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「介護力」って? [介護と日常]

GWも一段落。羽を伸ばしてきました。この事は後日改めて。

久しぶりに妻に関する事をまとめておきたい。
4月になってからレンタルのベッドを解約することにしたことはすでに書いた。
一ヶ月を過ぎ、この判断は想像したより良い結果をもたらせてくれた。
寝るのに以前ほど抵抗しなくなったし、途中で目が覚めてもいきなり起き出して徘徊することもなくなった。
布団の上げ下げは面倒だが最近では布団をたたむのも手伝ってくれるようになった。

食事の献立などを決める際に、妻の意見を聞くようにした。また食事だけではなく日常の多くの決定に際して妻の意見をまず第一に聞くようにしている。
というのは、今まで日常の処理に際して妻の意向を聞くこともなく、妻を「病人」として保護することを前提に全てのことを進めていた。
これは無意識のうちに妻を「家族という他人の牢獄」に幽閉していたのではないかと気がついたからだ。
妻が倒れてから今の状態になったところで、私を含む家族の関係は以前とまったく違う関係に変わってしまっていることに無自覚ではなく、むしろ自覚的といって良いほど対応してきたが、その対応の中に妻の意識はすっぽり抜け落ちていた。いや、抜け落ちていたというわけではなく保護すべき対象として斟酌はしてきたわけだが、明らかに目に見えない境界を引いてそのらち外に妻を置いてきた。
妻の不安の原因はこの家族の関係性に端を発しているのではないかという遅まきながらの気づきだった。そのあたりのさわりは「希望」という記事にも書いた。
そこで、関係の再構築はどうすれば可能かと考えていたが、さしたる妙案も浮かぶことなくまず出来ることといえば、家族の決定事項に関することは事の大小に限らず、妻の意向を前提に決定するということにしたわけである。とはいえ、何でも妻のいうことを聞くということではない。否定するにしても受け入れるにしても、そこには必ず妻がいるという風にした。
これは始まったばかりなので、どうなるかわからない。ただ、少しずつ妻は自信を取り戻しているように見える。問題行動というのは排泄の問題を除けば、落ち着いて考えてみればいわば「しれたことばかり」である。タンスの中身を放り出すことも、テレビのリモコンを壊したり、自分のバックを壊したりすることもそれを許さない自分(家族)がいなければ、結果としてはいつでも修正や修復可能な小さなことばかりである。また排泄に伴う問題はほぼ解消していると言って良い。(とはいえ、その結果に対して呆然とすることは多くあることを否定しないけれども)
そのように考えるようになると、妻はおおかたは日常の枠内に収まっているのではないかと思い始めた。怪我などの危険が伴うので放置することは出来ないし、近頃はこうした認知障害者を騙して金を取る一部上場企業などが堂々と世の中に跋扈しているので目は離せない。
(アイフルの京都では私と同じ区内に住む認知障害者を保証人にして多重債務者に金を貸すという事件が発覚した。許せない。この会社の個人株主も含めて社会的糾弾を受けるべきだと思う。これは消費者金融の存在を否定するものでも、多重債務者救済の側に立つというものでもない。また上限金利を制限すべしという意見の側に立つものでもない。だが、上記のアイフルの行為はアイフル側にどのような理由があっても許してはいけないと思う。まったくお先真っ暗の「ひでえ話」である。)

4月に入って読売新聞で三好春樹という人が「介護の心」というコラムを不定期に連載し始めた。とても小さなコラムで最初は気がつかなかった。そのコラムは夕刊の社会福祉に関する特集の中にあり、第一回目では小澤勲先生の特集で(「痴呆とは何か」「痴呆を生きるということ」等の著者・岩波新書)、この先生が肺ガンを病んでいることを知った。一連の特集を読み直していてそのページの中に小さなコラムがあることを発見して追ってみると、妙に気にかかる。調べてみると、リハビリの専門家でかなりの著作もあることがわかった。その中に「関係障害論」というなんとも今の私には飛びつきたくなるような論考もあることがわかった。
5月9日付け夕刊のコラムではタイトルが「施設入所で再び通う心」というもので、著者の古い友人の女性の例を紹介している。
以下にその一部を抜粋して記す。

疲れた介護者に介護されている老人が落ち着くはずがない。老人、特に惚けのある老人ほど、「人に迷惑をかけているのではないか」ということには敏感で、彼女の疲労が強くなるにつれて、夜間の不眠、徘徊が増えているという。
周りから施設入所を勧められているのだが、彼女は断り続けている。「親を見捨てることはできない」と言うのだ。私は異論を挟む。
「施設で暮らすことは親を見捨てることじゃないよ。むしろ今のようにお母さんらしさが無くなっていくことの方が見捨てることになるのじゃないか」と。
-中略-
たしかに、家族にしかできないことはあるが、逆に他人だからできることもある。それは「介護力」だ。
これは介護職に任せればいい。家族にしかできないのは、「介護関係」だ。互いを思い合う気持ちだ。
施設入所すると距離は遠くなるが、一緒にいて気持ちが離れてしまうよりはましだ。
-後略-

「介護力」という言葉は初めて聞いた。文脈から想像するとこの介護力という言葉には専門性・知識力・技術力・客観性といったものが込められているように思う。
私自身の関心に引き寄せてみると、介護における家族・介護者の「内」の問題と制度や社会を含む「外」の問題を通底させる重要な事柄について、ヒョイと簡単な言葉で提起してくれた専門家は初めてである。
北欧の福祉や施設に関する本も何冊か読んだけれども、文化的な差異とか社会のあり方などに深く言及したものはなく、私自身すぐさま納得できるものはなかった。私はようするにちょっと眉唾しながらでしか読めなかった。だけど読んだ本の内容は、専門家や医療・福祉従事者・役人が喜んで受け入れる内容なんだろうなということは理解できた。
介護は専門家にというのはこの世界の人たちにとってひとつの常識かもしれないと思いつつ、それを簡単に首肯できないでいる。もし私が妻の介護で生活そのものができなくなってしまったら(主に経済的要因で)、選択のひとつとして受け入れざるを得ないかもしれないが、おそらく今とまったく違ったストレスと受傷を背負わなければいけないと思う。個人的な納得の問題なのか家族と制度との関わりが問題なのか今の私には答えが見いだせない。
ただ、社会に解決を求めることを潔しとしないという思想性の問題ではなく、書店で福祉関係の書棚を見るとズラリと並ぶ資格試験の類に圧倒される。つまり福祉や介護がすでに産業としてこの国の経済構造に組み込まれている現状を発見して暗澹となると同時に不信の胚芽は大きくなってしまうのだ。

この人(三好春樹)の本を読んでみる気になっている。この著者、どうやら以前に一冊だけ対談集を読んだことがあるようだ。


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honnoridesu

こんばんわ♪
難しい問題ですね。 
実家の場合は、父がワンマンでしたから、今のような状態になっても常に父の言葉、意見を第一と考えてやって来たように思います。
それが、そのまま通る、通らないは別として…
でも、何かの本で、考えて答える事はとても難しい事なので、分かり易く単純に二者択一のように質問すると良いと書いてあるのを読みました。
それぞれの場合によって異なって来るでしょうね。
奥様が生き生きしてきたら嬉しいですね。
私も父が昔の表情をする時があって、そんな時とても嬉しいです。

「三好春樹」の本、読みたくなりました。
家も読売新聞なので、気をつけて記事を見るようにしましょう^^
本も探してみようっと…
by honnoridesu (2006-05-12 20:41) 

妻の介護に関しては、当初の状態からとにかく目を離さず見守り介護をと思ってきましたが、かえって過保護になりすぎていることにも気づかされ、ADLの向上のために家事なども少しずつ出来ることからやってもらえるようヘルパーにもお願いしていますが。。。。専門職の方のほうが、
自分の仕事だからと自分でやってしまっちゃうことも多いです。わりと年輩の方に多い傾向です。
>疲れた介護者に介護されている老人が落ち着くはずがない。・・・
これ以降の下りの老人をそのまま身障者に置き換えれば、
うちも身につまされる思いです。そうそう、介護本にはあれこれ書かれていますが、やはり実際に体験した方の体験記の方が共感はもてますね。妻だけでなく、これから、義父が自分のことも含めてどうしていきたいのか、また私の両親も今は元気ですが、介護の問題は避けては通れぬ道です。その施設なり、派遣業者なりの「介護力」が確かなものなら、良いのですが・・・・そうとは限らないのも現状だと思いませんか。
by (2006-05-12 22:24) 

miyata

ほんのりさん、こんばんは。
嫁さんがいきいきしてくれると嬉しいですが、逆の不安もありますけど(^^ゞ
三好春樹という人の書いてる内容は、ちょっと面白いんです。こうだから、こうしなさい的な教えるような書き方じゃなく、目線がこちらに近いんでしょうね、きっと。老人の行動や言動を謎解きのように解き明かしてくれたりとか。
まだ本は手に入れていませんが、まずは「痴呆論」あたりから読んでみようと思います。
by miyata (2006-05-13 01:44) 

miyata

タケノコさん、こんばんは。
>その施設なり、派遣業者なりの「介護力」が確かなものなら、良いのですが・
そうですね。確かにその面の不安感はぬぐえません。けど、単純に考えるとこの方面の解決策は割合簡単に見いだせるように思います。うんと予算を増やすのと同時に、介護従事者の待遇をうんと良くしていけば確実に質は向上すると思います。けど、単純ではないのがそういうことを社会が容認して推進するかということでしょうね^_^;
by miyata (2006-05-13 01:55) 

シマリス

miyataさん、おはようございます。
介護は夫婦のあいだでさえ難しいものです。
私の場合される側になりますが、そのときの状況、時々により、求めるものが違ってきます。
たとえば、(私は靴下がひとりではけない)その様子を見ていられない夫はすぐはかせてくれる、それが嬉しいときと、そんなことよりもっとやって欲しいことがある時。そんな時は、ありがとうもいえない。
30年近く一緒に暮らしてきても、その時、その時、言葉にして言わなくては、あうんの呼吸で・・・というわけにはいきません。

福祉や介護がすでに産業としてこの国の経済構造に組み込まれている現状・・・・現場で実際に介護している、されている人々の実情より、それを知らない上の人だけが、苦労することなく、利を手にしてしまう。今もそうですし、これからはますますその傾向が・・・
私もそう思います。
by シマリス (2006-05-13 08:54) 

kazesk

miyataさん、こんにちは。
日頃、考えないふり、必要ないふりをして目も頭も心もそむけてきている”核”に触れていらっしゃるこの記事を拝見し、私もきちんとここのところに向かい合わなくてはいけないなと考えさせられました。

>社会に解決を求めることを潔しとしないという思想性の問題ではなく、書店で福祉関係の書棚を見るとズラリと並ぶ資格試験の類に圧倒される。つまり福祉や介護がすでに産業としてこの国の経済構造に組み込まれている現状を発見して暗澹となると同時に不信の胚芽は大きくなってしまうのだ。

私もこのことはネックのひとつになっています。都市部と地方の内容の格差もあり、難しい問題ですね。
by kazesk (2006-05-13 14:30) 

miyata

シマリスさん、こんにちは。
貴重なコメントありがとうございます。
私は介護している側として妻のそういう心の動きとかをなんとか理解したいと思うんですが、うまくできません。昨日良かったことが今日は嫌という事はしばしばあります。そのメッセージをどう受け止めたらよいか・・・。
最初はというよりずっとかもしれませんけど、夫婦関係や家族関係から出発せざるを得ないし、その部分を突き放すというか対象化するのはとても大変であり、一番重要な重しやかすがいでもあったりする。
制度に対する不信よりも先にそこのところを自分で納得できないから、ショートなどのサービスをすぐに止めてしまいました。(ショートから帰ってきた時の妻の様子がひどいというのありましたが)
で、介護の本を読んでいるとだいたいあっさりと「家族や夫婦の関係はいろんな事情を抱えているでしょうけど・・」からいきなり介護生活のあり方へと飛んじゃってるんですよ。私はうまく割り切れません。だから力尽きるまでこのままで行こうと考えていますが、心配は妻が果たしてそれで満足するのかどうかということですね。独善的にならないように、しっかりとネジ巻かなくちゃ^_^;
by miyata (2006-05-14 13:45) 

miyata

マオさん、こんにちは。
とんでもないです。私はマオさんの折々に書かれた記事でいつもこういう問題をしっかり考えなくてはと怠惰な自分に気づかされています。

解決不能な問題を抱え込んで時間を浪費するのは無駄なことだという妙な合理性といやいや非合理なことに一喜一憂するのも人間なんだという狭間でいつも揺れ動きます。ときたま訪れる安堵や幸福感のために多くの時間を割いているのかなと思う時もありますが、こういう時の孤独感は悪くないと思ってます。
個々の事情が制度とスムースに行き来できる世の中が具体的なビジョンとして見えればそれに越したことはないんですが、私には当然見えません。だからせめて大勢の意見には片一方の耳は塞いでおくようにしてます。とてもむなしい抵抗かもしれませんけど。
by miyata (2006-05-14 14:32) 

難しいような
しかし愛で改善できることを照明してくださっている
うれしいような。私は有料の施設にいる老人を2人知人友人としてよく訪問をします。
1年たってみて施設にいることの話題の少なさが哀れです
by (2006-05-18 07:00) 

miyata

なかなかないさん、こんばんは。
老人施設ってなんだか社会と閉ざされているようで嫌です。
そうでない施設もあると思いますが、選ぶとなると大変そうです。
老人ってほんとはやっぱり若い人や孫とかと一緒にいるのが望みなんではなかろうかと思うんです。
by miyata (2006-05-19 00:29) 

tomoko

こんばんわ、今日新聞を見ていたら、タンポポのことが・・・私なんか何の気なしに見ていたタンポポが今話題に、宮城県の塩釜神社のそばに、にほんのタンポポがあるそうです。
近くの高校生達が保存の為西洋タンポポをせっせっと抜いているそうですが。
しかしすごい勢いの西洋タンポポはどんどん巾を広げてにほんタンポポ
がどんどん少なくなってきてるそうです。
此れはもう全国的に大運動だね!私は直ぐ熱くなるから(^0^)/
by tomoko (2006-05-19 22:45) 

miyata

ともちゃん、こんばんは。
おお!熱くなってますね(笑)。
ともちゃんの年齢で(失礼)熱くなれるって素晴らしいことです。
でも燃え尽きちゃあ駄目だよ。
by miyata (2006-05-21 21:38) 

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