者や家族、医師などとの対話を追っていくという内容だった(と、思う)。

私の考えは、この問題でははっきりしている。個体が生き延びられる条件を持っているかぎりは意識があろうと無かろうと医療的処置によって生き続けられる道を選択する(臓器移植の問題も含めるなら、私は消極的な否定論者である)。それが自然の順序だと考える。自然の順序は否応なく社会の順序に属する生や思想を浮き彫りにしていく。生きている意味や価値がどのように語られ、追求されようとも、生(なま)の生に向き合っている目の前の事実を社会の順序の価値観で覆い隠してはならない。ましてや医師に患者の人生の価値判断をする権利があるとはとうてい思えない。それは家族にだって同じ事だと思う。それはたんにその生の死を願っているだけにすぎない。
生きられる条件を持ち、生き延びられる処置をしたのになぜ寝たきりになってしまうのかという問いは、医学的な意味においても医療・看護体制の意味においても介護の意味においてもこの番組ではきれいに省かれていた。
胃ろう問題の特集番組を興味深く見たのは、胃ろう当事者の家族であり認知症の介護をしているからにほかならないが、死生観や死にまつわる文化論と医療の問題を安易に重ね合わせるのには違和感があった。
胃ろうは先進諸国ではほとんど行われていないのになぜ日本では多くの高齢者や寝たきりの人が胃ろうを行うのかという問いに対して、すでにある現実とその問いが出てくる背景には経済論的な問題があることは明かであろう。同時に、医療が先端の科学技術の衣装をまといながら、制度そのものであることを表している。
たまたまコーヒーを飲みに行った先で手にした週刊誌の特集が、死と医療問題であった。よりよい死とはなにかとかに、宗教哲学者・山折哲雄、よくテレビの福祉番組で見るさわやか福祉財団の理事長・堀田力他、医師、文化人、作家などがこたえていた。ここで思い出すのは後期高齢者保険制度が施行される前には、病院が高齢者のサロン化しているといったキャンペーンが盛んにはられていたことだ。山折哲雄や堀田力など、彼らは今こうした問題に答えるということはどういう事なのか、十分に自覚的であろうと思われる。その理由は、彼らが語る死生観はわれわれ庶民のささやかな希望をとりだして仮託しているにすぎないのに彼ら独自の思想を語るように見せかけているからだ。その手つきは迷える大衆を導く賢者の姿を借りながら「制度の中の死」を合目的化しようとする制度の代理人そのものである。
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退院後はじめての登場です。元気です、元気ですが一度ベッドの縁に座っていて前に転び顔をすりむきました。大事なくて良かったです。やっぱり目を離せないのは同じです。
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サッカーとか、ぬか床とか。 [介護と日常]

ワールドカップ
ワールドカップも今日まで(正確にいうと明朝6時過ぎには延長・PK戦になっても終わる)。四年前もそうだったがこの時ばかりはにわかサッカーファンとなる。早朝になろうがどの時間帯でも中継があればすべての試合を見てきた。日本代表は残念ながらベスト4の目標は達成できずに決勝トーナメント一回戦で敗退した。実はベスト8には行くのではないかと期待していたのだが残念だった。総じてグループリーグは退屈な試合が多かったが、決勝トーナメントに入ると俄然熱をおびた戦いが見られて熱中している。
日本代表がグループリーグを突破するのではないかと思い始めたのは5月30日に行われた親善試合イングランド戦を見てからだった。中村俊輔が欠場したこの試合でそれまでの目を覆うばかりの低迷から脱出できるきっかけが見えたのではないかと思ったからだ。いろいろな予想を立ててみるのは面白かった。そしてつづくコートジボワール戦を見たときに、もし岡田監督が中村俊輔を外す決断をして戦術を組み直すならばグループリーグでの惨めな敗退はないだろうと思った。あくまでも期待込み以上のものではなかったが、きっとリーグ突破するという予想を、期待できないと書いていたお友達ブログにコメントして本番を待った。
結果、代表の戦いぶりは予想を超えてすばらしかった。後半40分を過ぎても今までのような追い詰められた表情どころか雄々しく見えた選手たちに、守備が安定するとこうも自信をもって戦えるものなのかと驚いた。こういう代表チームを見たのははじめてだった。おそらく個々人の力は前回大会の代表の方が上回っていたのではないかと思うが、チームとしてはひとつ進歩した感を強くした。昨夜NHKのドキュメントを見ていて知ったのだが、代表でのチームの結束とか一体感とか選手たち自身が初めての経験だったと皆が口を揃えて言っていたことだった。個の力を補う組織力が日本の特徴であり強みであり文化であるとかは多くの人がさんざん浪費してきた言説だが、そんなものは今回初めて選手たちが発見するまでどこにもなかったということだ。つまり、望みばかりを語っていたことになる。
決勝トーナメントは残念だった。岡田監督は試合後、敗戦は自分の力不足だったと言ったが、それは率直な感想だろうと思った。選手交代にその限界を感じた。おそらく野球の野村なら監督のせいで負けた、あるいは監督次第で勝てる試合だったと評価するのではないだろうか。
中村俊輔はとうとう不調から脱出できなかった。この舞台に照準を合わせて怪我などで出場機会に恵まれなかったスペインから国内復帰し備えたはずなのに、代表の評価が凋落していった軌跡と中村の不調はシンクロしていた。とくに本番直前の韓国戦では目を覆うばかりだった。もともと私はこの天才的な選手のプレイスタイルがあまり好きではなかった。だが、オシムに呼ばれてからの彼には何度も目を見張らされた。しかし、巡り合わせが悪いというのかなんというのか今回唯一出場機会があったオランダ戦後半の交替で彼は局面打開どころか危機を招く始末だった。次の出場はないと思わせるに充分だった。残酷だが、彼の不調が岡田の決断を産みチームの結束をもたらした。耐えられなかったというのはまさに本音だったろう。絶頂の中村が倒れなかったオシム采配の元でこのワールドカップを戦っていたらと夢想するのは悪くない時間の過ごし方だった。
さて、今夜の決勝戦。勝敗の行方はタコ君に任せてじっくり楽しませてもらうとしよう。

妻のこと
退院時に6月中に提出した方がよいといわれて渡されていた身体障害者手帳申請のための医師の意見書を、必要書類と共に提出したのが6月28日だった。窓口で、決定が下りるのに50日ほどかかるといわれてそのつもりでいたから、ほとんど忘れていた。ところが交付決定が下りたので7月8日以降に受取に来いと通知が来た。驚いたが、なぜ申請したのかその目的を思い出してすこし肩の荷が下りた。ほかにも今年の誕生日で満65歳を迎えるのだが、介護用品の補助などが制度として用意されていることをヘルパーさんから聞いた。これらで助かる部分を訪問リハとかに役立てたいと思っている。
日常生活のほとんどに全面的な介助が必要だが、少しずつこちらの体が馴染んできているのを感じる。入浴介助も最初のうちはヘルパーさん二人と私との三人がかりだったが、ずいぶんスムースに事が運べるようになって今はヘルパーさんと私の二人で充分こなせるまでになった。これは彼女が入院時にリハビリでよく訓練されていたことも大きい。ヘルパーさんが来ないときでもちょっと娘や息子に手伝ってもらうだけでシャワーが出来るようになった。
排泄処理もベッド上で洗い流す方法を教えてもらったりとこれまた少しずつレベルアップの最中である。階段の下りはちょっとしたことがきっかけで、私一人でも下ろせることがわかった。ようするに、べつに立って下りる必要なんてなかったのだ。ただ、よく雨が降るのでまだなかなか外に出られないけれども。予想したとおり、妻も落ち着いてきてときおり笑うようになってきた。そこで、今月に入ってから週一回デイケアに行ってもらうことにした。お迎えが来たとき、私と妻がすでに階段の下で待っているのを見て職員の方が驚いていたがそれを見て彼女も嬉しそうに笑って問題なく出かけてくれた。逆に今度は上りの方がたいへんで、上まで上がると介助の人も妻も汗だくである。
以前に加えてすることが格段に増えたが、(とくに洗濯はちょっと以前と比較にならないほど増えた)目を離すと何をしでかすかわからない(確実に以前はなにかをしてしまっていた)状態から解放されて、まるで治まるべきところに治まったような生活となった。眠いときには寝られるし、妻を一人置いて食事の買い出しにも出かけられる。絵を描いたり本を読んでいる横で私も本を読んだり出来る。制御できない突き動かされるような衝動の気配を感じるときはある。だがその瞬間彼女は自由に動けない自分の枠組みである身体に気づかなければならない。そうしたときの妻は私のことに気がついてくれる。そして優しい。私も以前よりずっと穏やかに接することが出来る。ギスギスしたり破壊的な衝動に駆られることもない(今のところ)。
肘が痛んだり、身体のどこだといえない鈍い重さや痛みがあるがきっと三ヶ月もすれば私の身体は今の生活にふさわしい身体に変貌すると思う。

プランターの野菜
ベランダを少し片づけてキュウリと茄子、トマトそれに鷹の爪の苗を買ってきてプランターに植えた。キュウリは順調に育ち収穫できている。茄子は最初は花は咲けども実をつけてくれなかった。10日ほど前から米のとぎ汁をやるようになってから急に実をつけはじめた。単純に土に栄養がなかったのかもしれない。キュウリや茄子が実をつけていくのを見るのは初めてだったので毎日観察して楽しんでいる。面白い。鷹の爪も立派に成長している。問題はトマトである。これで三年目になるがまともに出来たことがない。苗の当たりが悪いのだろうか。ネットでtamiさんにアドバイスを受けたりしたが花ひとつ咲く気配もない。苗が悪いとの結論に達し植え替えようと思ったがいざ抜く段になるとどうも忍びない。この展開は過去二年と同じである。枝芽も放置してそのまま成長するに任せている。元気はやたらあるのだが今や雑草と化している(苦笑)。だけどベランダの緑として十分に役割を果たしてくれている。自家製のトマト、鷹の爪、バジルで手打ちのパスタをつくる夢は来年までとっておこう。

ぬか床
6月17日をぬか床記念日とした。冬を越えたぬか床はいまや堂々とした漬け物を提供してくれている。やっと納得する味になった。人参、キュウリ、茄子、こかぶ、大根と日々食卓を飾る。毎日ぬか床に手を入れるとなんとなくだが調子がわかるような気がするから不思議だ。塩や糠、辛子に昆布やカツオ節、椎茸などを状態に応じて足したり、時には大がかりに手を加える。
やむを得なかったというありきたりの言い訳を口にしつつ、台所は妻から奪った領土である。奪ったからには守らなければならない。そして奪われた者の中で「新たな台所」を実現することでしか問題は解消できない。ぬか床はそんなわが家の事情の象徴となりつつある。
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最後の報告 経過22 [介護と日常]

昨夜は緊張で疲労してしまい、退院報告をすぐに書けなかった。あらためて、みなさんありがとうございました。無事帰ってまいりました。

朝10時までに退院するようにと言われていたのですが、先生の事務処理が長引いて結局病院を出たのは10時半を過ぎていた。スタッフの方や仲のよかった患者のみなさんに一通りの挨拶をしてから階下におり、リハビリの先生方にも挨拶をして病院を後にした。福祉タクシーを予約していたので、車椅子のまま車に乗り込み家に到着。その後、すぐに家に上がらずに、家の周囲をぐるりとまわってスーパーで買い物をしてから家に上がった。
最初の難関の階段上がりは、こちらも緊張して体に力が入り途中でどうなるかと思ったが、妻の頑張りでなんとか上がりきった。ここは勝負所だと思ったのだろう。増設した手すりも上手に使って二人ゼーゼーしながらやっとこさ室内用の車椅子に。
冷たいお水を飲んでひと息ついてからスーパーで買ってきたお寿司を食べた。食後しばらく車椅子のまま休んでいたが、コックリしはじめたのでベッドに横になるとすぐに寝始めた。私も畳の上にそのまま二時間も寝てしまった。目覚めると、いきなり筋肉痛の初期症状が首や足腰に出ている。これは扱いになれるまで仕方がない。

目覚めてからは車椅子に移動してしばらく外をじっと眺めていた。私が植えたキュウリの花や茄子の花を飽きもせずに眺めている。妻が乗りこえて落ちたベランダの柵には遮蔽板が取り付けられていた。この遮蔽板を六月に取り外した。白い乳白色のアクリル板なのだが、ふとこれがなくて眼下との距離が測れていたらここを乗りこえようとしたりしなかったのではないかと思ったことも理由のひとつであったが、この遮蔽板を取り外した事によって、まったくあらたな環境が出現した。
この家は、すくなくとも二階はすばらしく風通しのよい家だったのである。昨年まで、夏に窓を開けておくことなんて考えられなかった。尋常ではない暑さは、ベランダの下にある駐車場の屋根の照り返しだとばかり思っていたのだが、それは違った。遮蔽板が温室のような役割を果たしていたのだった。それに屋根が冷える夜になっても通り抜ける風を全て塞いでいたのだ。気持ちのよい風を感じながらじっと外を見ている妻はずっと不機嫌だった。

夕食の後、仕事帰りの娘がお祝いのケーキを買ってきてもその不機嫌さは続いていた。その後深夜に及ぶ三度の排泄で不機嫌の事情が飲み込めた気がした。家に帰るということは自分を不慣れな素人にゆだねることでもあるわけで、遠慮やもろもろを含めて不安と向き合っているのだろう。hanaさんのコメントにも退院に際しての不安に触れられていた。夫婦、家族が手を取り合って自宅に帰れたことを喜び合うという絵に描いたようなシーンではなく、妻の不機嫌によって、これから始まる生活の実相から始めよと示されたことはなによりだと考える。これまでもいつもそのようにして具体を示してきたことを忘れないようにしたい。

一夜明けた朝、とうとう始まったなという感じ。私への信頼と安心が確認されときに妻の不機嫌が時々の笑顔で塗り消されていく過程を歩むのだろう。朝食後の短い室内歩行訓練では、介助をする私が汗だくになって終わった。いろいろな局面での介助は慣れなくてなかなか大変だが、おおむね想定の範囲内である。少し慣れてくると無駄な力も抜けてくるものと思われる。私はだいたい昔から不器用で、なにかを始めると一定のレベルに達するまで人より時間がかかった。でもいったんそこに達するとそこそこのレベルを実現できてきたので、今回もそれを自分に期待している。

ということで、これまで続けてきた経過報告をいったんここで終えたいと思います。書かなかったことはたくさんあるけれども、入院から退院にいたる大枠はそれほど漏らさず書けたと思います。長い間妻と私への声援ありがとうございました。大げさな同情や歯の浮くような美辞麗句など縁のない、皆さんの静かで力強い応援はほんとうに心に染みました。これからはまたぼちぼちと日々の徒然や大きく修正を余儀なくされ難破船のように彷徨している思考の足跡なども勇気を持って文字にしていきたいと思っています。
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退院は21日 経過21 [介護と日常]

先週の木曜日、入院している病院に関係者が集まって退院後のサポートについての関係者会議がおこなわれた。病棟の担当者、主治医、理学療法士、作業療法士、言語療法士などから妻の現状の報告があった。在宅をサポートする側からはケアマネージャー、通所リハビリ、ヘルパー派遣事務所、福祉器具レンタル会社とけっこうな人数となった。
退院日は今月21日。当初は15日の予定であったが手すりの取り付けとかの改修工事の段取り、私の都合などからこの日に決まった。
何しろやってみないことにはわからないので、当面は入浴介助を週三回1時間の身体介助で様子を見つつ、私の側からの要望が出てきた段階で検討するということでお開きになった。もう一つ、病院に対する私の要望として退院までに階段の上がり下りと、浴場での移動に関するアドバイスがもう一度欲しいと訴えたところ理学療法士さんと作業療法士さんがスケジュール調整して時間を取ってくれることになった。ヘルパー派遣事務所の方もぜひその時にあわせて自分たちも参加したいと申し出てくれた。

そして、完全に夏日となった今日(木曜日)午前、階段の上り下りやリハビリ室に浴室の環境を摸したセットを配置して手すりをどの手で掴むか、どの足から進めるか、介助はどの位置に立つかなどを実際に妻を相手に検討を加えながら体験してきた。
リハビリ室には半年ぶりに会ったヘルパーのMさんとTさん。懐かしかった。妻も何となく覚えているようで警戒心はまったく見せなかったし、入浴後であったにも関わらずけっこう張り切ってすすんで協力してくれたのだった。PTのK先生も「今日はお風呂の後なのに頑張ってくれましたねえ」と感心しきりであった。

ヘルパーのMさんとTさん、それに事務所の責任者のたぶんKさん(じつはこの人のことはよく知らないというか覚えていないのだが何度か途中交替とかで家に来てくれていたらしいのだ)達は最初は大変な介助になるかもしれないというような不安げな表情だったが、実際に体験や検討に入るとがぜん積極的になっていろんなアイディアも出てくるし、上手くいくと拍手も出て妻も喜んでいる。力強い限りだ。その点私などは情けないもので、こころのどこかに「最後は頭突きというか腕力で解決するしかない」と諦めてるところがあり、これはそのまま自分が年をとると何も出来なくなることを前提にした敗北主義者のようなものだ。いや、そりゃあ私だって実際の介助に関して三好春樹のビデオやなんとかという偉い先生の古武術を応用した介護とか勉強はしましたけどね。知恵を出すということは身体を張るということなんですね。智恵がなければ身体も張れないわけでして、彼女たちのたくましさに猛省をしました。

短い時間だったが退院後に希望が持てる内容で終えることが出来た。そう、これが大事なんだよなあと思った。以前記事にも書いたが、初期の段階で介護者に充分な知識があれば目前の地獄のかなりの部分は回避できると私は今も確信している。
ヘルパーさん達に「遠いところ、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。ところで今日はなんで来たんですか」と聞いたところ、なんと三人とも原チャに乗って来たのだそうだ。Mさんが「そう、みなの迷惑も顧みず三人で東大路を流してきましたのよ、おほほ!」恐るべし、ヘルパー原チャリ団。彼女たちの労働に充分な見返りあれと願う。
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一時帰宅 経過20 [介護と日常]

本日、雨が降るなか、理学療法士さんとともに妻が一時帰宅した。約半年ぶりの帰還だった。
午後二時を過ぎるとケアマネさんや業者さんたちと話をしつつ、ちょっとソワソワして帰りを待った。ほどなく玄関のチャイムが鳴り妻が帰ってきた。ドアを開けるとちょこんと車椅子に乗った妻の姿が現れた。おかえり!と声をかけるとにっこり微笑みながら「ただいま」と言って入ってきた。

まず、理学療法士さんの介助で車椅子から降りて階段に向かう。途中直角L字に曲がった全部で15段の階段を一歩ずつ約9分かけて上がった。両手で手すりをつかみ、左足をまず階段に乗せ次に右足を引き上げるように乗せる。この時に右足は階段に乗せられないので、後ろから抱えた介助者が自分の足を右足裏に差し入れて段差の上に乗せる。これの繰り返しだ。両手で支えていると右足でも突っ立っていられるので、左足を次の階段に乗せることが出来る。だが、バランスがとりづらくグラグラするので介助する側もよほど慣れないと危ない。
階段を上がりきったところで体力を消耗してしまい、踊り場で腰掛けてしばらく休憩をしてから、ようやく部屋に入った。居間のテーブルに腰掛けてやっと落ち着く。

リフトの問題 構造上右側取り付けは難しい。左側側壁はかなり補強が必要となる。費用面でどうかというのが業者の見立て。
室内の移動は室内用の車椅子で。外出には外出用の車椅子を用意する。トイレはポータブルで対応。お風呂はユニットバスなので手すりがつけられない(これは最初の改装時の時に確認済み)。入浴は夏の間はシャワーチェアを手すりの代わりに使って移動できるようにリハビリに加えることとし、秋口には浴槽リフトを設置する。これは座るとそのまま浴槽の中に座ったまま沈むというもので、ユニットバスにも取り付けられる。

いろいろな検討が専門家の人たちの間で約2時間続いた。ときおり希望を聞かれるがたいしたことは言えない。なにせ、やってみなければわからないことだらけなのだから。
浮上した問題点は、手すりが片手の場合極端に不安定になる。階段の右側面のL字に折れた方向の手すりが切れている問題をどうするか。構造的にそこが鉄筋なので手すりはつけられないので、つっかい棒で固定して手をかける部分をつくる。次に上がりきったところの壁の部分につかめる手すりをつけることに。階段を上りきった踊り場から居間に入るところに段差があり、そこをスロープで埋める。
風呂場は脱衣所から浴室に入るときの段差があるので、入り口の部分に手すりをつける。その手すりをつかんで左手でシャワーチェアを支えにして段差を越え、座る。秋に浴槽リフトの設置。これは今の段階で(妻の身体能力)浴槽に入れてしまうと立ち上がれないからだ。一度全身が萎えた状態の時に風呂に入れて苦労したことがあってこの事は記事にも書いた。その時はバスタオルを体に巻き付けて引っ張り上げたが、それはもう重たかった。自宅での入浴を前提にしているので、浴槽リフトは大歓迎である。

以上が、今回の検討の結果だった。
さて、引っ越しかどうかの二者択一を迫られていると今まで書いてきた。だが、お気づきのように検討が始まった時点でリフトの設置は選択肢から無くなっていたようだ。まあ、そういうことだろう。答はこちらの決断ではなく外部からやってくる。それを受け入れるというのが解答だった。受け入れた上で新たな方向性に向かう。

病院に帰る時間になった。家から出て行くというのが理解できなかったようで、ちょっとだけ動揺する表情を見せた。さて、階段を下りるのはさらに難しかった。理学療法士さんはこの上がり下りを通じてどのような介助が必要かの最初のレクチャーをしてくれたわけである。階段の下りはまず最初に不自由な右足から下ろして体を支え、次に左足を下ろす。これの繰り返し。だが、上がりと違って後ろから右足を介助者一人では前に押し出せない。二人が必要になる。一人は後ろから体を支え、もう一人は前で右足をつかんで一段下ろす。面倒くさそうだ。たぶん、実際には家族がいる場合を除いて自分がやる場合はおぶるだろうな。一回り小さくなったとはいえ、元が重いのでこれからスクワットでもして体を鍛えなければと思ってハタと自分の年齢が気にかかる。

タクシーがきて、苦労して乗り込んだ妻に手を振ると一瞬抵抗を示して下りようとした。すぐに追いかけるからと言うと不信げな視線を向けながら雨の中、病院に向けてタクシーは走り去っていった。

今後の予定では退院前にもう一度検討会を開く。その上で退院ということになる。ケアマネから言われたのは、今までの買い物とかその他の生活援助は使えないので、入浴介助一時間を週に三回。その他をデイケアとかデイサービス、ショートステイなどで埋めるということになるらしい。私としては、当面入浴介助以外のサービスは保留した。
ショートステイはまず論外。利用者皆さんが以前より元気になって帰ってきますということになれば考える。
デイサービスは今まで利用したことがない。デイサービスでは入浴が出来るが、まあ風呂はゆっくり入れた方がよいだろという勝手な思いこみだ。
いずれにしても、介護が必要な人は千差万別で、自分で選択的にサービスを選べない現状では、許されるサービスの範囲の中で勝手を貫くのが最善だと思っている。サービスが無ければ無いでこれまたかなり大変だ。そこで週三回一時間の入浴介助を受けながら、ペースをつかんで以前のデイケアに週一回か二回利用できるようになればいいなと思っていることを伝えた。

わが家のケアマネさんはどちらかというと、制度の代理人的性格が強い女性の方で介護保険改正の時にはかなりぶつかった。すぐに契約を打ち切ろうと思ったが、それですんでしまえば面白くないから疑問などをぶつける相手としてつき合ってもらった。結果的に改正前と同じサービスを継続してもらえることになった。今回、約半年ぶりに会った彼女はなんとなく今度は以前のようには行きませんよという決意を秘めているようで、もう一度私も介護保険や身体障害などのサービスについて勉強しなおして、疑問をふっかけつつ楽しませてもらうつもりだ。
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経過19 [介護と日常]

昨日、主治医と三回目の面談。退院を具体的なスケジュールにのせたいがということだった。最近ちょっと入院生活に疲れが見え始めていると感じていて、そろそろ限界かなと思っていたので大歓迎であった。そこで、来月15日を退院予定とすることになった。来週の水曜日に病院の理学療法士さん、介護士さん、設備業者さんとともに妻も一時帰宅して家の様子を調査してくれることになった。家の調査が済むと、妻は家の状況に応じたリハビリに集中させるという。

面談が終わった後、面白くもなさそうに塗り絵をしている妻のところに行った。私を認めてもなんの変化も見せない。もうそろそろここも嫌になったのではないかと聞くと手を止めずに「我慢してるんや」と言った。やっと家に帰れそうだと伝えると最初は興味なさそうに「ふーん」という返事だったが、だんだん嬉しそうな顔になってきた。昼食時にはすっかり元気になって張り切っていた。

病院から帰ると久しぶりにケアマネさんから電話が入った。病院からケアマネさんに連絡してくれたようで、ケアマネさんはケアマネさんでヘルパーステーションやレンタル会社の担当者に連絡してくれていて、水曜日に今後の検討をしてくれることになった。

私自身、これから今までに加えて何が必要かまだ具体的なイメージはつかめていない。サービスを使い始めた頃にはすでに一定の時間経過があったので、その経過の中でたいがいのことは経験していたので改めて知るようなことはなかったが、今回は専門家の人に教えてもらわねばいけないことがいろいろあるだろうと覚悟している。

悩んでいたことは、状況説明そのものが解答であることに気がついた。
つまり、リフトの設置か引っ越しかということなのだが、現状復帰が難しい改修は駄目なので専門業者にどの程度の補修や改修で設置できるかを判断してもらい、可能であれば設置する。不可能であれば引っ越しする。これがまず単純な答え。この答えに関わる諸問題は、まあ別に本質的な問題ではない。だけど、この本質ではない部分に翻弄されるのが生活というもので、これはいろいろ悩みながら解決の過程を楽しみましょうということになるだろう。そろそろこの経過報告も終わりに近づいてきたのを実感する。振り返ると、ここまで恢復してくれるとは正直思っていなかった。妻は新たに身体の不自由を抱えてしまったけれど今はまた一緒に生活できることを喜びたい。
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母の日に 経過18 [介護と日常]

今日は母の日だった。午後になって娘と一緒にカーネーションを持って病院に行った。
病室にはいると昼寝中だった。というか日曜日にはリハビリもないのでベッドで寝るしかないのだろう。
娘が「おかん!起きて!」と起こす。まったく、品性のかけらもないわが家である。
熟睡中だったようで、妻は「ああ、 お き ま す」と不機嫌そうにもそっと目を開けた。「ます」の語尾を上げるような調子は昔から不機嫌なときの口調だ。
そのねぼけ眼の前に花を差し出すと「うわあ!ほんまに〜!ありがとう!うれしい!」「きれいなカーネーションやね!」とちょっとびっくりするような明確ではっきりでしかも大きな声で喜びをあらわにして、その喜び方にたじろぎながらも逆に感動させられてしまったのだった。

つい最近、こんなことがあった。天気も良いので病院の周りを散歩した。住宅街を周りながら植えられている花の名前を聞いた。その花は芝桜だったのだが妻はなんの淀みもなくこう言った。「ああ、これは『百年の女神』やな」って。思わず吹き出さずにはいられなかった。いったいどこからそういう言葉が出てくるのか不思議でならない。ただ思うに、こういう反応は日常の不便を埋めるために防衛装置を強化している結果ともいえるわけで、かなり精神的には内向きの状態が続いているのだろうと考えると不憫だった。

ベッドから出て病院の屋上に上がり給水塔の影のベンチで気持ちの良い風を楽しんだ。如意ケ嶽の大文字が手を伸ばせば届きそうなほど近くに見える。妻は空を見上げ、雲の動きを追った。
今日は抜群の日だ。
空の雲を追い、山の緑を追うなんて怪我をする前にもなかったことだ。
私もベンチに寝転がって空を見上げた。かつてこんな風に吸い込まれるような空をただじっと見つめたことをもう忘れてしまいかけていた。
屋上の隅に置かれている枯れかけた花や雑草が生えている鉢に一緒に水やりをしながら記憶に残る日になるだろうと思った。
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経過17 [介護と日常]

五月、さつき。家の横の狭い路地を抜けると少しだけ広い路地に繋がって通りに抜ける。その少し広い路地の横にマンションが建っている。そのマンション一階の敷地から路地に向けて藤棚が伸びてきてすでに房は小さいながらも花を咲かせている。同じ敷地に決まってこの季節に路地に向けて枝と葉をのばす木があった。ずっと不思議な木だと思っていた。あれは葉なのか花なのかがわからない。紅葉のような色でもあり、もう少し淡く沈んだような色の葉のような花びらの中に花弁のようなものが見えるのできっと花なのだとは思っていたが、ずっと気持ちが悪い木だと思っていた。冬が終わろうとした頃に枝についた葉だと思っていたものが色づきはじめ、花のように丸まり始める。普段の姿が擬態なのかそれとも時を見て花の擬態を演じるのか。山が新緑で盛り上がり、充満する青臭い生の匂いに押しつぶされそうになりながらその擬態のような花を拒絶するように通っていた。
これが「ハナミズキ」の花であると知ったのはhanaさんのブログでだった。薄い黄色と薄い緑の色が混ざった花は紛れもなく路地に覆い被さるように咲く紅葉の色を淡く沈めた赤い花と同じものだった。不思議なことにあれがハナミズキだったのかとわかったとたん、路地が親しげな道に戻った。

ぬか床が冬を越した。まもなく一年になる。冷蔵庫での保管はしなかった。寒い日が続くときには三日に一度凍り付きそうになりながら混ぜた。だが野菜は漬けずに冬ごもりをさせていた。四月に入り、糠と塩を加えて新たに捨て野菜をいれ馴染ませた。ほどよく漬かり始めた四月の終わりにキュウリとこかぶを病院に持っていき、妻に食べてもらった。口に入れてポリポリ音を立てた後やっとこちらを見て「おいしい」と言ってくれた。
病院での妻はもはや堂々とした古株で、食堂ではまるで牢名主のような威厳さえ発揮している。ご主人にはいつも苛立ちを隠さずに大声を上げるおばさん(おばあちゃんではなかった)が本格的に妻の正面に座るようになった。そして、ほとんど食事を口にしないほんとうに小さくて、重い認知症のおばあちゃんが右隣の席に座る。小柄なおばあちゃんは自分に配膳された夕食をいつも周囲の人の前に置いたり引いたりして周囲から咎められ、最終的には隔離されるのが常だったが、いつの間にか私には理解できない交感が妻との間に出来ていたようで、いつものように妻の前に自分の夕食の器を並べ始めたとき妻が目で語りかけるようにして顔をしゃくると、おばあちゃんは自分で自分を指さし、それから特別に小さなおにぎりにされているご飯を食べ始めた。介護福祉士さんもおばあちゃんが食べ始めたことに驚いている。妻と正面のおばさんがお互い目配せしながらその様子を見て笑みを交わしている。その時気がついた。重度の認知症のおばあちゃんと妻、そして体の自由と言葉を失ったおばさんとの間で濃密ななにかが生まれていたのだ。そういえばおばさんは相変わらず怒りっぽいが食堂では以前のような大声を上げることは少なくなった。苛立つおばさんが声を上げると妻がちらりとおばさんを見る。おばさんは苦笑混じりに妻に謝る。それとは別に、妻がおかずを食べずにご飯ばかり食べているとおばさんが動かしづらくて震える手を伸ばして、おかずも食べなさいと勧める。妻は素直に従う。
そう、いつの間にかただのうめき声にしか聞こえなかったおばさんの言葉がかなりわかるようになってきた。右隣のおばあちゃんのか細い呪文のような言葉も聞き取れるようになっていることに気がつき、まるで私を含めた四人がずっと前からそうであるように夕食のテーブルを囲んでいるような気持ちになる。だが、五月に入りおばあちゃんの姿が見えなくなった。妻は何事もなかったかのように夕食のテーブルに着く。すでに妻にはおばあちゃんの記憶はない。

昨日少し嬉しいことがあった。正面に座るおばさんが私の姿を捉えると不自由な手で手招きして、となりに座る若い男性を指さした。「わたしのむすこ」だった。わざわざ紹介してくれたのだ。「こんな立派な息子さんがいたんですね」というと、嬉しそうに笑う。それから言った言葉に吹き出した。「いやあ、パーですねん」息子さんも思わず笑いながら「そりゃあ、仕方がない。お母さんの子だもん」と返す。妻もおかしかったのか私の顔を見ながら笑っている。おばさんはご主人の介助でもヘルパーさんの介助でもなく、息子さんの介助でめずらしくほとんど残すことなく食事を終えた。きっと自慢の息子さんだったのだろう。ちょっぴり幸せそうな夕食風景だった。

いきなり初夏のような暑さになった。上着を脱いだ病院帰りの夜風が快い。家に帰ってから七ヶ月ぶりに素麺をゆがいた。おいしかった。ところで、妻が倒れる前富山で買ったうどん玉のように丸く固めた素麺がそれまで味わったことがないおいしさだったことを思い出した。ネットで調べるとまちがいなく「大門素麺」のようだ。
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経過16 [介護と日常]

昨日(木曜日)四日ぶりに病院に行った。三日間何をしていたかというと、床に伏せっていた。ぎっくり腰でもなく久しぶりの風邪だった。わが家での風邪の震源地は決まって娘である。職場がはやり風邪の最前線ということもある。家のドアには大きな字で「うがいと手洗いを忘れるな!」と張り紙してある。もちろん、娘限定の張り紙で名指ししてある。
ところが、妻が入院してからなんとなくこの決まりも曖昧になっていた。娘がどうやら風邪をひいたらしいと言い始めたのが先週の土曜日の朝だった。その時から娘は居間に居座った。自分の部屋に行って寝ろと言っても聞かない。息子はこのパターンを熟知していて、食事が終わるとさっさと自分の部屋に逃げ込むか、職場に行く。私は娘に居座られると逃げ込む場所がない。何故自分の部屋でおとなしく寝ていられないのかとなじるのだがどこ吹く風のように「具合が悪いと一人では不安になったりするでしょ。そういう繊細な気持ちがわからんのかなあ」なんて憎まれ口を叩く。月曜日の朝になると娘は「よーし、間に合った。やっぱり気合いと根性やなあ」と言いながら仕事に出かけていった。

息子はこの水曜日から京都大丸で自身初の個展を開いている。といってもあまり良い場所ではないそうだが準備も含めて気合いが入っていた。娘の風邪から身を守るには「とにかく近くにいないことと、後は気合いやな」と同じようなことを言う。だが、逃れられない私に同情してくれる分、娘とは違う優しさを持っている。
わが家は知性と教養には縁がない。話がこじれると行き着く先はたいがい気合いと根性である。私はこれを「miyata家の頭突き主義」と名付けている。いや、そんなことはどうでもよい。娘が出かけた後私に変調が出た。咳が出始める。熱っぽくて喉が痛い。頭痛もする。とても起きてはいられなくなった。夜になって電気も点けずに寝ていると9時過ぎに帰ってきた娘がえらそうに「ちゃんと薬のんだんか。なんでそんなに薬が嫌いかようわからんわ」と言いながら部屋の電気を点ける。これが痛く感じて耐えられない。大声を出す元気もなく「頼むから電気を消して見えないところに行ってくれ。喋りかけるな」と言うのがやっとだった。
ひどい状態は火曜日まで続いた。水曜日にはずいぶん楽になっていたが病院に行くのは控えた。

病院に行くと、いつもは無表情な妻が珍しく穏やかな表情で迎えてくれた。久しぶりだということは何となく理解しているのだろう。食堂を見渡すと顔ぶれがガラッと変わっているのに驚いた。顔がわかる人が10人ほどしかいなくなっている。介護士さんに聞くと週明けから三日間で入れ替わりが多くて自分たちも混乱しているところだという。
夕食が始まり妻のお膳を見るとおかゆから普通のご飯に変わっている。「おお、やったね。また一歩前進やね」というと嬉しそうに笑っている。食後二人でティラミスをいただいてから、八時過ぎにずっしりと重い洗濯物を持って病院を後にした。

先週の金曜日、主治医と二回目の話が出来た。わずかずつだが、体力や自発性に向上が見られるということだった。が、結論的には自発的な歩行の可能性はゼロ。車椅子とベッドでの生活がメインになるであろうということだった。居住空間が二階から始まるということもあり、これからのリハビリは階段の上り下りが介助することを前提にどれだけ改善できるかが目標になるということを告げられた。それから、専門家でも今の状態では難しいので階段にリフトをつけることを強く進められた。引っ越しかリフトか。ほんとうは引っ越しがしたい。少しでもいいから土が見えるところに住みたい。ま、それは贅沢な悩みかもしれない。しかし、リフトをつけるにしても出費は深刻なものになる。選択肢が多いほど、悩みが深くなる。頭突き主義は明解ではあるが、過去最適解を選択したことは少ないのが難点だ。が、家に帰ってくる日が具体的になりつつあるというのは嬉しい。
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経過15 [介護と日常]

暖かかったり寒かったり。昨日、今日と寒の戻りのようで上っ張りなしには外に出られなかった。ここしばらく病院へはあまりの人出にバスで通うのを止め電車を利用して病院に通っている。出町柳駅から病院まで歩いて15分ほどかかるが散歩がてらに歩くのにはちょうど良い距離でさほど苦にならない。桜はようやく終わった。妻とは病院の近所にある百万遍知恩寺と京大の農学部に行ってそれなりに堪能した。

妻の右足が少し動くようになった。先週の金曜日、久しぶりに病院通いを休んだ。その日は娘に行ってもらったのだが、帰ってきた娘がお母さんの右足が動くって知ってた?と訊ねてくる。全然知らなかった。太ももを持ち上げられるというのだ。さっそく翌日病院に行って妻に動かせられるかを確かめると、何を今さらというような顔をして「動くよ。何をいうの」というので、やってもらうとたしかに座った状態で右足を10センチほど持ち上げられる。リハビリ室で先生に聞くとちょっと持ち上げられるようになりましたねえと言って、今日はお父さんも来ていることだし、まだ歩けないけれどもひとつ階段に挑戦してみましょうといって階段上り下りに挑戦した。もちろん、全面介助なのだが八段の階段の上り下りを二回往復した。
周りからも声をかけられるし、拍手なんかをされて妻の顔も晴れ晴れしている。けっこうおだてに乗りやすい性格だったのである。せめて、杖か歩行器を使えば短い距離なら移動できるようにならないものかと願っている。

食欲も旺盛で、残すことはほとんど無い。たまにケーキなどを食後に持っていくことがあるがそれも全部食べる。今週はタケノコご飯を炊いたので少しだけ持っていったが、夕食を全部食べたうえにタケノコご飯も全部食べた。今回の事故でずいぶん細くなったが、栄養状態は悪くなく今のところ床ずれの心配もないということだ。

なにかの拍子に突然不機嫌になるときがある。そうなると何を言っても無視するし、例えば食事の手助けをしようとすると拒否される。こんなことはずっと前からあることで、なにがきっかけに不機嫌になるのかなあと思っていた。突然不機嫌になってやることなすことに抵抗されたり拒否されたりするとこちらも腹が立ってくる。
つい最近食事中にまたかという感じで不機嫌になり口をつぐんで食べなくなった。一定時間を過ぎると忘れるので再開すると食事は全部食べるのだがその時はたまたま「なんで?」と聞いたら理由を話してくれた。「仕事場で私が仕事しているのにあんたが意地悪したり、悪口を言うから」という。いつのことだと聞くと「今よ!なんでそんなこというの!あんたはひどいわ。あきれるわ」といきなり私は大悪人になっている。ここは家じゃなくて病院だよというと、「誰が病院に?あんたおかしいわ」とさらに続ける。肩を叩いて「周りを見てごらん。病院でみんなと一緒にご飯を食べてるよ」と言うとやっと周りを見渡してぽかんとしている。

少し事情が飲み込めてきた。彼女はなにかをきっかけにして、半分眠った状態になっているのだと思われる。今までこういう状態をたんに妄想と片づけていたがもう少し身体的な条件に近いところでこうなっていることがわかったように思えた。これはちょっとした発見だった。昨日も食事中にそうなったとき、試しに瞬間目が覚めるようなきっかけを与えて違うことに注意が集中するようにしたら、すぐに復帰した。やったことは単純で肩をポンと叩き小さく鋭く「アッ!」っと違うところに視線を移したら、それにすぐに反応して私の視線の先を見た。その後は何事もなかったように食事に集中できた。

夢の中での私はなぜいつも不機嫌な思いにさせる存在なのかということは問題として残るものの(苦笑)、今までもこういう事はわかっていたはずなのに、なぜ今さら気がついたのかというと、それは今まではきっと解釈の世界で格闘していたからに違いない。だから、目の前の実態と重ならなかったのだ。
たくさんのことが悩みの種で時間と労力を費やしてきた割りにはあまりにもささやかな発見だが、まあそういうものだろう。器質に拠るもの幻想に拠るものという腑分けは細分化すればするほどいずれ破綻すると思うし分断線を追求するだけの作業かもしれないが、私にとってはこんな風に<異常>の仮面を剥がして極小化していくか、私も含めてすべての人が<異常>だと言い切る以外に私が考える介護生活を生き延びられないと思っている。もちろん、私のような立場は進行性の脳障害を負われている方の介護には無効であるだろうことは承知している。

あいもかわらず蛸壺の中だがいずれ水面に出てなにごとかを語れる日が来るかもしれないし、そのまま水面下で一生を終えるかもしれないが今のところそういうことは私にとって重要課題ではない。
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胃ろうを閉じた 経過報告14 [介護と日常]

ブログの更新をかまけているうちにもう四月に入った。雪が降ったり、雨が続いたり安定しない日が続いているが、それでも市内の桜はかなり咲き始めている。木屋町沿いの桜はこの週末に満開になるだろうし、鴨川沿いの桜も来週半ばには見頃になるのではないだろうか。
妻の様子だが転院後一ヶ月が過ぎ、病院から評価と計画書が出た。

認知機能障害: HDS-R(改訂 長谷川式簡易知能評価スケール)3/40 MMSE(認知機能検査)11/30

(※重度の認知症の判定だが面白いことにMMSEは過去最高点である。認知機能と意識は怪我をする前とほぼ同程度の状態を維持している。)

運動障害:BRS(右):上肢Ⅴ、手指Ⅵ、下肢Ⅱ〜Ⅲ

(※麻痺が出た右半身だが、手の方はある日救急病院のベッドで突然動かすようになってからずいぶん回復した。転院してから箸も使えるようになり、今ではこぼしたりする失敗も格段に減ってきている。これはまだ回復する余地ありと思える。右足の方は評価のⅡ〜Ⅲのレベルがどのレベルを指しているのかわからないが、ほとんど動かせない。ただし、わずかに筋肉が反応しているのはわかる。)

感覚障害:精査困難

(※これは、まあ話が通じないので仕方あるまい(苦笑)。)

筋力低下:握力:右9.0kg 左9.6kg
     MMT:上肢 右4 左3+〜4 下肢右2 左4

(※麻痺が残る右手の握力が記録出来たことが驚き。左の方は悲しいまでの低下。だいたい左右35㎏ほどあった。これは職人さんだったせい。土をこねたり揉んだりはかなりの力仕事だったのだろう。ちなみに私はほんの6年前には握力右70㎏ 左68㎏あったが今年測ったときには右45㎏ 左42㎏しかなかった。50㎏を切ったのがショックだった。ま、これは関係ない話ですが(^^ゞ)

基本動作 寝返り   :一部介助
     起き上がり :一部介助
     坐位    :一部介助
     立ち上がり :一部介助
     立位    :一部介助

(※ようするに、手助けすればなんとかその姿勢をとることが出来るということ。)

短期目標
<理学療法>右下肢支持性向上、筋力向上、立位安定性向上、基本動作能力向上
<作業療法>右上肢の随意性向上、筋力向上、認知機能の向上
<言語聴覚療法>明瞭度、声量の向上、嚥下能力の維持向上
具体的アプローチ
<理学療法>神経筋促通、筋力、立位・歩行 耐久性訓練実施
<作業療法>神経筋再教育訓練、筋力増強訓練、認知訓練
<言語聴覚療法>発声、構音訓練、口腔機能訓練

日常生活動作 食事        5点(一部介助)
       移乗        
        座れるが移れない 5点(坐位可)
       整容        0点(全介助)
       トイレ動作     5点(一部介助)
       入浴        0点(全介助)
       平地歩行      
        車椅子操作が可能 0点(全介助)
       階段        0点(全介助)
       更衣        5点(一部介助)
       排便管理      0点(全介助)
       排尿管理      0点(全介助)
       合計(0〜100)  20点

(※ここの評価が退院後の二人の生活と私を規定する重要項目。うーん、このままだと下手をすると寝たきりにさせてしまって褥瘡とかの心配をしなければならないような生活になってしまう。世話をしながら元気になる方法というやつを発見しなくてはいけないなあ。寄合所みたいなのを始めようかな・・・)

コミュニケーション その場のやりとりはだいたい可能だが、辻褄の合わないこともあり
活動度(安静度とその理由、活動時のリスクについて) 発動性低下しているが、坐位時など転倒のリスクあり

短期目標
<理学療法・作業療法>食事動作、排泄動作の介助量軽減
<言語聴覚療法>コミュニケーション能力の向上、安全な食事摂取
具体的アプローチ
<理学療法・作業療法>食事動作訓練、排泄動作訓練を行います。
<理学療法・作業療法>コミュニケーション訓練、口腔機能訓練を行います。

(※ありゃりゃ、ここでは途端に威勢がなくなってずいぶん控え目になってる(笑)。)

目標 動作への発動性向上 基本動作など軽介助でムラなくできる
本人・家族の希望 少しでも歩けたら嬉しい

(※この希望には泣ける。本人が問いかけの都度答えているそうだ。通路の扉が少しだけだが開いている。)

リハビリテーション終了の目安・時期 一ヶ月後検討

(※一ヶ月の猶予が与えられた。この猶予は希望を引き出せるかどうかだが、期待はしていないので現状のままでもがっかりはしない。むしろ本人が無力感や諦めをもたないかが心配。)

というわけで、入院が継続する。4月1日、胃ろうを塞ぐ処置が行われた。また一歩回復に向けて前進である。残念ながら桜の季節に帰宅という希望は叶えられなかったが病院の近所の桜を見に行こうと思う。もう少し暖かくなって欲しいし、ぐずついた天気も回復して欲しいなあ。
そろそろ退院に備えていろんな準備のための心づもりを始めなければならない。覚悟はとうにしている。とはいえ、当面は今のままでどうやって間に合わせるかが主たる課題となる。

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経過報告13 [介護と日常]

病院の食事時はまさに戦争である。50名ほどの入院患者に対してスタッフは8人ほど。食事全介助の人、見守りが必要な人、動けない人、認知症の人、自立している人等々。
スタッフが充実しているとはいえ、患者一人に一人の看護婦、看護士、介護福祉士さんたちがつけるはずもなく、一人が何人も対応しなくてはならない。それぞれまさに獅子奮迅の戦いぶりである。最初の一陣の世話がだいたいのところ片づくとさらに重症の第二陣が入場してくる。この人達は人数は少ないが食事介助により注意が必要な人たちのようだ。おそらく嚥下障害などがあるのだと思う。だから、この第二陣にはそれぞれに付きっきりで食事介助をする。

妻が食事をするテーブルは8人。全部女性で、お年寄りグループである。妻を含めて6人は入院以来固定メンバーだが、お隣さんは4日ほど前にいなくなった。聞けば三ヶ月が過ぎて上の階の療養病棟に移ったらしい。階を隔てたとたんに忽然と消えたように感じる。自由に動ける状態ではなかったので彼女が下の階に顔を出すことはない。このおばあさんは、周りとも良く話をしていたし食事中にも妻のことを気遣ってくれた。ただ、認知症がかなりすすんでいるようで彼女自身それを打ち消すように頑張っているのが痛々しかった。驚いたことがあった。あまり身内の方は見えなかったがたまたま顔を見せている時に出会った。嫁といった雰囲気の人だった。その人もかなりの年齢で私の妻と同じくらいに見えたのだが、この人に対するおばあさんのきつさは半端ではなかった。なにか世話を焼こうとすると実に激しい拒否と手厳しい叱責をする。あまり顔を見せない理由と退院ではなく療養病棟に移った理由がなんとなく理解できた。いつも正面に座っていたおばあさんは席替えでちょっと離れたテーブルに移った。

入れ替わりに隣りと正面に最強のメンバーが加わった。正面に座ったのは、食事中大声を上げるおばあさん。大声を上げるのは決まって怒っているのである。しかもその相手はご主人だ。ご主人がいない時は愛想も良く、食事中も静かなのだがご主人が来て食事の介助を始めるとほとんどヒステリーのようになってご主人のすることなすこと大声で怒るのである。今日はご主人が来て食事介助をはじめると案の定気に入らなくて怒り始めた。ご主人がスプーンで食べ物を口に運ぼうとすると「ウワーン!」と言って怒る。食べたいものが違うようだった。次に運ぶとまた怒る。それも違うようだった。
妻は目を白黒させている。妻の席は端っこだから私とご主人は並んで座ってそれぞれ食事介助するのだが、ご主人は奥さんが怒るたびに周囲に申し訳なさそうに体を縮めている。怒っている最中に私が大丈夫ですかと声をかけると奥さんの方は愛想笑いと亭主に対する怒りでほとんど泣き笑いのような顔になってありがとう(といっても言葉になっていないが)と答えてくれた。半身麻痺と失語症で言葉が上手く話せない。だが意識はしっかりしている。この夫婦にいったいなにがあったのだろうとちょっとした興味が湧いてくる。
お隣は新しい患者さん。おそらくもう90に届くのではないかと思われるお年寄りで小柄なおばあさんだが、ごはんをほとんど食べないし自分の食膳にあるごはんやおかずを隣りの妻に食べさそうとする。その反対隣りは入院患者中最高齢の97才のおばあさん。この方は食欲もありしっかりしている。新しい患者さんに食べないと元気にならないよと声をかけるのだが、それを受けて玉突きのように関心は妻に向かう。妻のごはんが少なくなってくると自分が手をつけていないごはんを妻の器に入れようとしてくれたり、おかずの皿を妻の前に置く。妻がそのおばあさんの手をとって、自分が食べないとお腹が空くよと声をかけるのだが妻の声も小さくて聞こえているようには思えないし、そのおばあさんの声もまた蚊の泣くようなか細い声でなにを喋っているのか聞き取れない。新入りのおばあさんはあまりに妻にかまうので看護婦さんに見咎められて席を移動してしまった。妻は混乱しつつも自分の食事は全部食べた。前のおばあさんも早めに退席した後、妻は小さい声をさらに細めて「みんな、たいへんやな」とつぶやいた。

人はあまりに多くのことに気配りをしなくてはならなくなった時、行動の目的が最後まで達成されることは少ない。つまりあらゆる事はできないということだ。逆にいえばひとつのことをやろうとすれば他を放棄することによってでしか目的を達成できない。食事時の患者さんの要望は同時多発的だ。したがってしばらく取り残される人も出てくる。元気で働き者の看護婦さんがいる。彼女はあらゆる要望にすべて応えようとするあまり、順番に最初の要望から忘れていくような人だが常に一生懸命で患者さんからも好かれているようである。割合良くいるタイプの人だなあと思って見ていた。
その看護婦さんが第一陣の嵐が過ぎた後、病室から車椅子で大柄なおじいさんを食堂に連れてきた。だが、どうもおじいさんが元気がなさそうなのでその看護婦さんは元気を出してもらうためにおじいさんの好きらしい歌を耳元で歌い始めたのだ。それがまたすばらしい美声で上手!なのに驚いた。食事の後、部屋に戻らずに食堂でのんびりしていた私と妻はその歌声を聴いて顔を見合わせた。私はもちろん冗談だったが妻に「あんた、かてる?」と聞いた。すると妻は「負ける」と答えて笑った。

二週間も過ぎると他の患者さんから良く声をかけられるようになった。皆は私が息子なのか亭主なのか判断に迷っていたようで亭主だと聞くとやっと納得したように私のいない間の妻の様子を話してくれる。どうやら私にはあまり見せない「よそ行きの笑顔」でそれなりに周囲を和ませていることがわかった。リハビリ室で奥さんに出会うと、にっこり笑ってくれるので元気が出るのよとある患者さんは話しかけてきた。妻なりの適応をしているのだと知った。そういえば、一昨日の食事中自分の箸を止めてじっと見ている視線の先にいつも一人離れた壁の隅で食事をしている男性患者がいる。どうして彼がその席になったのか理由は知らない。妻にどうしてそんなに見ているの?と聞くと「ごはんをちゃんと食べているのかなと思って」とのこと。人にかまいたくなる程度に気持ちの方も回復してきているようだ。

幻覚はずっとつきまとっているようで、ベッドで横になったあとずっと天井の方というかあらぬ方向を見ているので何を見ているのか、なにが見えているのかを聞いたところふだんあまり使うことがない言葉が返ってきた。
「きょたい」
きょたい?きょたいってなに?大きな人?
「虚無の虚、虚体」
虚体?また変わった言葉を使うね。どんな人?笑ってるのかな。
「虚体だから、表情もなにもない」(どうやらわかって言葉を使っているようだ)
よく出てくるの?
「そうやな。わりに最近出てくるな」
とのことだった。「脳の中の幽霊」という本のことをふと思い出したが、そう言われると私も表情のないのっぺらぼうの「虚体」に見つめられているような気配がしてちょっとゾワッとした。
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転院その後 経過12 [介護と日常]

先月2月19日に救急病院から回復期病院つまりリハビリ病院に転院した。
転院する日の朝準備をしていると、記事にも書いた家族と出会った。聞けばあちらも今日転院だという。家の近くの病院に転院するのだという。若いご主人は「頑張ってください」と言い、患者の父親は深々とお辞儀をした。私達はストレッチャーが廊下の曲がり角に消えるまで病室の前で見送った。

退院の準備が整って予約した介護タクシーが到着した。看護師詰め所にお礼の挨拶に行こうかと思い部屋を出ると出口で看護師さん達が並んで見送ってくれた。妻は嬉しそうに手を振って救急病院を後にした。
良い天気だった。御所を過ぎ比叡山を見ながら鴨川を越え、京大が見えると左折して少し北上すると新しい病院に着いた。
すぐに病室に案内されベッドに横になる。四人部屋だがゆったりした間取りでずいぶん広くなった。これならこの先付き添いを要求されても問題はなさそうだった。

入院以来二ヶ月ぶりに外の景色を見ながら遠出した妻は環境の変化にも動揺したのか疲れてベッドに横になるとすぐに寝始めた。私は寝ている間にこれからの生活のための準備を担当の看護師に聞きながら進めた。聞き取り調査の時に病院に対する要望を聞かれたので、なるべく拘束や眠剤、安定剤の類は使用しないで欲しい。問題が生じるようだと付き添いなども含めて対応する事を伝えた。

新しい主治医が午後になって病室に来た。若くて丸っこい女医だった。二週間様子を見てその後の治療方針、目標などを設定するとのこと。幻覚や幻聴の事を聞かれて、それらしいことは日常的にあるというとアリセプトは服用したことがあるかと聞かれた。それはないというとレビーかもしれないのでそれも含めて診断するという。とりあえず、今までの見立てではレビーやアルツハイマー型、また前方型ではない。脳血管性としか診断できないと言われていること。症状はそれらの特徴的な症状が全部現れることなどを伝えた。レビーならアリセプトがよく効くのだが前方型だと逆に良くないので、それらを含めて検討させてもらいますと主治医は言った。
私はここで、ひょっとしたらこの病院は「当たり」ではないかと思い始めた。リハビリ病院で認知症に詳しい医師に出会えるとは思っていなかったからだ。

一通りの準備が終わってから病棟を見てみた。1階が理学療法室、作業療法室などがあり、通所デイケアが併設されていた。二階と三階が病室で、各階の真ん中にダイニングと看護師詰め所が配置されている。大きな病院ではなく、それほど新しいわけではないが明るい。広めの廊下を歩き続ける人、テレビを見ている人、廊下の所々に配置された椅子に座ってなにかを考えている人、詰め所の前の椅子で新聞を読んでいる人、寝たきりの人の病室と千差万別だが入院患者はわりあい自由に生活を送っているように見える。椅子に座っている患者の横に看護師が座り他愛もないことなのか悩み相談なのか話し込んでいる。
そうこうしているうちに、理学療法の担当者が病室に来て妻を起こした。これも若い女性だった。彼女は妻に疲れていますか?少し調べさせてもらって良いですかと言いながらベッドに上がって妻の身体の反射とか反応を調べはじめた。そして入院してきていきなりではしんどいかもしれないけど、ちょっと一緒に1階の方でいろいろ動かしてみませんかと妻に言うと、妻は行ってもいいと答えたので新しい療養生活がいきなり始まった。

まずは歩く訓練。手助けされて立ち上がりがやっと。腰をつかまれながら足を前に運ぶ練習。右足はまったく動かせない。左足は伸ばして立位を保つのがやっとという状態。それでも平行に置かれた手すりの間を二往復した。思わず拍手をすると嬉しそうに笑顔を見せた。こうして最初の約20分の運動が終わった。PT(理学療法士)の見立ては、動かない右足にわずかに反応があるので、歩けるようになると言えないけれども、ここを手がかりにして進めたいとのこと。最後にこう妻に問いかけた。「どうしたいですか?」妻は聞き取れないような小さな声で(まだ大きな声では話せない)「歩きたい」と答えた。

さて、今日からはや三月、弥生。転院してから一週間が過ぎた。目立って大きな進展はない。四日目に車椅子から前のめりにゴロンと転がり落ちるという一瞬ハッとする出来事があったが問題なく生活している。食事の時、こぼしながらもスプーンで口に運んでいたが四日目のこと。テーブルに置いてある箸を取ろうとするので渡すと、箸を使っておかずをほぐし、それをつまんで口に運んで驚いた。箸先を上手く揃えられなかったりするものの、右手の方は日常生活の範囲でかなり使えるようになる可能性を示した。

生活にメリハリをつけるために朝起きると運動しやすい衣服に着替えて寝る時にパジャマに着替える。食事は病室を出て他の患者達と一緒に食べる。この病院には看護師と理学療法士、作業療法士などとともに入院生活を支える介護福祉士たちがいる。これほどスタッフが充実している病院ははじめてだ。それでも食事時は戦争のような忙しさとなる。そんな食事時のこと。テーブルの向かいに座る患者さんは食事全介助が必要な人である。妻は頭に帽子をかぶって病室を出て食事のテーブルに着いた。私と並ぶように座って食事の介助に就いた若い男の介護福祉士が声をかけてきた。
「その帽子はNさんが編まれた帽子ですよね」と。私はそうだと答えながらギョッとした。なんで知ってるの?と聞けば妻が通っているデイケアに一年いたことがあって、妻のことはもちろん知っていたのだった。私の家にも送っていったことがあると聞いて驚いた。通っている診療所の通所リハビリもそういえば民医連だったと思い出して、ここにいるのは移動とか転勤とかなのかと聞くと、そうだとのこと。思わぬ出会いだった。

これからのリハビリ生活は遅々として改善しない症状と向き合いつつ、地道でそれなりに苦痛を伴う基礎的な運動の繰り返しだけがその先の生活を決定する。すでに妻はほんとうに足が動くようになるのか不安をもらしはじめている。私にとっては妻のそんな言葉を聞くことそのものが希望であったり喜びであるのだが、勝手に喜んでばかりはいられない。妻の不安を聞きながらモチベーションを落とさないように励ましていく。目的が明確になる生活は久しぶりのことだ。家で日常生活に埋没しているとなかなかこうはならない。

私自身の生活にふれると、妻が入院してからというもの炊事に対する関心が一気に失せた。子供達にお父さんはさいきん料理する気がなくなってるんじゃないのと言われる。
事故の前までは漬け物に凝っていて各種の漬け物に挑んだ。白菜漬けやたくあんは塩加減を失敗したり、ダイコンは事故を挟んだおかげで干しすぎたりとかで成功しなかった。が、事故前につくったキムチだけは上出来だった。仙台の従姉妹からいただいたリンゴをすり下ろして加えたり、韓国食材店のオンマにアドバイスをもらったことも大きかった。

精神的には鬱症的な症状にずっと悩まされている。甲状腺機能低下症の薬を飲まないとなかなか外に出かけられない。いちばん苦労しているのは、何事に対しても意欲がわかないこと。集中力がないこと。先日ほぼ二年ぶりにパソコンを使って病院に提出する家の間取り図や報告書を作った。もうこんな作業は出来ないかと思っていたが、なんとか最後まで作ることが出来てホッとしている。出来映えは、ろくなものではなかったけど(苦笑)。ただ待つだけではこの状態を改善できないだろうとすでにわかってはいるのだが、どうすれば良いのかがわからない。逆にどんどん悪くなっているのではないかと不安になる。オリンピックのことなど書いてみようかとも思ったがどうもそんな気になれない。自分的には深刻度が増している。
と、ちょっと締めくくりが暗くなってしまった。きっと雨が降り始めたせいだろう。
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転院 経過11 [介護と日常]

今朝は、病院を転院する日。病院から連絡が来たのは水曜日のお昼前だった。急遽受け入れが決まったとのこと。慌てて病院に行って転院するリハビリ病院の事を聞く。夕食の時間になったので談話室に移動してオリンピックのハイライトを見ていると主治医が入ってきた。転院先が決まっておめでとうと言いに来たのだが、この日もニコニコしていた。
普通は聞いても答えない事を若い医師は話し出した。
「麻痺は、思っていたほど重くないようでひょっとすると歩けるようになるのではないか。問題は本人がその必要性を感じるか、年齢的に本人にそういう刺激を与えられるほど筋力が戻るか。とにかく本来の回復期のリハビリが重要になってくる。受け入れが決まって良かった」
気になることも聞いた。まだ食事がおかゆだが胃ろうを使わなくなって全量を口から摂っている。栄養補助のジュースももうない。胃ろうを塞ぐ時期は何時になるのかを聞いた。
「胃ろうは塞ぐことは簡単で、管を抜けば一日でくっついてしまう。それくらい細い穴なんですよ。だけどまあ、それはきちんと処理してやらなければいけないけど、転院先が急に決まったのでその処置は次の病院にお願いすることになりますが、きちんと申し渡ししておきますので心配はありません」
そんなに簡単な処置とは知らなかった。妻は医師から、おめでとう 次の病院が決まって良かったですね。リハビリ頑張ってくださいと話しかけられると「あ、はい。良かったです。どうもありがとうございます」と答える。これは多分よくわかっていなくて彼女の作話の術発揮という感じだったが、過去にない落ち着いた入院生活を送れたことは事実だ。混乱で病院から連絡が来ることは一度もなかった。一般病棟に移ってから意識がはっきりしてくると動きを制限する拘束手袋も外されていた。そういうストレスもあまり感じなかったことも落ち着いて入院生活を送れた一因だと思う。ちょっと話がそれるが、拘束用具も日々進化している。手の動きを制限する手袋は鍋つかみのようなもので、これをつけられると容易に外せないようになっている。手袋の中で指は自由に動かせるがなにも掴めるものがない。というものだった。今回この病院で使ったものは形は同じだが、中に丸い玉がいくつも入っていてその玉を掴めるようになっている。自分の身体には触れられないが、なにかを掴んだりする欲望は一定果たせるようになっている。日々進歩していることを実感した。
さて、新しい病院は百万遍の北。病院名を見るとどうやら共産党系の病院らしい。昔この界隈に住んでいてかかったことがある少し大きな病院があったのだがと記憶を頼りに聞くと、その病院が名称変更して今の病院になったらしい。ちょっと引っかかりはあるのだが評判を聞くと悪くないので気にしないようにする。この界隈には妻の友達夫妻の古本屋もあるしいろんな店もあるので実はちょっと楽しみだ。
医療福祉事業部の方が午前9時20分に福祉タクシーを予約してくれている。この方にはいろいろお世話になった。元気になった妻を見るたびにいう「あの時、家に帰されなくてほんとに良かったですね」とまた言って病室を出ていった。彼女には今日病院のコンビニで溜めた、コーヒーが一杯無料になるシールをプレゼントしようと思っている。
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ビデオレター 経過10 [介護と日常]

妻の姪の結婚式が今日東京で行われる。もともとは家族四人で出席する予定だった。義兄夫妻が見舞いに来てくれた時、妻の意識はまだなかった。だがその後驚異的な回復を遂げた様子をビデオレターにして持っていこうと企画したのが娘だった。
談話室でその撮影が行われたのが祭日の木曜日。果たしてうまく喋ってくれるのかリハーサルを含めて四度撮影したそうである。そうであると書いたのは、その時私は病院に行かなかったからだ。結婚式に出席する娘と息子が病院に行き夕食後人がいなくなるのを待って短い映像を撮影した。
ところがその日に限って談話室は大にぎわいで、上手く行ったと思ったら人がワイワイと入ってきて中断を余儀なくされたと息子は悔しがる。
リハーサルが一番すごくて、回数を重ねるに従って話す内容が少なくなり、結果的にとてもシンプルでよいものになっていた。
撮り終えて家に帰ってきてからの話題は、最初になにを話すか練習しようと娘が妻にいい、話し始めた内容のことだった。

「○○子、結婚おめでとう。早くいい人が(ちっとも早くないのだが)見つかってよかったね。幸せになってね。だけど、「女の道」というものがあるから、そこはよく考えてね。おばちゃんは怪我をして困ってるの。行けなくてごめんね。(人が入ってきて気が散って話せなくなる)」

息子 「女の道」ってなんや。なんでお母さんそんなこというの?
娘  私はなんとなくわかるような気がする。
息子 だから、なんやって聞いてるのに。何となくわかるではわからんやないか。

帰ってきた子供達との話は、こんな感じだった。私は、少々驚いていた。結婚前と結婚してからもちっとも変わっていない事に対する驚きだった。説明すると、別に難しい話しではなく、彼女の変わらぬ主張だった。彼女が言う「女の道」とは「自分」の事である。ようするに、結婚に縛られて自分を捨てるんだったら一人で生きていけ。結婚をしてもそういう覚悟を忘れるなという彼女の素朴で荒っぽくて健康的な思想でもある。

娘  ふーん。ま、近いっちゃあ近い感じでわかってたけど。
息子 ほんまかいな。なんか調子が良いとしか思えへんけどな、あんた。
娘  なんでや!ちゃんとわかってるわ。そやけどな、おとんもおかんもかっこええこと言うけどな、ええ加減な親やで。人が受験勉強真剣にやってたらそんなつまらん勉強するなって文句言うし、教師になるといったらそんな職業に就くなって文句言うし、陶器すると真剣に相談したらあんたは向いてないって露骨に言うし、どうせえっちゅうねん(笑)。
私  ま、上等な親じゃないけどお父さんもお母さんもそんなに悪いアドバイスをしたわけではなかったと今でも思うけどな。
娘  ふん!ふん!
息子 それで今があるからいいやんか。なんでそんな話しになるねん。あんたの話じゃなくて、お母さんの話やんか。
娘  うるさい!○○子姉ちゃんも結婚するし、私も関係あるんや。
− − − 以下いつものバトル − − −

もちろん、そんな思想はいつも現実に裏切られ続けるに決まっている。でも、それを今も手放していないのを知って私は泣けた。

久しぶりに一人っきりの夜だ。この開放感は何ともいえない。きっと子供達も同じ気持ちで東京に出かけたのだろう。10時過ぎに電話がかかってきた。娘だった。泊まっているお台場のホテルからだった。すでにうとうとしていた私は起こされることになったが娘のあっけらかんとした声に和んだ。

「めっちゃ、良い部屋!おっちゃん、奮発したんやな(笑)。お母さんのビデオ見せたよ。それじゃ、おやすみ」

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経過9 [介護と日常]

「手の施しようがないんです」
「六年、七年になりますか。最初は脊髄が悪くなってそれが脳に転移してしまいまして」
「もう目も見えんし・・。ただ、本人がわからんようになっていて苦しんでないのでそれが救いかなと思うんですけど。ま、じっさいはようわかりませんけどね」
「あと、ひと月。ふた月もってくれるかどうか・・」

隣りのベッドで急に痙攣を起こして部屋から出て行った患者さんのご主人と廊下で顔を合わせたのは二回目だった。最初は1階通路のベンチで座っているのを見かけた。ご主人は私に軽い会釈をした。その時の表情が隣りでいる時と違って明るそうに見えたので、会釈を返しながらきっと奥さんが良くなったんだとばかり思っていた。中学生になったばかりぐらいの女の子も喜んでいるんだろうなと勝手に思いこんでいた。
そのご主人とたまたまエレベータの入り口で出会ったので「奥さんはもう落ち着かれましたか」と声をかけたのだった。するとご主人は影を奪われたような笑顔でぼつぼつと話してくれたのだ。エレベーターから下りて病院の出口まで一緒に歩きながら話を聞いた。玄関で別れる時、なにを言って別れたらよいのかわからなくて無言で頭を下げるしかなかった。

「こわい、こわい。痛い!痛い!」「やめて、もうやめて。さわらんといて」
妻が一般病棟に移った翌日、最初に聞いたのが隣りの患者さんの悲鳴のような声だった。看護師が血圧や体温を測りに来た時看護師に向かってそう言っていた。看護師は「なんにも痛い事してないよ」とか患者さんに言っていたが、いつも重ならない言葉のやりとりを不思議な想いで聞いていた。言葉を発する場所がまるで違うように私には思えた。
私はこの患者さんは脳出血とかではない別の病気、腫瘍かなにかではないかとその時思った。三十代後半か四十代はじめくらいの若いご主人は、夕方病室に来るとあれこれと話しかけるわけでもなく、なにかを諦めたような暗くて重たい表情でベッド脇に座り見守っていた。ときおりベッドから手を伸ばしなにかを掴もうとする仕草にその手をとって、「ん?どうした」とか言葉少なに語りかける。一緒の病室にいる時には声を交わしたり挨拶をしたりすることはなかった。きっと私も暗い顔をしていたのだと思う。
あの時の私より若いご主人の暗さと重さ。そしてなにかを吹っ切ったような影のないさびしげな笑顔に暗さと重さは希望の別名だったのだと知った。

経過3での安全宣言にコメントをいただいたマオさんのご主人が1月10日に急逝された。ブログでその事を知った時全身が凍りついた。わが家と同じく昨年末にご主人は突然吐血して入院されていたのだがまさかこんなにも急に亡くなられるとは思ってもいなかった。マオさんの悔しさにふれるとなにも言えない。私は車椅子で散歩中に膝に犬を抱くご主人の写真が好きだった。捨て犬や捨て猫を抱えて苦しみながらも断固として犬や猫を守ろうとするマオさんをこうやって応援しているんだと思わせる姿だった。ご主人のご冥福を祈るとともに、マオさんの傷が癒えることを願っています。

寒い日が続く。晴れているのに雪がちらついたりする。一昨日は節分だった。この時期が一番冷え込む。
相変わらず、目に見える形で順調な回復を重ねている。右手の指を不自由ながら動かしていたが、肘を動かせるようになった。お茶をこぼしながらなんとか右手で飲める。若い主治医が笑顔で談話室に入ってきて「よくなりました。これからの二ヶ月まだ良くなると思います。どんどん進めましょう」と言ってきた。はじめて見せた無防備な笑顔だった。
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おかげさまで [介護と日常]

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談話室にて

皆様が応援してくださったおかげで、こんなに元気になりました。背もたれ付きの車椅子も卒業しました。まだ長く座っていられませんが、座ったまま食事も出来るようになりました。落武者ヘアスタイルではさすがにみっとものうございますので、帽子で隠しております。気管は塞ぎましたので、次なる目標は胃ろうを塞ぐことでございます。今日から補助栄養もお茶も全部口からいただきました。胃ろうの役割もまもなく終わることでしょう。リハビリをしっかりして、桜が咲く頃には家に帰るつもりでございます。これからもよろしくお願いします。
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わたしは「だんなさま」だった。経過8 [介護と日常]

うかつに判断は出来ないが私たちが見ている限り、病状的には今回の怪我が原因の「後戻り」はもう無いと思える。
前回の記事の後三日間ほど発熱して、私たちが見舞っている間ほとんど眠ったままという状態が続いたが、その発熱を過ぎると一気にジャンプしたように以前の状態に近づいた。意思の疎通が以前とほぼ同じ程度に可能であるということがわかった。

25日 身体的には妻よりずっと元気なのだが、おそらく妻がいる病室の中でもっとも重篤なのではないかと思われた隣りの患者さんがご主人がいる時に突然痙攣を起こした。それはほんとうに突発的でうめき声とも叫び声ともつかない声を上げた後、ご主人がすぐにナースコールを押して看護師を呼んだ。看護師はすぐにやってきたが様子がただごとではなかったようで、廊下に出て大声で応援を求めた。バタバタと看護師が入ってきて対処をはじめた。痙攣止めの注射などをしていったんは落ち着いたかと思われたが、「駄目、まだ続いている。先生はまだか」といった緊迫した状況がカーテン越しに伝わってくる。医師が駆けつけた後ベッドごと部屋から運び出されていった。妻と二人でただただ驚くばかりだった。

26日 病室に行くとベッドにいなかった。出会った看護師が車椅子に乗って詰め所にいると教えてくれた。詰め所に行くと背もたれがある車椅子に座っていた。私の顔を認めると眼で合図をよこした。看護師が「誰かわかりますか?」と大きな声で妻に聞き、のど元のパイプを塞いだ。すると妻はわりあいはっきりした声で「わ た し の だ ん な さ ま」と皮肉っぽい笑みを浮かべながら言った。その後一緒に車椅子で談話室に行ったり廊下を散歩した。
私のことを「だんな」と人に言ったのははじめてだ。人に聞かれてmiyata君とかmiyataとかは言っていたが、彼女にとって「私」はいつもそれ以上は説明できない人だった。これはどういう事が妻の中に起こっているのかしばらく考えさせられた。

27日 気管切開されていた喉を塞いだ。するとせきを切ったように話し始め、止まらない。今までほとんど話さなかったのは、話そうとしても自分の声が出ないことを知っていて諦めていたのだということがわかった。やはり今まで彼女はほとんどこちらの話を理解していたのだ。ところで、話していることはなかなか聞き取れない。またなにを言っているのかも良くわからない。しばらく自分の声帯を使っていなかったので、これも練習が必要なようだ。

医療社会事業部の方が、受け入れ可能というリハビリ病院に面談に行くように言ってきた。いろいろ確認したうえで決めるのが良いともアドバイスされた。

28日 紹介された病院に面談に行った。気になったのは診療科に「脳」外科とか「脳」神経外科とかがないことと、保険適用外費用が一ヶ月で10万円以上になることだった。その内容を見てみるとオムツ代が一律35000円必要だとか、カテーテルをしている場合には処置料として20000円以上が計上されている。これではいくら高額医療費が返ってくるにしても、毎月入院代だけで25万円以上かかってしまう。今の病院ではオムツなどは自分が買ってきているのでそういう費用は発生していないし、カテーテルを入れて尿を出しているがその分も請求されていないので医療費の中に入っているものと思われる。ネットでオムツ代などを調べてみると、けっこうあたりまえのように徴収されていることがわかって二度驚いた。今まで入院した病院は自分で買ってくればそういう費用は発生しないところばかりだったので、ここへの転院は難しい。

病院に行くと、今日も詰め所にいた。しかも昨日と違って同じ背もたれ車椅子ではあったが、椅子に座るように上体を起こして座っている。看護師が夕食をこのまま座った状態で食べてもらおうと思うという。それはすごいというと妻は私を見てニヤッとしている。詰め所から談話室に移りテレビを見たり、絵本を読みたいというので談話室におかれている絵本を見たりして夕食まで過ごした。昨日ほどおしゃべりではなかったが、テレビで「カニかまぼこ」を使った料理番組をやっていて私がふと「カニかまぼこで、そんなにおいしいはずがないじゃないか」と文句をつぶやくと「どっかに食べに行くか」と言って車椅子から立とうとする仕草をした。こんなところは以前と同じで笑った。あいにく残念ながら立ち上がることはおろか自分の体勢を変えることも今は出来ない。夕食の時間になって、今回入院後ようやく介助らしいことをした。今までは誤嚥がないようにと、食事介助はさせてもらえなかったのだ。夕食の献立は「嚥下食2」全粥に三分菜。温泉玉子がついていた。これもワンランクステップアップしている。このメニューに毎食栄養補助ジュースを二本胃ろうから摂取する。嚥下食は完食だった。夕食を終えるとかなり疲れた表情になってきたので胃ろうからの摂食はベッドに移動してすることになった。かなり長い時間椅子に座っていたので、ベッドに横になるとまもなく寝始めた。七時を過ぎた頃息子がやってきたので、私は帰ることにした。

妻が私のことを「だんな」と言ったことをきっかけにして考えたことは、自分を認識しはじめているのではないかということだ。なぜなら、身体の異常をいくらすぐに忘れてもまた「気づいた時には」異常を抱えているわけで、その異常によって自分を鮮明に意識することが出来るというわけだ。この場合の身体の異常は彼女にとっての他者性である。
今回の事があるまで妻はもっともリハビリが困難な患者群に属していた。医師によると「病識」がない。したがってその必要性を認識できないので、いくらリハビリをしても向上は期待できないというものだった。記憶が出来ないこと自体を認識できないので、いくら日常生活でメモを張り巡らしても無意味だった。他者を媒介にして自分を認識できないというのは、個別の人格をもった実在であっても堂々巡りであって意識的には「自己の現在」を喪失している。
今回の事で意識状態が改善したということではない。おそらく、以前よりもっと大きな問題を抱え込んだことは間違いないだろう。その結果としてそのレベルとして他者性を獲得しようとしているのかもしれない。
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経過7 [介護と日常]

19日 救急病棟の自動ドアは復活していた。患者さんは一般病棟か他の病院に転院でもされたのかなと思っていたら、廊下で出会った。その背中には赤いマジックで病棟の所属を表す大きなゼッケンが貼られていた。
病室に入って驚いたのはこっちだった。いつものようにベッドの側に行くと別人が寝ていてギョッとする。向かいのベッドを見ても違う人が入っている。部屋を間違えたかといったん出て確認しても間違っていない。慌てて詰め所に行く。そこで一般病棟に変わったことを知らされた。せめて連絡くらいして欲しいと思ったが、やはり戦場のような忙しさを目の当たりにするとそんなことを言ってる場合ではないと思い直して、新しい病室に行く。
救急センターの新棟から旧棟へは迷路のような道順で途中道路を跨ぐ空中廊下を通って辿り着く。二度道順を聞いた。こんなことならいったん1階に下りてから旧棟に行けば良かったと後悔する。
一般病棟の脳外科は、生が充満していた。廊下を歩く人も車椅子で移動する人も皆それぞれ違う部所に手術痕が髪型に残っている。丸坊主の人、左側の側頭部前面だけ剃られている人、右側だけの人、前頭部だけの人とかまるで落武者ファッションのオンパレードみたいだった(ちょっと不謹慎な例えかな)。妻の新しい病室は六人部屋だった。救命救急センターと違い、いかにも狭い。妻を見ると疲れた顔をしてずっと目を閉じている。声をかけてもまるで反応せず「今日はもう勘弁して」といっているようだ。引っ越しに疲れてしまっているのだろう。この日は面会時間が終わったことを告げるアナウンスがあると早めに帰ってきた。

20日 一般病棟の面会時間は午後三時から八時まで。なんだか体が重くて家でグズグズしているうちに四時を過ぎてしまい慌てて病院に向かう。バスを降りて信号を渡ろうとすると仕事を早めに終えた娘とばったり会った。妻は昨日とは違い、目もしっかりして元気そうだったが、固い痰がへばりついていたので管を交換したとのことで声は出なかった。しかし私たちの話しかけに頷いたりして応えてくれた。
主治医がやってきて、これからはリハビリであること。嚥下障害があまり認められないので、喉の切開を塞ぐことが当面の目標になることが伝えられた。
救命救急センターでの妻は生命の危機を脱出した後は普通の入院患者のようであったが一般病棟に移ってしまうと、とびっきりの重症患者のように見える。だが、ここの方が負担がないようだ。煩わしいモニター音も聞こえない。テレビも見られるようになった。ちょっぴり日常に近い雰囲気がある。表情が以前にも増して穏やかになっている。未だ身動きがまったくとれない状態だが、リハビリ病院が決まるまでにどれだけ回復するのか再スタートである。
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経過6 [介護と日常]

妻が入院している病院の救命救急センターは七階建てで四階から上が病棟である。エレベーターを下りると自動ドアがあり、病室を隔てている。昨日病院に行ってみるとその自動ドアが「手動ドア」になっていた。つまり自動ドアの電源が切られていたのだ。張り紙が貼られていて「患者の安全を確保するためにご協力ください」と書かれていた。
七年前、妻が運ばれた病院は病室に行くのにこの自動ドアという遮蔽装置はなかった。同じ系統の病院だが、今入院している病院の方が新しいのだと思う。妻はリハビリ病院に転院する前、二度ほど病室から姿を消して騒動になったことがある。エレベーターに乗ってどこかの階に行ってしまったのだ。
で、今の病棟で自動ドアが手動になってしまった原因はすぐにわかった。急激に回復された患者さんの一人が自分の部屋やトイレがわからなくなってさまよいはじめたのだ。彼は妻がいる部屋によくやってくる「お客さん」で、最初はあたりまえのように入ってくるのだが、ベッドに空きがないのを見てあれっという表情をしてから、困ったような顔になり私の顔を認めると照れ笑いのような笑顔で「おかしいなあ」とつぶやいて、出ていく。少しすると看護士さんの「あっ!」という声とバタバタと廊下を駆ける音がして叱られる声が聞こえてくるのが常である。
おそらくこの患者さんが詰め所の前を通り過ぎて、エレベーターに乗ってどこかに行ったのであろう。夕方になると息子さんが見舞いに来ている。息子さんはよく病室から連れ出して詰め所の横にある「家族詰め所」でこの患者さんと向かい合って座っている。私は妻が寝始めると狭いベッド脇の腰掛けから移動してこの家族詰め所にあるリクライニングするソファで休憩をするのだが、そこでこの二人と出会うのである。会話がはずむわけもなく、微妙な雰囲気で向かい合っている。時折お父さんらしい彼が「さあ」と声を出す。そして、「さあ、そろそろ行くか」と言い始める。息子さんは苦笑しつつ「どこへ行くつもりよ。もうちょっと良くなるまで我慢して病気を治さないと」とか言っている。そして、少し間をおいてまた同じ会話が繰り返される。
この会話はわが家の会話と同じで、もう何度繰り返してきたかわからない。「さ、行こうか」と妻が言い、「どこへ?」と私が聞く。窯、訓練校、工業試験所、五条、病院、歯医者、友達との約束、葬式、結婚、バレー、三味線、テスト、口から出た外国etc。ふとどこも行くところがないことを知っていてそう言うのではないかと疑いを持つことがある。今ここにいる座標軸が定まらない不安が「どこかに出かける動機」になっているのではないか。むろん勝手な解釈に過ぎない。逆に私が妻に「さあ行こうか」と声をかける時、妻が素直に応じることは滅多になかった。私には今やるべき事があるので用事があれば行ってくださいと確信を持った態度で応じてくることが多かった。そんな時は不安げな様子はまるで感じさせない。私の働きかけを媒介にして自分の軸が定まっているからであろう。おかしなことにこう言われると今度は私が不安になってくるのである。いったいなにをするんだろう、何をやろうとしているのだろう、なにかをやらかすに違いないなどと思い始めるのだ。

自動が手動になったドアは開けるのにけっこう力がいる。妻はとても良かったり、そうでもなかったりを繰り返しつつどんどん良くなっていく。昨日から24時間連続の点滴がなくなった。その姿はもう普通の入院患者である。話せる言葉はまだまだ少なくて、いつでも話せるわけでもない。言葉が出るようになったと聞いて喜んだ義妹が見舞いにやってきた。私の兄も見舞いに来ていた。帰る時「気をつけて」と兄に話したそうだ。

胃ろうからの夕食が終わった後、眠りそうになりながら私になにかを話そうとする。顔を寄せてその細くてしゃがれた声を聞き取ろうとした。
「さ、帰ろう」と彼女は言っていた。
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オカルトっぽい話と経過5 [介護と日常]

娘のちょっとしたオカルトチックな話をすませておきます。出し惜しみをしていたわけではなく、事態の進展が急でそちらの方向に関心がいってしまったせいでもあります。

血の臭いがする
妻が救急車で運ばれたのが昨年12月21日。その日子供達は家で待機していました。翌22日に娘は仕事を早く切り上げ病院にやってきました。顔は腫れ上がり、輸血が続いていました。意識はもちろんありません。医師の説明ほど軽い症状ではないと思われましたが、私たちにはどうすることも出来ません。面会時間が過ぎた頃病院を後にして家に帰ってきました。食事を済ませて炬燵に入りながら、「お母さん、よくないよな」みたいな会話をとぎれとぎれに繋いでいました。

夜の12時を過ぎる頃、三人とも炬燵でうつらうつらしていたようです。とつぜん娘が起きだして「血の匂いがする」と言って炬燵の布団をめくって原因を探りはじめました。私も息子も起きだして鼻をくんくんさせてもそんな臭いなんてしません。娘はちょっときつい表情で「こんなにするのに、なんでにおわへんの」と詰問調になっています。
私は娘に病室で見た輸血とか、身体や寝具についていた血のイメージが残っているのではないかとなだめました。だけど娘は「いや、絶対に違う。なんかおかしい。血の匂いが消えない。何かある」と言いながら自分の部屋に行きました。
翌日、容態が急変して病院から電話がありました。娘はそれを聞いて「やっぱりか。お母さんやったんや」と二人して慌てて病院に駆けつけました。肺への大量出血、脳の出血については23日の記事に書いた通りです。

いやな匂い?
で、23日のことです。医師の説明で肺は出血のため左側の肺は真っ白でした。脳内の出血は二カ所で、その時点ではまだ脳室の髄液は詰まってはいなくて水頭症にはなっていませんでした。肺や内臓への出血が止まらない状態なので手術は出来ない。してもそのまま死に至る可能性もあるということで、このまま脳の出血が止まってくれることを祈るという状態でした。
説明を聞いた後病室の妻を見て娘は「嫌な匂いがする」といいます。どんな臭いなのかと聞くと表現できないというのです。「でもとても嫌な匂いで嫌な感じなのだ」と言います。

その後、容態はさらに悪化しました。翌24日にリスク覚悟の手術が行われたことは25日の記事に書いた通りです。手術後、病室に帰ってきた時は頭から二本のパイプが出ていて、脳室の髄液が排出されています。とうぜん出血した血も一緒に出てきています。
肺に繋がれたパイプからはかなり大量の血が容器に溜まって、さらにどんどん出てきているような状態です。医師の説明は悲観的なものでした。私自身もこんな状態でどうやって治る階梯に足をかけることが出来るのだろうかと絶望的になりました。
その時娘がふと「匂いが消えてる」と言ったのです。そう、我々が諦めたらなんにもならんねと私は言いましたが、娘は「いや、でも大丈夫だと思う。私はそう思う」と確信を持っていうのです。
娘の嫌な匂いという言葉はその後何度も出てきます。肺炎になり気管切開にいたる時も前々日に「今日はちょっと嫌な感じ。少し嫌な匂いがし始めてる」と私の目にはむしろ落ち着いているように見えた時にもそう言って状態を予測して外れることがないのです。

私が娘のいう<いやな匂い>というじっさいの匂いではない<なにかの感じ>を信じることにしたのは入院一週間を過ぎた頃、隣りの病室を通り過ぎて部屋に入ってきた時「お隣さんの部屋の前を通った時にいやな匂いがした。お母さんの時と一緒の感じや。相当悪いんと違うかな」と言った時でした。私はその時そっと隣部屋を覗きましたが昨日と別段変わった様子はありませんでしたし、看護士や医師も詰めているような様子は全くなかったのです。ところが午後三時過ぎになると突然慌ただしくなり始め、夕方には家族や親族が続々やってきました。私たちは病室で決定的な時が訪れるまで息を潜めるようにしていました。

とりあえず、こんな話です。今までこういう事を言う娘ではありませんでした。そういう話しも全然好まない方だし、タイプ的にもあまり縁がないタイプだと思っていました。ちょっと不思議な感じがしました。

急速な回復
個室から大部屋に変わりました。しかも!今日13日、声を出しました!気管切開したところの器具を発声ができるものに交換したのですが、約三週間ぶりに妻の声を聞くことが出来ました。最初は自分の名前。それから、夕方寝ていた時とつぜん目を開けて言った言葉が「台湾に行かなくては」でした(笑)。どうやら、突然なにかを思い出して切迫した気持ちになるのは意識が戻っても同じようです。子供達も声を聞いて大喜びです。
それから、車椅子に座る訓練が始まっています。午前中に少しずつ座るようにしていくとのことです。肺炎はまだ完治ではありませんが肺のレントゲンではずいぶんきれいになっているそうで、咳はまだ止まりませんが痰の量も減ってきました。焦らずに更なる回復を待ちたいと思います。
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経過4 [介護と日常]

9日 義兄家族が見舞いに来た。妻の実家の長兄で、現在は千葉に住んでいる。長女が二月に結婚をする。私たち家族全員に出て欲しいということで、皆で東京に行くことを楽しみにしていた。
息子がいる。自閉症である。その息子もやってきた。彼はもう37になる。彼は妻になついていた。病室に入ってきて妻の姿を見るとショックでもう涙ぐんでいる。義兄は涙もろいというより激情家である。七年前に倒れた時、病室で妹に会うと号泣した。娘と息子は二人して今度もきっと泣くだろうと予想していた。
胃ろうの手術から一日明けた妻は落ち着いた表情をしている。
義兄は妻に話しかけているうちに我慢できなくなって泣き始めた。「なんで、こんな目にあわんといかんのや」
突き刺さった。「なぜ」と「だれが」の問がここには含意されている。妻の現実が問いかけ、子供達が飲み込んでいる言葉でもある。私はといえば、あまりに無惨な屈辱的な破綻にただうずくまってなおどうしようもない自分を守ろうとしている。
義兄達を見送った後、子供達は私の暗い表情をほぐすかのように「おっちゃん、やっぱり泣いたなあ」と笑っている。全部さとられているのだ。

10日 胃ろうの手術から三日目。病室に入るとしっかりと寝ていた。しっかり寝ていたなんて書き方は変な感じだが、うつろにさまよう眠りではない、その背後にはっきりとした目覚めがあったのではと想像できるような寝顔。しばらくすると目を開けて周囲を伺う。私の顔を認めると眼の動きを止めてじっと見つめてくる。表情は清明。
息子の彼女がお見舞いにやってきた。その彼女が枕元で話しかけている時だった。笑った。あ、笑った!と息子と私がのぞき込む。なにをそんなに珍しそうに見てるのよというような表情で私と息子を見る。

私は初めて見る看護士が入ってきた。名札には係長と書いてあったと息子はいった。ここの看護システムはよくわかっていない。その看護士が「今日は、おはようといってくれたんですよ」という。私と息子は同時に「えー!」と声を上げた。
「ほんとうですよ。おはようといってくれたんですよねー、miyataさん。おはよー!あ、今はこんにちはですね。miyataさん、こんにちわー」すると妻は声は出ないのだが「こ・ん・に・ち・は」と口を動かして応えたのだった!!!
「おかあさん、わかってるんやね!」と話しかけるとはっきりと頷きながら「うん」と応えた。息子と二人で「おー!」と声を上げる。驚きと感動だった。看護士も「すごいですね。ほんとによくわかるようになってくれました。私たちも驚いてるんですよ」と言って部屋から出て行った。

全部が全部良いわけではなく、肝臓数値が悪い。昨日から薬を入れはじめている。それに咳が止まらない。咳き込みはじめるとこのまま息が止まってしまうのではないかこちらも緊張する。本人も苦しさで多少動く左足と左手をじたばたさせて苦しむ。何度も痰の吸飲をしてもらうためにナースコールを押すことになる。

交替で早めに家に帰ってきた。帰りに晩ご飯のおかずを買って子供達の帰りを待つ。一番最後に帰ってきた娘の話によると、前の部屋で担当してくれていた看護士二人がわざわざ「噂」を聞きつけて部屋に来たそうである。娘によると「けっこう、評判になってるみたいよ、お母さん」ということであった。

一喜一憂はなるべくしないようにしていますが、ひょっとすると、いや、口に出したり書いたりするとまたどんな現実が襲いかかるかわかりませんから、これ以上は書かないようにします。娘のオカルト話は次回に書きます。がっかりなさらないでくださいね(笑)。
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経過3 [介護と日常]

着陸体勢に入りました。安全ベルトを確認してください。着陸地の天候は一日の中に四季あり。少々荒れ模様かもしれません。

みなさん、ありがとうございます。安全宣言が出ました。ほんとうにありがとうございました。
午後四時過ぎ、消化器科の医師から胃ろうについての説明がありました。その後主治医の脳外科医から生命の危機からは大きく離脱したと説明がありました。
明日午前中、脳の撮影をして午後から胃ろうの手術をします。
たくさんの管に繋がれていた身体も明日から一気に減っていくことになるでしょう。これから体力の回復に努めながら意識の回復を待つことになります。

今日病室にはいると妻は目は開けているものの、ほとんど反応がありません。消化器科の医師と胃ろうについて話をして承諾書に署名をしました。医師が病室から出て行った後妻の顔を見ると、なんだか眉間にしわが寄り、悲痛な表情をしています。また身体を切られるのかと言っているようでしたので、大丈夫だからとなぐさめました。

夕方になり娘が病院にやってきました。彼女は出張旅費として精算後現物支給される市バスの乗車券を同僚達からたくさんもらったと嬉しそうに話してから、大きな声で妻に話しかけます。それから「あ、またや」といって妻の左腕をとって伸ばす運動をしはじめました。彼女は妻の左腕が拘縮したように伸びなくなっているのに昨日気がついていたのでした。
六時過ぎに脳外科医が回診に来て命はもう大丈夫だろうと言っている時でした。娘が小さく「あっ!」っと声を出し私に左腕を指さしました。するとお腹の上に曲げて上げたままの状態の腕がゆっくりと伸びて身体の横に落ちたのです。顔をのぞき込むと眉間に刻まれた皺がとれて、穏やかな表情になり眠るように目を閉じていました。医師が出ていった後、娘は「おかんは絶対に話を聞いてるな。命の心配がないと聞いて安心したんやで、きっと。腕に力入れて頑張ってたんやな」と言いました。ただ、眠っただけかもしれません。だけど、私は娘の言うことを信じました。妻はきっと話を全部聞いているんでしょう。娘に関してはちょっとオカルト的な話がありますが、それは明日にでも書くことにしましょう。

妻は右半身に麻痺があるようです。失語症になるかもしれません。目を開けていますが自分の意志をほとんど表現しません。つい二三日前まで握っていた左手も呼びかけに対して握ろうとしなくなりました。看護士の判断は今まで握っていたのも単純な反射の可能性が高いということです。ここからの再出発ということになります。
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経過2 [介護と日常]

6日 午後になり、準備をして病院に出かけた。いつものバス停に行き、待つ。最近わかったことだがバスの時刻表が意外に正確なことに驚いている。市内を走る市バスの時刻表はずっと悪い冗談ではないかと思っていた。バスに乗って目的地まで約30分。座れなかったことがない。

病院に行くと娘がいたので驚く。病室が変わっていてエレベーターを下り、自動ドアから病棟に入る私の姿を見て大きく手を振って知らせてくれた。仕事を早引けして来たのだそうだ。
「今日は昨日より落ち着いてる。表情も楽そうだし、脈拍や血圧も普通。ただちょっと酸素濃度が良くなくてあくびをよくする。」移った病室は、同じ個室だがこぢんまりとしている。前の部屋より落ち着いた感じがする。
様子を聞きながら上着を脱ぎ、妻をのぞき込むと確かに顔色も良く、表情も穏やかに見える。呼びかけると少し目を開けるのだがすぐに閉じてしまう。点滴にはナトリウムが追加されていて、低ナトリウム状態は解消されていないようだ。
鼻から流動食を入れるようになったので胸部の点滴針が外されて腕に戻っていた。

脳の出血は今のところ認められていない。明日7日、主治医と消化器科の医師と胃ろうについて話をすることになっている。
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経過1 [介護と日常]

年が明けて休みに入った病院はがらんとしてまるで放課後の学校のようだが、救命救急センターに入ると相変わらず急患で待合い廊下に人が絶えることがない。エレベーターで四階に上がり病室にはいると少し人が少ないのかなとは思うが、ほとんど変わりなく忙しく人が働き、入院患者の家族待機室にも家族や親族らしき人々が席を埋めている。
妻の姿に生命の危うさを感じることはないが反応があまりない。定期的に体位を変える処置と、痰の吸飲、点滴薬の交換、清拭などが淡々とこなされていく。時折咳でむせる時に見せる苦しそうな表情に現実との通路を感じるのだが、奇妙な倒錯に気づく。現実への通路が開いた時、身体からのセンサーによってモニターは異変を知らせる。本来はその反応が生きている証であるというのに。

現在、苦しみ、痛み、生命を医学というか化学療法が引き受けているかぎり、私の妻が病院から帰ってくることはない、それどころかだれも救えないのではないかというふうに今は考えています。それはほんらい言葉が引き受けるべきものじゃないか、と。

死を免れたことは生きることです。でも生きることにならないような死の免れ方を医学が開いたのです。

点滴の輸液が入りにくくなってきたことと、治癒力・抵抗力をつけるために年が明けてから鼻の管から直接胃に栄養剤が入れられるようになった。そして、昨日から朝晩二度に回数が増やされることになった。今後は頭の管を抜き、意識がさほど改善しなければ胃ろうをすることになる。
年明けから反応が薄くなった原因に、血液が低ナトリウム状態になっていることが検査で確認された。ふだんの高ナトリウム血症とは逆の状態になっている。元々電解質のバランスを保てない妻の脳機能は素直に今の状態に反応しているのだと知らされた。

私は二日起きた時にすこし風邪の症状を感じた。風邪薬を飲んで再び寝ると少し楽になったので夕方近く着替えを持って病院に行った。だが、どうも体調が良くないので昨日は病院行きを子供達に止められ一日家で寝たり起きたりしながら過ごした。その間子供達が病院に詰めてくれた。おかげで今朝は楽になった。子供達は今日から仕事始めとなり、短い正月休みは終わった。
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反応をし始めた。 [介護と日常]

30日 気管切開の手術は、まさか部屋でやるとは思わなかった。まるで野戦病院みたいだ。要した時間は約三十分。午前11時過ぎに終わった。同時に出血が小さくなっているので肺の管を抜いた。身体の負担はかなり減じられるのではないかと執刀した外科医は言った。
呼吸がずいぶん楽そうになった。だが咳で時たまむせる。咳をすると血が気道からあふれてくる。切開の刺激でちょっとむせるのが続くと思うがやがて落ち着いてくるでしょうと看護士。
12時過ぎふと気配を感じてベッドをのぞき込むと、妻は大きく目を開いて目覚めていた。呼びかけると声がする方を視線が追っているのがわかる。そしてようやく私の姿を捉えたのか眼の動きが止まった。「わかる?わかったら手を握って」というと手を握りかえしてきた。手を開いてというと手を開いた。「そうか、わかってるんだな。おはよう!」と声をかけるとまた手を握ってきた。安堵感に満たされる。手を握っては開く。このやりとりを30分ほど続けた後、また眠りに落ちた。
外科医の話は依然として悲観的であるので、書かない。後は脳内の出血が止まるかどうか。脳室に挿入されている管を抜かなければいけない日が年明けにやってくる。今日から主治医が若い脳外科医に変わる。そういう話だ。
夕方、子供と交替し正月の準備のための買い出しに出た。簡単でも良いからとそういう気になった。
(夜、追記します)

前回の記事で意味不明というか曖昧なところを修正。
「延命治療はしない。」→「延命治療をするかしないかにつながる。」

追記
簡単に正月料理を作るために病院には娘に先に行ってもらっていた。お昼ぐらいに電話がかかってきて「たしかに笑った」という。昨日と比較にならないくらい状態は落ち着いていて、モニターで常時表示される心拍数、血中酸素、呼吸数、血圧もずっと標準範囲にあるということだった。
ちょっとウキウキした気分で病院行きのバスに乗る。信号で止まるのがもどかしかった。病室にはいると娘が「やっぱり勘違いじゃなかったよ。私とまさきの会話を聞きながら何回も笑ったんよ。笑いすぎてむせたぐらいやったから」という。残念ながら私は妻の笑い顔には出会えなかった。だが、表情はまるで別人だった。ただかろうじて生命を包み込んだだけの無機的な肉体から、生きている人の力の放射を感じさせる。こんなに変化するなんて出来すぎた話のようで、逆に心配になる。
娘と交替で付き添う。大晦日の夜なのに見舞い時間が過ぎた頃、主治医となった脳外科医が部屋にやってきた。命は助かるのかと単刀直入に聞いてみた。彼は「うんと、その方向に動き出したと思ってもらって良い」と言った。ただし、と一呼吸おいてから「これからは感染症との戦いです。肺が肺炎を起こしている。タイミング良く気管切開したのでそれも良かったが意識障害患者の多くが感染症で亡くなっているので、安心して良いとは私の立場ではまだ言えない。脳の管も日が経てば経つほど感染症の危険が増してくる。今日の段階で髄液はまだ感染を示していないが早く管を抜きたい。これからです。それから、呼びかけに反応をするようになったけれども、この状態のままの可能性が高いのをどうするか。回復の可能性はあるのか。そういうことをこれから追求していかなければということです」といって部屋から出て行った。
医師が去った病室で、とりあえずとひとりごちてから言葉を飲む。とりあえず、その先は考えないでおこう。戻りつつある命を受け止める。重いとか軽いとかも判断しない。そうすることで喜びを実感していたかった。
看護士が入ってきて、口腔清掃や、痰の吸引などをしながら「今日は大晦日ですよ。お帰りになってゆっくりしてください。奥さんが元気になりそうでよかったですね」と話しかけてきた。そう。きっと妻は生きて家に帰ってくると信じていた。だが、妻が入院してからこの10日間ほどの間に、通路に響く悲痛な泣き声を何度聞いたことだろうか。耳は塞がない。だが、その意味を今は問わない。
病院を出ると、雪が舞い始めていた。寒さでズボンがパリパリとまるで音を立てるかのように素肌に触れてくる。表通りはシンとして暗く人通りもなく、車も数えるほどしか通らない。バスに乗ると乗客は三人しか乗っていなかった。八坂神社付近で少し多めの乗り降りはあったもののバスを降りるときふり返って車内を見ると、やはり三人しか乗っていなかった。バスを降りても雪はちらちらと舞い続けていた。

※家に帰り、残していた掃除をして風呂で身体を温めていると年を越していました。明けましておめでとうございます。旧年中はほんとうにお世話になりました。新しい年が皆さんにとって良いお年でありますように。

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最初の決断 [介護と日常]

状況は悪くなっていく。脳内の出血が止まらない。希望を語る若い脳外科医も苦渋の色を見せ始めた。水頭症は改善して脳圧は正常に戻ったのに意識が戻らない。この状態が長く続くと、意識がこのまま戻らない可能性が高まっていく。
担当の外科医は、ようやく血小板が戻りつつあり血液が体内でつくれる状態になっているが体内や脳のじわじわとした出血が依然として止まる気配がない事態を憂慮している。ただし、肺からの出血は徐々に少なくなってきている。

昨日のことである。救命救急センターのドアを開けるとすぐ横にあるナースセンターのカウンター越しに看護師が医師と連絡を取り合っているのが聞こえた。妻のことだった。電話を切ると忙しく病室に駈けていく後ろを追った。痰が絡み、呼吸が苦しそうだ。看護師はすぐに痰の吸引をはじめた。吸引が終わるとモニターの数字が見る間に回復する。だが、喉はずっとゴロゴロと音を出しているままだ。すぐに担当の外科医が入ってきた。
いろいろ状況を説明してくれたが事態は深刻化していることは理解できた。

そして、今日。外科医はこんなことを言ってきた。このままだと間違いなく近いうちに挿管から気管切開しなければならないだろう。病状の変化があれば家族の承認がなくても挿管まではやる。だが、家族が止めてくれというのならばそれもしない。だが、しない場合はそのまま確実に生命はなくなるということに繋がっていく。延命治療をするかしないかにつながる。つまり、そういう話だ。

脳外科医からもくわしい病状を聞いているがとりあえずそういう話は置いておいて、明日挿管から気管切開というようなまどろっこしいプロセスを省いてすぐに気管切開をして呼吸を確保してもらうことにした。あんなに呼吸が苦しければ治るものも治らないだろう。自然の順序としては、脳より先に身体だと思う。身体を先に治癒のレールに乗せそれが走り出したらやがて脳の出血対策に身体が働き始めるのではないかというのが素人考えである。もちろん、これは医学的な見地とはまったく別物の妄想である。

何もできずに見ているだけという段階から、ひとつひとつ決断を迫られていく段階にさしかかったようだ。
明日は自分が病院に行く。薬が無くなったので出してもらおうとしたら、長く診察をしてないので薬だけ出せませんと怒られた。年内最後の診療日で予約受付なしの早いもの順とのこと。年内最後のゴミ出しの日でもある。まったく、やれやれの日になりそうだ。
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無題 [介護と日常]

おはようございます。昨夜病院から帰ってきて、どうしようもない女々しい(ひっかかった方にはごめんなさい)記事をアップしようとしましたが、かろうじて踏みとどまり、炬燵の誘惑に溺れそうになりながらなんとか抜け出して布団で寝ました。
おかげで今朝はかなりすっきりした目覚めで体力・気力が戻ってきたような気がします。昨夜書いた原稿を読み直して、ゴミ箱に入れました。やはり疲れたり寝不足の時に書く記事は良くありませんね。

皆さんのコメントを読ませていただき、ありがたくて万感の思いがこみ上げてきました。驚いて電話をくれた友人や遠い島の友人。短い応援メールを送ってくれた方もいました。ブログを読んでくれていたんだと知って驚くとともに、一緒に楽しんだり格闘したかつての世界の懐かしさも思い出すことが出来ました。もう一度その世界と橋を架けなくてはと思いました。
どこかおちゃらけたコメントを書いてコメントの上ではあまり正直者ではないように見える練習菌さんの奥さんに降りかかった重たい現実には言葉を失いました。妻のことを自分のことのように心配して祈ってくれたように、私も祈ってます。

妻の病室には脳の手術を担当した若い脳外科医と、最初に救急で診てくれた私と同世代の外科医がずっと妻を管理してくれています。
若い脳外科医は、深刻な状況の中でどこか「希望」を探ろうとしてくれています。外科医の方はどこかペシミスティックな影を背負いながら妻の病状分析と対処を続けてくれています。入れ替わり立ち替わりあらわれる看護士達も信頼に足る真剣さと緊張感をもって時々に出現する変化に冷静に対応してくれています。私や家族に出来ることはほとんど無いような状況ですが、出来るだけ長く(時には病院の規定を破ってでも)妻のそばにいようと思います。

昨夜書き、今朝ゴミ箱に捨てた記事の中でこれは捨てられないと思ったことは、私のこのブログは「失敗の記録」でもあるということでした。私のどこかに「現実を忌避」したい願望が潜んでいて、それが失敗の連鎖を誘引しているのではないかと思いました。
取り返しのつかないことや、解決できない現実を嘆いたり悲しんだり怒ったりすることはとても利己的な自己救済であり、たんなる自己慰撫であったり退行であることはわかっています。そこには他者への転嫁という誘惑も潜んでいます。ここをルサンチマンの温床にしてしまうことこそほんとうの「悲劇」ではないかと考えたりしました。根本的に今の場所を変えなくてはいけません。「生き恥さらしのブログ」だと仮に嘆いたとしても、それが例え絶望的であってもどこか「希望」につながるような記事を書いていこうと思いました。

もう少し落ち着いたら、皆さんのコメントに返事を書かせていただきます。それでは。
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<最悪の日>は記憶の淵に沈めなくてはいけない [介護と日常]

経過報告-追記あり
24日
午後5時15分 CT検査の結果、脳室内の出血が広がりはじめた。このまま放置すると今夜中に呼吸が止まってしまうので、リスクを覚悟の手術が告げられた。
この出血が動脈からの出血ならば、手の施しようがない。また、血液の凝固異常が原因で術後の出血が出た場合も止められない。だが放置すると確実に死に至るのでここで何もしないわけにはいかない。出血箇所の分析結果が出ない段階であったが手術に同意。
希望は血小板の輸血などでわずかに数値が好転している血液状態。それに分析が急がれている出血箇所が動脈でないこと。たった二つの希望に運命を託す。
親族に連絡を入れる。クリスマスイブ、運命の分かれ道。
午後6時25分 義弟が病院に来る。手術時間開始は午後七時。
午後6時40分 出血箇所の分析結果が出る。<動脈ではなかった!>
午後7時00分 手術室まで見送る。予定は一時間。実施する内容:脳室ドレナージ術(両側)
午後8時08分 手術終了の知らせ。
午後8時23分 病室に戻ってくる。
午後8時40分 医師が説明にやってくる。「手術はもともと難しいものではないので、無事に終了した。本来なら、この時点で今後のことをお話しすることになるが今回の場合、通常の場合とは違うイレギュラーな展開でこういう手術に至ったことを考えると、現在出血は止まっているが翌日、明後日に出血が起こってくることを想定しなければならない。危険状態は変わりない。ただ、医師の感触で言わせてもらうと命が助かる方向へ一歩ではないが<少しだけ動き始めた>という気がする」
午後9時50分 義妹が駆けつける。手術が成功しなくともすぐにどうこうなるわけでもないので手術の結果を聞いてから動くように伝えてあったのだが、結果を知らせる電話をするとすでに家を出ていた後だった。この辺りは妻とそっくりだ。
午後10時17分 妹の手を握り返す。意識はまだ無い。
午前12時40分 いったん帰宅する。少し寝る。
25日
午前10時13分 交替で出かける前にこの記事を書く。

私は、ひとにものを頼んだりすることは普通にできるしいつもしているけれども、助けを求めることはとても苦手です。だけど、今回は恥も外聞もなくそうしてしまいました。応えてくださった皆さんのご厚情に心から感謝します。これから病院に向かいます。
※前日の記事の間違いを少しだけ訂正しています。「血液凝固製剤」→「濃厚血小板」

追記 23時15分
昨日の時点で手術をしなければいけない状況を招いたことが最悪であり、深刻な状況そのものを医療が暴いてゆく。脳室の膨張による脳幹への致命的な圧迫は避けられたが、その膨張を招いた出血を取り除くことは解決に繋がる治療ではなく、第三脳室の出血そのものの問題も解決しない。手術即、死を避けられたのは動脈からの出血ではなかったというだけで、脳幹に近いところの出血は深刻な事態を徐々にあらわにしていく。
脳圧は通常に戻っているのだが、意識状態、反応は深い混迷のなかにある。
夜9時過ぎ、そろそろ帰ろうかと思い始めた頃反応がさらに鈍くなり見えているのかどうかわからない瞼を閉じられない眼球の動きが力なく彷徨うように意思を失い等速運動のように左右に揺れはじめ高熱がでる。
ただちに今日二回目のCT撮影の指示が当直の脳外科医から出た。ゴロゴロと痰が絡み、それを吸い出すとほとんどが血だった。

昼過ぎ、最初の救急で診てくれた医師が部屋に現れる。助かる可能性を聞くと、二週間しないとわからない。二週間生きていれば、生存はできると言った。血液の凝固異常が解消しない。血小板が回復しない。それが問題である。担当の若い脳外科医が少し遅れて入ってきた。仮に生存してもこのままであるかも知れない。しかし、希望を捨てないで治療を続けるのが私たちの役目と言った。

CT撮影から帰ってきた後、すぐに結果が伝えられた。目立った変化はない。だから今夜はいったんこれで帰られてはどうかと言われ帰ってきた。「おやすみ。今日はこれで寝るよ。また明日の朝」と声をかけると、なんとなくそれに応えるような気がしたのは、きっと気のせいだっただろう。
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