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妻の死のご報告 [介護と日常]

1月9日、妻が息を引き取りました。享年76歳(行年77歳)。俗名 宮田信子 戒名 香雲院信譽光藝大姉 11日に通夜、翌12日に葬儀と初七日を終えました。あまりの突然の死だったので、今はまだ受け止める事ができていません。最初にくも膜下出血で倒れてから、19年目に迎えた終末でした。ここ10年は身体の自由のほぼすべてがままならず、寝たきり状態でしたが、アイコンタクトなどで意思の疎通はあったし(と、信じています)嬉しい時や苦しい時もその訴えは私には豊かに感じられていました。

妻の仕事場のある路地に引っ越してからずっとそういう状態であったのですが、ここ数年周囲の環境がガラッと変わってしまいました。3年ほど前から隣に大きなホテルの工事がはじまり、また反対側もホテル建設が進められ、静かな路地環境は一変してしまいました。そして、工事による騒音、振動から逃れるために、昨年11月から緊急避難のため仮の住居に移りました。この仮住居には妻と私だけが移り、同居している子供は昼間仕事に出かけるためにたいした影響を受ける事がない事から残りました。仮住居での新しい生活は、考えてみれば子供が生まれてからはじめての二人きりの生活となりました。一昨年、昨年と世の中はコロナ禍に見舞われかつて経験した事がないような社会の、世界の動揺に巻き込まれていましたが、それ以上に昨年の妻は体調を崩し3度も死の淵に立ちました。でも、その都度いつも往診に来てくれる医師が驚くような回復を見せ、なんとか仮住居への避難を実現できたのでした。

今年のお正月は2人でお屠蘇を飲み、お節を食べ、のんびりと楽しいひとときを持つ事ができました。妻の表情もずっと穏やかで、訪問入浴や訪問看護師さん、拘縮のリハビリのためのマッサージの先生など皆に妻の回復を喜んでいただいていました。

妻の死はその矢先の事でした。私が異変に気がついた時、もう帰ってこれない歩みを進めている事が理解できました。診療所に連絡し、人工呼吸をしたり、心臓マッサージをしながら救急車を呼び、子供に連絡をするなかで、妻の体は徐々に死に侵食されて行くようでした。到着した救急隊員に妻を委ねた後は葬儀まで、まるで早回しのフィルムの中に投げ込まれていたようでした。

葬儀は路地の狭い長屋で行いました。隣の工事現場はいつも通りに大きな重機がうなりを上げ地面を揺るがしていました。家から妻を送るのは私の考えでした。子供たちも最初は怪訝な顔をしていましたがとくに反対はしませんでした。
家族、兄姉、近い親族だけの小さい葬式でした。気づいた路地の住人数人が見送ってくれました。雪が降りしきる寒い日でした。

火葬場に向かう車の中で、結婚したときのことを思い出していました。あの時もこんな風に雪が降りしきる寒い日だったなと。

このブログでいつも気にかけていただいたみなさん、ありがとうございました。何年も近況を知らせる事もなく不義理をしてしまいました。また、妻の死の知らせが遅れた事をお詫びします。
妻の死に顔は、穏やかとか微笑んでいるとかではなく、笑っていました。私にはその意味が(あるのかどうかさえ)わかりません。ひょっとしたら泣いていたのかもしれません。死を迎える前にはきっと苦しさや絶望や悲しみが嵐のように襲ったに違いなく、死を受容しようとした契機はなんだったのか、数メートルも離れていない私と妻との間で、こえようのない断絶、切断が起こった事が受け止めがたいままです。これから少しずつあるはずもない答えを探していこうと思っています。


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あけましておめでとうございます。 [介護と日常]

年が明け、三が日が過ぎた。のんびりと正月を過ごした。
あけましておめでとうございます。

昨年の事を少し振り返ると、妻は何年かに一度は大病を患うが昨年はちょうどその年に当たったらしく2月に胃ろうの交換で入院中に腹膜炎であることが発覚して日赤に転院した。お腹に溜まった膿を体外に出す処置をして体力が回復したら開腹手術をする段取りであったが手術は免れて5月に退院できた。その後は比較的に穏やかに過ごしている。

猫のことは書いただろうか。いろいろいきさつがあって路地に迷ってきたネコを保護した。その猫はまだ子猫かと思われたのだが妊娠をしていたことが発覚した。間違いなく初産であろうが、なんと7匹も出産したのが一昨年の5月。4匹は子供の知人達にもらわれて3匹が残った。その子猫たちが1歳の誕生日を迎えた。3匹とも雄猫で賑やかなこと、賑やかなこと。

私の事を少し。昨年の10月、お国公認の高齢者となった。
介護生活が始まって14年目に突入した。妻が倒れた日は自分の誕生日の数日後だったからよく覚えている。10月の6日に日が変わろうとしたときだった。最初にブログを立ち上げたとき、人は予測の範囲で生きられるわけではないと書いた。このとき念頭にあったのは私にとっての阪神大震災だった。あれから自分が何を考えていたのかほとんど記憶が無い。海外の知人が激励の手紙をくれたとき、直接の被災地ではないから大丈夫。ただ、日本は今までのような日本ではなくなる。違う世界に向き合わなくていけなくなるだろうと返事したことを記憶している。何がどう変わるのかもちろん私にはわからなかったし今もわからない。

6年前には東日本大震災が襲った。その規模は阪神大震災をはるかに超えるものだった。原発が壊れた。あれから断続的に大地震が続き、台風などの自然災害や大火の被害が相次いでいる。妻はまるで共振するかのように何度も死線を彷徨った。私にはどうすることもできず、ただ今あるその現実に向かい合っているだけの日々を送っている。無力感にさいなまれているわけでもなく、ただ諦めているだけでもない。かろうじて意志を繋ぐ、そのことが可能なのか私なりの決意を含めた処し方である。

年の初めからなんともおめでたくないようなことを書いてしまった。妻は今年の年女である。長い中断となったが、今年もよろしく。
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よいお年を。 [介護と日常]

今年五月かなり苦労してパソコンを新調した。少し長い文章(ブログ)を書いてみたいと思ったからだが、自分で改造したおそらく元は台所跡であろう物置だった小部屋に置かれた真新しいモニターの前に座るととっくの昔に底が抜けたザルのようになっている自分と出会っただけだった。
表向きは前よりずっと淡々と暮らしている。だが、日々日常の生活が言葉で語る平坦なままであるはずがない。

何げなく通り過ぎてしまうことに立ち止まる。きっと、もうそんなことしかできない。だから厭わずに立ち止まるようにと自分に言い聞かせている。が、それもなかなか難しい。

老いたという実感は実はさほどない。身体の動きを除けば。だが、どこかに向けて歩きはじめている気がする。つまり、立ち止まることができる道にいるわけだが行き先はない。

食べることも話すことも動くこともできない妻との生活は変わらず続いている。妻も自分が元の姿に戻れることはないとおそらく自覚している。その現実を引き受けることも生きることだと言っているようにみえる。そこがきっと私との交点だろう。一日の大半を目を閉じて過ごす妻とはもうわずかな時間の間でしか出会えない。だけど、こんな日々がまだ続くことを願っている。

前にここで年越しの挨拶をしてから二年が経っていた。短くはない時間だった。明るい希望や未来では表せないような世界の入り口に、いやもう引き返せない世界を歩んでいるのかもしれない。それでも、ふと見過ごしてしまうかのような何げない仕草や吹きすぎる風に気づく場所があれば、そこが私たちの橋頭堡になるだろう。

心安らかな年が明けますように。よいお年を。

※SilverMacさんが亡くなられていたことを知った。なんといううかつ。今は言葉もない。ご冥福をお祈りします。
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よいお年をお迎え下さい [介護と日常]

(今これを書いているのは、HDがうるさくうなり声を上げながら止まりそうでかろうじてネットに繋がっているおよそ13年前に中古で買った(つまり、さらに古い)ウインドーズノートだ。前回の記事を書いてから書きためていた頼みのMacが壊れた。Silvermacさんから譲ってもらったMacだった。あのMacもすでに何世代も前の骨董に近いマシンだったが何をするにしても必要かつ充分な(すでにかなり不十分だったが)環境ができていた。もう新しいマシンを買ってあの環境を再現する余力も気力もない。)

今年も残すところあと一日。せめて年内の挨拶だけはと思い書き始めました。今年もお世話になりました。私はペインクリニックの治療が功を奏して普段の生活になんの支障もなくなりました。いくら薬を飲んでも、指導された食事療法を続けても上がり続けていた血糖値も、訪問入浴のスタッフさんから聞いた「糖質制限食」を始めてから一気に下がり始め、今では薬も飲んでいません。60歳前後に大なり小なり訪れるという老いに伴う身体の変調もなんとなく峠を越えた感があるこの頃です。

妻がまったく身体を動かすことができなくなってからはや1年が過ぎました。妻は発熱をくり返しやはり少しずつの衰えを隠せませんが時々思いだしたように怒ったり喜んだりまだまだ気力充分です。認知症をどう考えるのかと手探りで右往左往していたのが嘘のようです。今は褥瘡をつくらないようにするにはとか、拘縮を進行させないためにはとか今までとぜんぜん違う介護に明け暮れています。そして、以前より断然楽になりました。でも、ほんとうはもっと深くて高度な相対の仕方が問われているのかもしれません。そんなことを考えながら今年も終わりを迎えました。まだまだブログを撤退する気はありません。少しずつ、また折々に考えたことをブログに書いていきたいと思います。みな様、良いお年を!
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壊れていました [介護と日常]

思いがけず、日にちが開いてしまった。凶暴な暑さに加え両肩、両腕のまったく経験のない深刻な痛みでまともに日常生活すら送れない状態に陥りようやく今普段の自分に復帰しようとしているところだ。しつこい肩の痛みは昨年の引っ越しの後に始まった。右肩が上がらなくなり寝返りもできない日々が続いたが、それもこの夏に襲われた痛みに比べれば単なる序章だった。

6月に入った頃、肩の痛みをほとんど感じることもなくなり、ようやくしつこい痛みから脱することができるかと思われていた頃、ちょうど妻の体温を安定させるために常時冷房を始めた頃と重なる。兄が亡くなったあとしばらくして、突然五十肩と診断された時以上の痛みを覚えた。痛み故に腕全体が痺れてしまったようだった。妻の介護は左腕を最大限使うことでなんとかこなしていたが、7月の終わりには右肩の痛みが治まらないうちに今度は左肩に激しい痛みが出た。もう両腕とも前へならえなど不可能だった。マッサージ・整体・針・町医者にかかった。治療や施術をしてもらったときだけ楽にはなったが二日と保たなかった。まともに妻の介護はできなくなってしまっていた。ついにケアマネと往診医に泣きつかざるを得なかった。痛みが回復する間、治療に専念する間だけの妻の入院を頼んだ。医師はすぐに入院の申し込みをしてくれたがなかなかベッドの順番がこない。ケアマネは自動で体位変換するエアマットを導入し、午前に一回おむつ交換にヘルパーさんを入れる段取りを組んでくれた。娘は夏休みの一週間をすべて介護に当ててくれた。私はその間、冷房のない部屋で寝て、起きては痛みの原因を探るために総合病院に通った。だが、大病院の若くて優秀そうな医師は原因を探ろうとはするが痛みを和らげてくれない。検査中は何度か鎮痛剤を変えるだけであった。だが処方された鎮痛剤で治まるような痛みではなく、やがて肘が曲がらなくなり、手首は腫れて動かなくなり、ついには手のひらの痛みに加えて、5本の指を握ることはおろか曲げることもできなくなった。右手にギブスをしたが痛みには無効だった。娘の夏休みが終わろうとしていた。妻が入院する予定の病院からベッドが開いたという知らせもないまま、何度かのレントゲン検査に続いてMRIを撮った1週間後、私は病院で若い医師を向き合っていた。若い医師は診断がつかないと首をひねった。リュウマチではない。頸椎のヘルニアも影響がありそうだ。五十肩つまり肩関節周囲炎ならばその影響は肘まであり、手首、手のひら、指には影響しない。ヘルニア箇所がその指や手のひらに何らかの影響はありそうだが、手根管症候群も疑われる。右手にでていた症状は少し遅れて全部左腕にも出てきた。私は原因はどうあれこの痛みだけなんとかして欲しいと懇願したが医師の答えは歯切れが悪かった。「うーん、何がしてあげられるのか…。確かにこの病院に来るからには、何とかしてもらえるはずだという期待を持ってこられることは承知している。しかし、できないこともあるし診断がつかなければ具体的な治療はできない。薬を続けるくらいしかないんですよ」私は少しあわてるとともに、失望を禁じることができなかった。民間療法でも町医者でもその時楽になるくらいのことはしてくれたのに、この基幹病院ではやりようがないという。私は、関節への注射とか出来ないのかと聞くと言葉を濁す。この病院での治療を諦めた。慎重すぎる診断の進め方にこの病院と若い医師に救いようのない退廃の匂いを感じた。
だがこのまま元の治療や民間療法に戻るわけにはいかない。手術も含めて考えられる有効な治療はないかと水を向けた。「手術は最終的な治療としてあるが、頸椎のヘルニアも所見ではそこまでひどくないので勧められない」では、たとえばペインクリニックということを聞くがそれはどうか?「ペインクリニックはあれは麻酔医がやることで整形ではやらないし、またこの病院ではやってない。京都でやっているのは京大、府立医大、それに開業医で何軒かあるが、やってみるつもりなら紹介状は書く」
やっとこの医師から有効な手がかりを得ることが出来た。京大や府立医大で時間をとられるのはいやだから開業医を選んで推薦状を書いてもらうことにしてこの病院と別れを告げた。料金の計算を待っている間に紹介状を書いてもらった病院に電話をかけ、翌日に受診することになった。
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兄のこと 1 [介護と日常]

痩せこけた人が背筋をぴんと伸ばし直立不動で正面を見据えるように合掌している写真に、母は毎日のように線香をあげていた。その横には小さな観音菩薩座像が置かれていた。その人のことはほとんど何も知らない。祖父(母の父)ということ。死の間際の写真だということ。それ以外、母から聞いたことはもうほとんど記憶にない。あるいは何も聞かなかったのかもしれない。母の死後その菩薩像も写真も、ない。

6月29日。寝ようと布団に入ったのは明け方の4時過ぎだった。すぐに眠りに入っていくのがわかった。その時、まるで悪戯でもされているかのように後頭部の髪の毛の中に何かが動いた。虫がいるのかと思い飛び起きて頭を調べたり、枕や布団を見たのだが何もなかった。そして再び電気を消しそのまま熟睡した。

電話が鳴った。8時30分過ぎだった。兄の長男から兄の死を告げられた。明け方のこと、寝入りばなのことを思い浮かべた。
妻の方を見ると電話の様子を目で追っていた。受話器を置いた後兄が死んだことを妻に告げた。妻は大きく眉間にしわを寄せ目を閉じた。

話が前後する。6月3日に妻は胃ろうのペグ交換のために一週間の予定で入院した。
6月10日は退院の日だった。手続きを済まして介護タクシーに乗り込んだ後、急遽兄が入院している病院に行ってくれるように頼んだ。絶好の機会だった。妻とともに病室に行くと一瞬兄は驚いた顔をした。「エール交換に来たよ」というと、動く方の左手を差し出してきたので妻の動かない右手を持ち上げるとその手を軽く兄は握った。妻は目を閉じたままだった。
兄は痩せこけてもはや透き通るようであったが、凛とした表情でベッドにいた。その姿は、写真で見ていた合掌する祖父とそっくりだった。
これが生前の兄と会った最後となった。

30日に生前の兄の意向により家族だけの通夜をやり、翌7月1日にやはり身内だけの葬儀を終えた。
71歳だった。



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年の瀬に [介護と日常]

まもなく2012年が終わろうとしています。2月に妻が死の淵を彷徨う重病となり、思い出したくもない引っ越しが続き、5月に妻は新しい家に帰ってきました。夏前には兄が癌で胃のほとんどをとる手術をしました。綱渡りのような夏を覚悟していました。夏をやっと超えられたと思ったとき、私の今年はほとんど終わっていました。
日々生起し、堆積する欲望の処理はツイッターやG+といったSNS上で解消できる程度に安定したものでした。しかし、自分自身に刻むような向かい方はとうとう出来ないままに時だけが過ぎていきました。

10月の終わり、体に変調が生じて深夜の救急に行く事態になり、結果11月のはじめに手術しました。膀胱に2センチほどの結石がありその石が尿道を塞いでしまったようでした。何年か前に小さな石が腎臓から出て病院の待合室で気を失ったことがありました。その時の診断ではまもなく膀胱に移動して排出されるであろうと言われましたが、今回のことでその小さな石も排出されずに、膀胱に居座っていた石と合体してさらに大きくなっていたのだと思われます。入院は4日間ですみました。その間、妻はレスパイト入院をさせてもらい私が退院してから迎えに行きました。

妻は5月に帰ってきてから、しばらく無反応な日が続きましたが、少しづつこちらの呼びかけに応答するようになりました。まばたきや、時には頷いてくれるときもあります。やりとりの範囲は極端に狭くなりましたが、無反応も含めた応答は「喪失」を補うものではなく、あらたな次元の獲得された交感を与えてくれました。

私自身は、前ほど元気ではなくなりました。特に手術後にそう感じます。外で人に会うのは心も躍り楽しく過ごせますが、家に人を招いてお酒を飲むような元気はなくなりました。ひとつには定期的に妻の吸痰をしなければいけないこともあります。(毎年新年の挨拶に来てくれるM君、これをもし読んでいたら今年の正月は遠慮してください)それだけが理由ではありませんが、このなんともいえない億劫さがひとつ私にまるで重ねる年齢のように加わりました。呼び出していただければ事情が許す限り、出かける元気はかろうじて保っています。

今まで、自分にとって「認知症とはなにか」と問うことがテーマでした。しかし、再び妻が倒れた後また違った問題に向きあうようになったと感じています。認知症について自分なりの答えも見いだせないまま、身体と命が重なり合う存在のあり方(うまく言えませんが)に、揺さぶられ続けています。

そんなわけで、今年いろいろご心配をいただきありがとうございました。良いお年をお迎えください。
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引っ越しの簡単な顛末 [介護と日常]

引っ越しは転勤族でもなかったので何度もしたわけではないけれども、結婚してからは三度経験している。すべて京都市内だが、いわゆる洛中での生活経験はない。結婚当初は伏見区の一軒家に住んだ。門があり玄関先にけっこう広い庭があり(といっても三坪ほどだった)気に入っていたが妻の仕事の都合により東山に変わった。その家は、上の子が中学生の時のある日、出張から帰ってくるとなにやら大工さんが家に入っていて、裏のお風呂とお風呂に続く居間が消えていて驚いた。私がいないときに妻が自分の仕事場にするために工事を決行したのだった。さすがにそのままでは住めなくなり、また伏見区に引越をした。今度は駐車場付きの家だった。これも気に入っていたのだが、家主さんが経験のない人で貸した家が心配のあまり干渉しすぎるので妻が我慢できなくなり、三度目の引っ越しをすることになった。この引っ越した家が、今までの舞台である。

今までの家はすべて妻が見つけてきた。大家との交渉も全部妻がやった。私はいつも渋々従うだけだった。最初の家は変わるのが嫌で私だけが居残り、二ヶ月抵抗したのだが、ある日妻がやってきて小遣いを一万円増やしてあげると言われてあっさり従った。

だが、これらの引っ越しはまだかわいかった。貧しいながらも必要最小限より少しだけの贅沢と希望を背負って私たちは移動できた。三度目の引っ越しをした年は今でも覚えている。その年に阪神・淡路大震災が起こり、オームのサリン事件があり、そして務めていた会社が消滅したからだ。

今回の四度目の引っ越しは今までの引っ越しとは違い、憂鬱だった。実際、とても一ヶ月で終わるような作業ではなかった。引っ越し前に処分せざるを得ないものを二日にわたってトラックを借り何度も処分場に行ったが、それでも引っ越しの荷物は引っ越し先に収まりようがなく呆然とした。
引っ越し業者の作業は、当日の朝8時半から始まり深夜日が変わる頃に終わった。そして、引っ越しからしばらく段ボールの隙間で寝た。整理と片付けは、この家のサイズに収まりきるようになるまで、ただただ処分を継続していくしかなかった。5月18日に最後の整理しきれなかった家具や備品を処分して、ようやく妻の退院を迎える目途がたち、退院前日のベッド配置に間に合った。

この間私は、家具の処分や設備工事で行けない時を除いてほぼ毎日出かけ、看護師さんの監督の下チェック項目に従って病院で吸痰や流動食の注入の指導を受けた。土日は子供達が休みを利用して交替で病院に行きやはり指導を受けた。

余計なことを書かずにかいつまんで今回の引っ越しのことを書くと、まあこういうことだった。捨て去ったものが余分なものだったとは思わない。もったいないと少し思わないわけではなかったが、それは自分への期待に対する名残惜しさみたいなものだと思う。

いよいよ終盤戦にさしかかったことを実感している。この狭い路地奥にある築百年の長屋の生活はじつはとても落ち着いて気に入っている。表の戸には網戸もなく板の隙間から外の明かりが漏れてくる。家も微妙に傾いている。が、新しく塗られた各部屋の本格的な土壁はリフォームの嫌な匂いもほとんどなく、しっとりと生活の煩雑な音を包み込んでくれる。まだ二階はほとんど片づいていない。もう少しこのアンバランス、不安定を抱えていた方が自分にふさわしいような気がするのでぼちぼちとやって行こうと思っている。

さて、退院してからの妻は予想通りすぐにこの家に馴染んでくれた。それは良いのだが状態が上向いたり安定するまでには至っていない。体温調節機能が損なわれているためか、すぐに発熱する。冷やすと平熱に戻るのだが気がつくのが遅いと危険を伴う。咳や痰が相変わらず多い。覚醒しているときには目で頷いたりサインを送ってくれるが、15分以上は続かない。エアマットを使っているのだが、微妙に静かなその音が夜耳について私がなかなか寝つけない。三時間ごとに体位を変えるのがけっこうな負担だ。とまあ、細かなことをあげればきりがない。どんな日常も似たり寄ったりだと思っている。今の目標は、まずは今年の夏を妻とともにしのぎきること。という、わが家的にはけっこう大きな目標を立てておくことにする。
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一週間後にまた。 [介護と日常]

(途中で通信が切れずにアップできますように)
みなさん、こんばんは。
nice&コメントありがとうございます。ようやく、ネットの工事日が決まりました。6月3日です。現在使用している通信はeモバイルですが、今夜の12時で延長一ヶ月の契約が切れます。もったいないので、ここで契約を終了し、光の開通まで一週間待つことにしました。

退院してから、おおきな問題もなく過ごしております。けっして欲目ではなく退院してからの数日で、生命の糸が太くなったような気がします。目と表情とかすかな頷きなどで話しかけてきます。今日は初めての入浴サービスでした。室内にバスを持ち込んでそのまま入れてくれるのです。ちょっと感動しました。

3時間ごとに体位を変えるのがなかなか大変で、寝不足はちょっと対策をしないとこのままではこちらが倒れてしまいそうです。吸痰や胃ろうからの注入は失敗も含めて、もう、バッチリです。

この記事を、コメントへの返信とさせていただきます。一週間後にまたお会いしましょう。
それでは、おやすみなさい。
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明日23日退院します [介護と日常]

明日23日午前退院します。引っ越し後、ネットの工事が遅れに遅れて未だ開通していません。この間、eモバイルでネットに触れていましたが、電波が安定せずブログになかなかログインできませんでした。しばらくこの状態が続きそうです。退院受け入れの準備は、万全とは言い難いのですがなんとか片付けも間に合わすことが出来て、見切り発車です。吸痰や胃ろうへの流動食注入などの指導を病院で受けてきました。とにかく、家に連れて帰ることが出来てうれしいです。おそらく、この帰宅が最後の時間となることでしょう。大事にしたいと思います。新しい家は狭くて古いですが、静かで落ち着いて生活できます。妻もきっとすぐに馴染んでくれると思います。ネット開通後に、私が経験した最強で最悪の引っ越しなどをぜひ書きたいと思っています。金環日食、くっきりと見ることが出来ました。まず、近況報告まで。
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野田さん、そして和ちゃんへ [介護と日常]

野田さん、あなたのお母様の死の報告は私にとって想像以上の哀切を伴うものでした。
あなたとお母様の格闘の日々は、私には自分の息子を別なる次元へと導くための体を張ったお母様の戦いに見えることもありました。

手を出して涙するあなたの赤裸々な告白は、お母様があなたに促した決意と勇気の姿だと思えました。

野田さんのお母様。こんな事しか書けませんが、和ちゃんと書かせていただきます。安らかにお眠り下さい。

野田さん、長い間お疲れさまでした。私はあなたの呼びかけた統一戦線に一兵卒として、これからも馳せ参じます。

合掌。
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転院 [介護と日常]

一昨日の午後、病院から転院先の病院のベッドが空いたので移って欲しいと連絡が入った。いつかと問うと翌日の11時にあちらの病院着でお願いしますということだった。急な話だった。一向に片づく気配が見えない引越準備の中で、いささか疲れてきていたところに追い打ちをかけられるような気分になった。

炬燵の中で浅い眠りから目覚めた後、ついつい「起きた。コタツで寝てしまうと希望なんて言えなくなるような目覚めをする。」などと愚にもつかない事を書いていると吉本隆明の訃報がタイムラインに流れた。

「 @47newsflash: 戦後の文学、思想に影響を与え、「共同幻想論」で知られる評論家で詩人の吉本隆明氏死去。87歳。posted at 05:11:39」

もぞもぞと炊飯器のスイッチを入れ、朝食の準備をして転院のための用意をする。朝食を済ませてから9時に家を出て妻がいる病室に行った。なんだか険しい顔をしながら目を開いていた。病院の支払いを済ませ、荷物をまとめ、予約してもらっていた介護タクシーを待つ。

ベッドからストレッチャーに移る際、妻は大きく痙攣した。そして車で移動中にカーブで負荷がかかるとやはり大きく痙攣をして冷や汗をかいた。心配することはない。もうすぐ桜が咲くよ。外を見るのは久しぶりだね。早く家に帰ろう。ずっと話かけ続けた。

新しい病室のベッドに移り、担当の看護師や主治医の説明や質問を受けた後仕切りのカーテンを閉じたとき、妻はようやくホッとしたような表情をした。眉間のしわも消えていた。いったん家に帰り、着替えなどを用意して夕方にまた来ると告げて病院を出た。

帰宅して襲い昼食をとってからコタツにはいるとまた睡魔が襲ってきた。

誰かが死んだとき、この人がなにを言うのか、書くのか、もっとも声が聞きたかった人が吉本隆明だった。友人は新聞に寄稿されたその追悼文を送ってくれたし、雑誌なども片っ端から買い求めた。そしてその本人が亡くなった時、その声を聞きたいと思う人は思い浮かべても、いなかった。いや、ネットで知り得た少数の人の声が聞きたいと思った。その少数の人たちのつぶやきをチェックしながら眠りに落ちた。

目覚めると外はすでに暗くなっていた。慌てて家を出て面会時間終了間際に病院についた。妻は私の顔を認めるとすこし微笑んでくれたような気がした。

追悼 吉本隆明「吉本隆明がどんなふうに世界を見ていたか、なぜか私にはよくわかっていて、それがまったくの見当外れだったとしてもよくわかっていて、そこから語り出される言葉の意味も、だれにも説明できないほど透明だった。そのせいで吉本の発言が誤読されるとき、私ははげしく傷ついてしまう。私を傷つけた人々を私は傷つけ返さなければならないとさえ思う。一定の距離のへだたりを確保するためにはつき合わないだけではあまりにも足りない。みんな吉本隆明のことを忘れてください。」・坂のある非風景
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ガラス細工 [介護と日常]

三月になった。妻は時に薄目を開けるものの、相変わらずこんこんと眠っている。医師との面談があった。「個室にいるときよりもはるかに安定しているけれども、ガラス細工のような状態、ギリギリの状態であることは変わりない」と医師は言った。同時に転院準備を進めると告げられた。
急性期は脱したという判断なのであろう。また、現状の状態で家に連れて帰ることは出来ないとも告げられた。さらに容体が安定するまで、転院先の病院で養生が必要であるとのこと。その間に、どのような環境を整える必要があるのか病院の相談員を紹介するので担当と話し合って欲しいということだった。

ガラス細工という例えになにか書こうと思ったがそれは今度の機会に譲ろう。

今日、病院で相談員との面談があった。喀痰吸引、経管栄養の注入などの医療処置が入るので今までの介護保険だけではカバーできなくなること。医療機器の購入などの準備や、処置の習得が必要となることなど。転院先の病院については、要望を伝えて一回目の面談を終えた。

いよいよ引っ越しの準備にかからなければならない。処理に困るものがあるけれどもひとつひとつ片付けをしていく。今日は四台のモニターの処分をメーカーに申し込んだ。パソコンも処分しなければいけない。中途半端な蒐集癖がこういうところで邪魔をする。残すべきパソコンを一台にして、ノートパソコンを含むPCを九台処分しなければならない。後は衣類とか家具をボチボチ処分していけば、なんとか引っ越しが出来るのではないかと思っているが、いつもの悪い癖がでて差し迫らないと動かないというのを今回やってしまわないことを心がけるつもりだ。

ベランダに残っている数少ない鉢植えは持っていく。昨年の夏よりわが家のメンバーとなったメダカももちろん一緒だ。本も少しずつ処分している。捨てるよりもと、比較的最近の全集10巻本(総額で31500円)をブックオフに持っていったら一冊100円で合計1000円だった。もう、悲しまないようにしている。逆にCDは想像以上に高く売れた。それならばと残るCDを査定してもらったら数万円になったので引越費用の足しにと全部売った。物を処分しても身軽になれるわけではないが、少しだけスッとした。
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四人部屋に移る [介護と日常]

気管に挿管されたチューブがとれ、酸素もなくなった。一気にこちら側にやってきた。そして、重病患者用個室から四人部屋に引っ越した。
「安心してもよいですか?」と聞くと、「安心ではなく、安定してきたので大部屋に移させてもらいました」と看護師は答えた。

意識はない。だが、目を開けるようになった。呼びかけに応答はない。どこかまだ迷っているような頼りなさを感じさせるが、もう大丈夫ではないかと思う。もちろん安心はしていないし、何かが起こったときの覚悟はしている。

ほっとしている。肩の荷が下りるとはこの事かと思うほど。

息子が看護師に訊ねられたそうである。「今後どうお考えですか?」と。息子はきょとんとして「は?」としか言えなかったそうだ。ひょっとしたら、私たち家族があまりにもあっけらかんと喜んでいる事が心配なのかもしれない。看護師が訊ねようとした背景はよく理解している。ほんとうの大変さをたしかに理解していないかもしれないが、今の状態のままで家に連れて帰ることもとうぜん、想定の範囲である。

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無題 [介護と日常]

入院してからまもなく、あり得ない三週間目が近づいてきて、ようやく変化が見えはじめた。
危機的な血圧低下に対して、投入された薬に体が反応が出来ないでいた。それほど体が弱っていたわけで、強い薬を目一杯投与していたものの、このままでは心臓が持たなくなるギリギリのところで、血圧が戻りはじめた。心臓に負担が大きいイノバンという薬の量もやっと減り始めたのだが、今日その薬の投与を終えたと告げられた。血圧はそれでも100前後を維持してくれている。

昨夜病室で子供達と一緒になり、久しぶりに三人で居酒屋に寄った。咳で噎せ、苦しそうな表情に甦ろうとするエネルギーを感じ取った安心からだった。やはり、生命にはエネルギーが宿っている。今まで妻は何度も入院したがそのエネルギーがまったく感じられないのは今回が初めてだった。

医師から危篤が告げられたとき、医師は「むしろ、奥さんのように重篤な下垂体障害を負っておられるのに10年も生存している事実に驚いたのです。今までが本当にギリギリで生きてこられたのだと思います。1月に診させてもらったときの安定が実はそういうことだったということでしょう。私が奥さんのことを覚えているのは、下垂体障害なのに、どうしてこんなに安定しているのかという驚き、そういうことが前提にあったからです」と、言った。私はその時自分の希望を伝えることを断念せざるを得なかった。すでにその時妻は仏様のような顔をしていたのだった。

外は曇っている。まだ外は寒いが、街のあちこちに春がひそんでいるのが見えはじめた。
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無題 [介護と日常]

朝から雪がちらちらと舞っている。寒い。妻は二日前より輸血が始まった。残るは人工呼吸器だけと言われていたので、まだ打つ手があったのかと逆に安心する。体が弱っていると苦しむ元気もなくなるのだと知った。咳はもちろん、発熱すら出来ない。だけど、妻は生きている。おそらく医師の予想を超えて命を繋いでいる。このまま意識は戻らないかもしれないが、3月の末に引っ越す新居に出来れば連れて帰りたいと思っている。
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2012-02-07 [介護と日常]

ずいぶん長いあいだ留守をしてしまいました。

突然ですが、妻は死ぬかもしれません。
いま、死の隣で疲労困憊して喘ぎながら休息しているところです。

二月三日午前六時五十分に、痙攣の発作を起こして病院に入院しました。診断名は「症候性てんかん」。二次性てんかんともいうそうです。
血圧が低下し、肺炎も併発して危篤状態となりました。また、六日に軽い脳梗塞を起こしました。一見はおだやかに眠っているようですが、体の余力が残っていないようなのです。肺炎になっても熱を出して抵抗する元気もないということのようです。

今日七日、救急救命室から脳外科病棟の個室に移りました。出来るだけ時間に制約されずに家族と長くいられるようにという病院側の説明でした。
妻はいままで大きな怪我を何度も乗り越えてきましたが、さすがに今回はあまり元気がありません。てんかんの発作は負担が大きすぎたかもしれません。くも膜下出血後の患者にてんかんの発作がわりあい起きることは最初の手術後の後も聞いていましたが、この時期に起きるとはわかりませんでした。

すこし予兆があったといえばありました。一月十六日、顔がすこしむくんでいるのとときどき誤嚥があり、また夜の独語が多くなりすこし呂律もおかしいのでいま入院している病院の脳外科に(最初の手術をしたところ)久しぶりに行き、脳のCTや、電解質のバランスなど全部を調べてもらいました。この時の血液検査の結果は、驚くべきもので今回も診てくれている医師が「信じられない、外来に来ているどの患者よりもいいくらいだ。下垂体障害の患者のホルモンバランスが投薬もなしに安定するなんてあり得ない」と驚嘆の声を上げたのでした。

気になった誤嚥に関しては、いつも往診してくれる診療所が専門家を派遣してくれて、いろいろテストをしてもらったところ、まったく問題なしで筋肉の量も充分にありまだ若々しいので良く運動するようにとまで言ってくれました。
また、前日には往診があり、妻もにこやかに医師に応対していたのでした。

むろん希望は捨てていません。ただ、ゆるやかに死の方に歩んでいこうとする妻のそばにこれから出来るだけいようと思います。
111029_190637.jpg

昨年の10月24日、子供たちが還暦の祝いだということで昔よく行った伏見区の韓国料理店に招待してくれた時の写真です。これはほんとに久しぶりの外食で、妻もとても喜んでいました。画像は娘の携帯なのであまり良くありませんが、良い表情だと思いました。

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古い写真 4 お終い [介護と日常]

今日は入浴の日だった。寒くなったので10月からシャワーだけではすまなくなり、湯船に入ってもらっている。冬の到来を想起させるこんな日は、妻は湯船で温もりを楽しんでいる。入浴用のリフトを設置するか少し考えたが、トラブルも多く、また手伝いをしてくれるベテランのヘルパーさんも、工夫しながらやってみましょうと力づけられてやってみたら案ずるより産むがやすしで、人工関節を入れる前よりもうんと楽に入浴ができるようになった。
手順はこうだ。更衣室に車椅子に乗ったままで入り着ているものを脱ぐ。つぎに浴室のシャワーチェアに座らせる。洗髪と身体をヘルパーさんが洗ってくれる。下半身を洗うときは私が正面から妻を抱えて立たせ洗い流す。浴槽にはいるときは浴槽に渡したボードにシャワーチェアから移動してヘルパーさんが浴槽の中から妻を立たせる。すぐにボードを抜いて私が後ろ側から湯船に入り支えながら湯船に浸かる。ヘルパーさんは浴槽から出てタオルを洗ったり片付けをする。その間、私の脚と足を利用して浴室の中で滑らないように安定させる。妻は安心してタオルで顔をふいたり肩に湯をかけたりして楽しむ。出るときは私が浴槽で妻を立たせヘルパーさんがボードを渡してそこに座らせる。それからシャワーチェアに座らせ、椅子のまま移動してタオルを敷いた車椅子に座らせる。それから身体をふいてヘルパーさんと協力しながら服を着せる。頭を乾かすのはヘルパーさんがやってくれる。
お風呂から上がった後はリハビリパンツを通常は穿かせる。なぜなら、車椅子に座った状態で着替えがすんでしまうからだ。ところが今日はうっかりリハビリパンツが切れていた。いったん身体をふいて上だけ着替えをすませタオルをしっかりかけて、髪を乾かしてもらいその後ベッドに移動してオムツを着けた。じっと見ていたヘルパーさんから「上手だ!」とほめられて、喜んだ一日であった。

古い写真は今回でお終い。だんだんブログを書く調子がつかめてきた。アルバムにきれいに整理されていた写真であったが、記憶にない写真ばかりを選んだ。とはいえ、この時期のことをなにも覚えていないわけではない。写真に撮られた記憶がないだけだ。ここに写っている父や母を見ながら、重なり合ってひとつの記憶となっている両親像から、断片として取り出された父や母と出会った。鮮やかであると同時にすぐに輪郭が滲みはじめてイメージとしての記憶にとけ込んでいこうとする。
ここに写っている私はまだ目一杯両親からの養分を吸収し、自分が関わっていかなければならない外の世界をまだ夢想だにしていないようだ。と書いて理解した。だから覚えていないのだと。
ネコと.jpg

この猫の記憶はない。だが、幼い頃確かにまどろみの中で自分以外の重さ、意外なほど熱い息と早い呼吸を記憶している。病気で早く死んだのだろうか、それとも何かの事故でいなくなったのだろうか。この机の記憶もない。兄の机だろうか。わずかに電気スタンドの記憶が残っている。赤いガラスがカットされていた。紙をあてるときれいな模様になって光を写した。
母と.jpgこの写真の母はずいぶん印象と違っている。こんなに角張っていなかった。ただよく見ると私の頭の上に顎を乗せているようだ。母に対してこんなに無防備に抱かれていた自分もあったのかとみょうに感慨深い。基本的には甘えんぼだった。そういえば小学生の頃はよく甘えるなと怒られていたことを思い出した(苦笑)。
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古い写真 3 [介護と日常]

母親の記憶は年とともに輪郭が曖昧になってきている。母親らしい愛情は別にして身体の弱い人。厳しくてきつい人。風景に馴染まない人といった印象がある。風景に馴染まないというのは、周り近所で世間話をしていてもいつも異和をまとっていた人だったという意味で馴染めない人だったのだろう。厳しくてきついという印象と、母に対する反抗は対になっている。まったく嫌いではなかった。嫌いではなかったけれども反抗せざるを得ない鬱々とした感情を持ち続けた。母はそんな私にずいぶん心を砕いたのではないだろうか。

見つかった写真を見て驚いたのは、母にもこんなはつらつとしたときがあったのかということだった。私もこの頃はまだ喘息もない元気な少年だったらしい。母が頭にかぶっているのは私がよくかぶせてもらっていた新聞か何かでつくった兜だそうだ。
この時の母は今の私よりも20歳以上も若いわけだが、そうとは見えない。やはり母である人にしか見えない。この辺りが不思議といえば不思議である。
野球少年.jpg

昭和29年か30年頃であろう。

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夏を越して [介護と日常]

大腿骨骨折の手術、リハビリ病院への転院、退院以降のこれまでの経過をざっくりと書いておく。退院したのは5月2日だった。退院後すぐにケアマネさんと相談し、月二回の往診の復活、それから上の入れ歯の不具合を治すために訪問歯科医を紹介してもらって治療をした。上の入れ歯を止めていた一本の歯がほとんど死んでいるということで抜歯と言われたが、退院後まだ時間が経っていないこと、体力が戻ってないことなどから抜歯以外の方法を求めた。医師は歯を歯ぐきから切断して入れ歯を作りかえることにしてくれた。これは良かった。抜歯をすると出血が伴う。妻の体力では回復に時間がかかったと思う。入れ歯はすぐに出来てきて食べる意欲を取り戻してくれた。その後口腔ケアに歯科衛生士さんに毎週来てもらっている。

5月下旬に往診を再開してくれた医師は、手術した方の足の膝と麻痺している側の足の拘縮が進んでいることを気にかけ、リハビリを継続した方がよいと判断した。自分が属している病院にすぐ電話をしてくれ、リハビリのやり直しをすることになった。これはありがたかった。妻も嫌がるそぶりを見せることなく、再度入院することをじゅうぶんに理解していたと思う。転落事故の時リハビリで入院した病院だった。
6月の中旬、主治医から話があった。拘縮の回復は極めて難しいこと。ただリハビリを本人も嫌がってはいないが、現状維持を目標に長期入院体制をとるかどうか。病院としては受け容れる準備はある。拘縮の原因は、回復期病院でのリハビリが進まなかったことがいちばんの原因であること。その原因となったのは、膀胱炎の投薬に原因があったかもしれないという。感染症のための薬が、認知症患者にあまり良くない傾向があってそれで自分たちもずいぶん痛い目に遭ってきたという。前の病院からの薬を全部検討して、結果的にすべての投薬を止めているという。妻の表情はずいぶん豊かになっていて、少ないながらも自分から話すことも多くなっていた。とりあえず、医師の話を妻に聞かせた。元に戻るのは難しいかもしれないけど、今以上悪くなることはないらしい。そのために長く入院する必要があるらしい。このまま入院するか、家に帰るか。妻は多分理解していて一瞬考え込んだが「やっぱり帰りたい」と言ったので、その足で主治医のところに行き家に連れて帰ると告げた。医師から、家での屈伸とかストレッチ方法を教えてもらい、一日に朝・夕二回はその運動をすることと言われた。それをやっていれば極端に拘縮が進むことはないとも言われた。結局入院期間は4週間だった。

夏の対策は万全を期した。節電の呼びかけはあったものの冷房は24時間態勢をとった。脱水も熱中症も、電解質のバランスも崩すことなく夏を越した。一度だけトラブルがあった。ある日オムツを替えると出血の後があった。オムツを替えた後、娘が帰ってくるのを待って見てもらうことにした。するとさらに明らかにかなりの量の出血があった。すぐに救急車を呼び病院に連れて行った。膀胱炎だった。写真を見せてもらうと、炎症部分が剥がれ落ちるように出血したとのこと。だが、心配することはなく出血が止まれば治るということだった。二三日出血が続いたが、治まった。この出血騒ぎにはそうとう動揺させられたが、妻にとっては抱えていた病から離脱するきっかけとなった。

今年もようやく夏を越した。やれやれと思う。順調だった。食事も自分で上手に箸を使って食べられるようになった。ときにはっきりとした口調で話す時もあり、驚かされることもある。朝ベッドから起こすと決まって嬉しそうに笑う。夜寝ないで車椅子に座るとすぐに寝始めるのは玉にきずだが。
DSC_0055.jpg
今年の夏の記憶に。障子が同じ高さで破れているのは車椅子のせい。キュウリがずいぶんたくさん収穫できた。
DSC_0037.jpg
出血の影響で少し元気がなかった今年の誕生日。で、ケーキを今年はチーズケーキにしてみたらこれがおいしくてビックリ。自分の誕生日にもこのケーキにしてもらった(^^ゞ
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古い写真 2 [介護と日常]

スクーターの前に乗せられて風を切りながら走った記憶はある。その記憶は、あまり快適な感覚とは結びついてない。ほとんどが病院に連れて行かれるときだったからだ。いつからそうなったのかわからないが、喘息だった。発作が起きると夜昼問わず病院に行く。お尻にペニシリンを打たれる。すると決まって猛烈な吐き気に襲われて病院の外の溝に戻す。そしてぐったりしたままスクーターのハンドルにしがみつく。これが父とスクーターにまつわる記憶のほとんどである。だから、オートバイに興味を持つことはずっとなかった。
中学生になって喘息から解放された頃、父はスクーターからカブに乗り換えていた。台風が近づく前の断続的な雨や風が吹く深夜、こっそりカブを出して何度か海岸線を走った。オートバイに乗ってみたい欲求よりも、むしろ背徳への傾きだった。

高校生の頃父が出張の時、通学バスに乗り遅れた。学校に遅れないための唯一の方法はカブで学校まで行くことだった。どうしてそこまで遅れないようにしようと考えたのか今ではわからない。隣町を過ぎた頃、後ろから追いかけてくるバイクがバックミラーに見えた。近づいてくるとアクセルを開け引き離したりしつつ快適なツーリングを続けた。20キロ先の学校の正門前でカブから下りたとき、後ろからずっとついてきていたバイクが前に止まった。警官だった。私はその場で捕まり学校を停学になった。まったく馬鹿げた思い出である。父は呆れて何も言わなかった。その頃は入学時に寮に入っていたが事件を起こして退寮させられていた。私は学年最初の落ちこぼれであり、すでにいっぱしの不良になっていたのだった。

父と.jpg

写真は昭和27か8年。二歳頃だろうか。写真を撮られるのは嫌いだった。太陽がまぶしすぎるのだ。外で撮られた写真のほとんどはいつもこうやって眉間にしわをよせている。露骨に泣きそうな顔もある。とにかく写真は嫌いだった。父が乗っていたスクーターの機種がわからない。父は三十七、八歳ぐらい。今の自分よりはるかに若い父の姿を見てなにか突き上げてくるものがある。涙腺が弛むとかそういう類の感情ではない、なにかがである。うまく言えない。

今回はよけいなことを書き加えないでこのままアップすることにする。妻の様子は次回にまとめてということで。元気です。
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べつに感傷的になっているわけではありませんー古い写真1 [介護と日常]

祖母、父、叔父が息を引き取った私の実家とも言える神戸市にあった小さな家を処分して更地にして去年地主に返した。という話は書いたかもしれない。こぢんまりとしていたが庭もあり、小さな家にふさわしい小さな門がある家だった。戦前に土地を借りて家を建てたものだった。すぐ近所に賑やかな市場もあり、妻が元気だったらそちらに引っ越しても良いと思える環境だったが、古い上に震災の影響もありほぼ全面的に手を入れなくてはならなかった。
初めて神戸に行ったのは小学校に上がる前だったかもしれないが記憶に残っているのは、小学校五年生の頃の夏休みだったと思う。父に連れられて甲浦(かんのうら)からフェリーに乗り一晩かけて神戸にいった。神戸の街のきらびやかさは一種の衝撃だった。それまで一番遠くまでいったのは、小学生の頃に通っていたそろばんとお習字の塾から南国にあった手結(てい)の海水浴場に連れられて行ったのがいちばんの遠出だった。
私の町から安芸市に行くまで、県道は舗装もされていないし、コンクリートの建物がなかった。安芸市にはいると「デパート前」というバス停があり、「デパート」という何とも言えぬ開明的な響きに一緒に行った連中とバスの中で歓声を上げたものだった。奈半利から見て安芸市はまさに開けた「お町」であった。それでも今から思うと安芸市のデパートはくすぼけた緑色の貧相な三階建ての建物だったし、それ以外にビルのような建物はなかった。安芸市を抜けると自分の町と同じような家並みがポツポツある程度だったのだ。神戸市の街並みの光景、その衝撃足るや察していただきたい。
しかし、神戸での最大の衝撃は「鯨カツ」に尽きる。鯨は臭いがあって嫌いだった。甘辛く炊いても、焼いても煮ても、どうにも食べたくない食べもののひとつだった。遊んでくれた従兄弟が市場に連れて行ってくれ、揚げ物やさんで何気に鯨カツを買って渡してくれた。新聞紙に包まれた熱々の鯨カツに店頭に置いてあるソースをかけて食べたときのあのおいしさは忘れられない。鯨と聞いてさらに驚いた。それから神戸の家にいる間、店屋物を嫌う祖母の目を盗んでは小遣いを握りしめて市場にいき鯨カツを買って食べた。夕飯を食べられなくなって怖い祖母によく睨まれた。
叔父が亡くなった後、建物の相続をした私は友人の建築家に調べてもらったら、改築に最低でも800万円で本格的に直すと1300万円以上はかかると言われた。友人は直して貸すという可能性も含めて親切にもその地域の賃貸相場を調べてくれ、改築資金を借りた場合の利息計算とか月々の返済、家賃収入などエクセルでシミュレーションを出してくれた。また、以前大阪の税務署に勤めていて不動産に詳しい友人も加わって検討した結果手をつけないのが一番良いということになった。
だが、ずっと放置して置くわけにもいかない。戦前からの借地だけに地代は安かったがそれでも毎月9000円を払い続けなくてはならない。家が荒れると近隣から苦情も出てくる。更地にして地主に返すとなると300万円の費用がかかるという。もと税務所勤めの友人が、建物の権利を放棄して、代わりに更地にする費用を地主負担にしてもらう交渉を時間をかけてやれとアドバイスしてくれた。叔父が亡くなってから10年めにようやく地主との交渉がなったわけだ。
家を明け渡す前、最後の片づけに行った。おそらく父がもっていたのだろう古い写真が何点か出てきた。私の記憶にない写真だった。
見つけた写真を小出しにしてブログの長い空白を埋めていこうという魂胆である。
赤ちゃん.jpg
※(ミッチーさんのご指摘により曖昧な書き方を訂正します)お座りが出来るようになった頃の写真らしい。


☆10月5日で、妻が倒れてから10年目を迎えました。あっという間でした。
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満六十歳になりました [介護と日常]

今日で還暦を迎えた。自分でも説明できない充足感があることに驚いている。父親の年を超えた事実がひとつの大きな要素でもある。父は満60歳になるほんとの直前にこの世を去った。自分がここまで生きられるとは思わなかったわけではない。ただ、漫然と年を重ねることに対する人並みの抵抗感はあったが、自分がこの十年を生きてきた間にもっとも変節を強いられたものがこの抵抗感であった。転向といってよいかもしれない。そして、この転向とよべるかもしれない変化をもたらしたものは疑いもなく妻との生活である。

なにかに急かされるように生き急ぐことが無意味なことであったとは思わない。だがそのことに過度な価値を見出すことはない。感傷もない。すこしだけ理解できたこともある。それは歴史的な存在として私(たち)は生きているということだ。ただあるがままの自然に埋没した自然そのものの個人として生きているわけではない。自然もまた歴史的な自然として対象化された自然としてある。だから、自然界の自然のままの生死に依拠する死生観に異議を申し立てる根拠はここにある。60年間生きてきてその程度かと言われたら、そうだとしか言いようがない。復路は回帰線を避けながら歴史的な自然の順序にしたがえるように、社会の順序から徐々にはぐれながら無数の無名のひとりとしてやがて歩けなくなるまで歩を進めていくだけである。

妻が歩けなくってからずっと懸案だった引っ越しがようやくかないそうだ。まだ契約をしていないからどう転ぶかわからないが、ほぼ決まるだろう。息子が仕事をしている工房の路地に並ぶ崩れ落ちそうな長屋がある。ほんとうに崩れ落ちそうで、壁の隙間から外が見えるようなところだが大家の方から借りて欲しいと持ちかけられた。場所的には願ったりかなったりのところだ。一軒ではあまりに狭すぎて無理だが二軒を一軒として借りられることになった。工房は目と鼻の先だし、なによりこの界隈にとどまれることが大きい。改装工事があるので早くて来年の四月だろうと思うが問題がひとつ片づいた。気が向けば車椅子を押しながら買い物にも散歩にも行ける環境が手に入る。

ブログに復帰すると書いたのに過去最長の空白を招いた。その間ツイッタやG+などでネットに触れてきた。満たされる欲望もあれば砂をかむような空虚にも向き合ってきた。誰がなにを言うのか、なにを欲しているのかあらかじめわかっていたなどとは言えない。ただ、繰り返される言動のうねりの中で、なにか大きな変動が起きようとしている気がする。だが、哲学者小泉義之がいう「恐怖の下で平等で対等になった人々」たちが呼びかける共同性への拒否権だけは表明しておきたい。恐怖や悲惨、そして安心・安全で未来を担保することも過去を留保することもしない。「今日」の問題に向き合うのみだ。
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退院しました [介護と日常]

今日5月1日、退院した。
家に帰ると妻は微笑みながらベッドに横になるとそのまま眠りについた。傾斜していた踏み台が元に戻ったかのような充足感を感じて肩の力が抜けた。
いずれすぐにどちらかの方向に向けて傾くであろうが、復元力があるかぎりその場所に立っていられればよい。と、思えた。

入院していた妻が言葉と表情を失ったのは三週間を過ぎた頃だった。病室に行っても表情を変えない。手には痛々しい点滴の後が増えていった。
低ナトリウム血症だった。心配した理学療法士や作業療法士がなんどか部屋にやってきた。ほとんど伝達ができずにリハビリが進まないという。
4月15日の相談会のときに月末に退院したい意向を伝えたのは、妻の状態を把握してもらえればまた意欲的にリハビリに復帰できて少しは成果が上がるのではないかと思ったのだが、むしろ悪化する一方だった。食事の塩分は6gと指定されており、さらに投薬として塩化ナトリウムが加えられた。持ち込み禁止といわれて食べものを持ち込むことはできなかったがノリの佃煮やふりかけを持ってくるようにいわれた。

4月25日月曜日。ようやく顔に精気が戻った。だが表情もなく一向に言葉を発しない。連れて帰れる状態ではなかった。食事は相談会のときにミキサー食をやめて普通食を食べさせてくれるように頼んだがおかゆに変わっただけだった。入れ歯は入れてくれなかった。
26日夕食後病院の玄関にハナミズキが咲いているので見に行った。気分転換になるかと思ったからだ。この病院は病院の外に出るのは禁止だった。最初の頃詰め所に散歩の許可をもらいに行くと駄目だと言われた。前のリハビリ病院はどんどん連れて行ってくれといわれたのに。だから、無視して病院の外に出た。暗くなったので玄関脇にある談話スペースでコーヒーを飲みながらずっと話しかけているとかすかに口を動かしているのに気がついた。口元に耳を近づけるとやっと聞こえるような声で話をしようとしているのだった。
「朝、琵琶湖に行ってきた」
それはよかった。今日は気持ちよかったんじゃない?
「気持ちよかったよ」
なにで行ったの?
「タクシーで」
そりゃ贅沢やないか。妻は少ししまったというような顔をしてかすかに笑った。
今何がしたい?
「歌が歌いたい」
これはやはり退院させなければと思った。

4月27日にやはり当初の予定通り退院させるというと少しの準備があるというので今日の退院になったわけだ。ひとりだけ見送ってくれた看護婦さんに妻は瞬間芸の笑顔を見せ、病院を後にした。
家についてオムツを見ると尿取りパッドを二枚重ねてあった。尾てい骨の上部に褥瘡があった。薬として塩化ナトリウム(塩)が19日分袋に入っていた。まあこの病院では妻のような認知症患者に対するノウハウがなかったのだろう。自分で入れ歯が入れられなければつけてはもらえない。寝たきりにならないために厳しく管理され、車椅子に前のめりになって倒れそうになっていてもベッドには横にさせてもらえない。スパルタである。妻はきっと抵抗することに決めた。だから、話さない。相手の言うことも聞かない。置かれた状態を耐える。空想の中で自由に琵琶湖やかつて自分が行ったことがあるところを追いかけていたのだろう。と、思った。

退院祝いは自家製ちらし寿司に自家製にぎり寿司のお寿司オンパレード。それにお刺身。夕方ベッドから食堂に移動するとにこやかに自分でコップのビールを口に運び一口だけ飲んで、それからたくさん食べた。まだ大きな声は出せないが耳を近づけなくても聞こえる声で子供達と話をした。そして10時過ぎにベッドに行き、横になった途端に寝息を立て始めた。
これからまた、いつもの日々が始まる。いずれどちらも朽ち果てる。そのためにまたいつもの日々が始まる。何度も傾くだろうが、傾きを感じられる踏み台に立っていられればそれでよい。
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※約二ヶ月半ぶりに一家団らんの夕食
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桜が終わる。 [介護と日常]

桜の花が咲き、そしてどんどん散っていく。いつもと変わりない営みがやはり毎年初めて出会うかのように繰り返されていく。千年に一度の大地震もその変わりない営みのひとつに過ぎないとわかっていても世界を容易に変えてしまう。こういうときだからこそ、私は「日本は」というあらゆる議論から耳を塞いでいる。望むのはただひとつ、被災された方々のひとりひとりの要望が最大限満たされることだ。すでに町や市の行政単位でも被災した住民と深い亀裂が覗いていることだろうことは想像に難くない。ましてや県、国となるとほとんど個々の要望など消し飛んでしまう。絶望的な願いだが、この関係を逆転して被災した住民、地域住民に従属した順序で村や町、市や県、そして国の行政においてあらゆる対策が講じられることを願う。

原発事故については、とにかく早く危機的な事態が収拾されることを望んでいる。そして現場で全力を挙げて対策をしている人たちに休息が訪れてくれることを心から望んで止まない。その一方で少し唖然としたことがある。それは炉心溶融により水素爆発を起こした原子炉に自衛隊、消防庁、警察庁が放水車を集めて決死隊のように原子炉に放水している報に接したときである。
私は正直言うと、こうした事態に備えて電力会社もしくは国に(それは自衛隊でも消防庁でもよいのだが)原子炉専門の事故対応部隊が当然存在しているものと信じて疑っていなかった。原子炉の事故は国内において今回が初めてではなく、かつ深刻な事故はスリーマイルやチェルノブイリで経験しており過去ニュースやドキュメントなどでそういう部隊が編成されたり、活動しているのを見ていたからで、日本でもそれが当たり前にあるものと思っていたのに、そういう備えがまったく存在していなかったことに唖然としたのだ。そうした備えがあったとしても現在までの事態の推移を止められなかったかもしれない。そうだとしたら原発は運用されるべきではない。原子力発電が駄目という議論以前にこうした事業の推進、建設、運営の問題が日本社会の構造的な問題として鋭く露出している。この裂け目をヒステリックな恐怖や政治的なプロパガンダで塞ぐのではなくもっともっと抉られなければいけない。内閣を罵倒したり、人生の達観を披瀝することでこの問題を覆い隠そうとしたり卑小化してはならないということは私でもわかる。安全であれば原発を拒否しないという非政治的な人々の心情を包括した、政党や大衆運動家が先導する平和運動を超える平和運動、反核・反原発運動を超える反原発運動の可能性を信じたい。
また、もうひとつの感想として原子炉建屋への放水を実行した部隊の隊長のインタビューをテレビで見た。隊長はまず第一に隊員の安全が優先だったと言い切り、危険で困難な仕事に隊員を就かせたことに対しその家族に謝った。不況が続くなか派遣切りや自殺者の問題、高齢者問題と抜け道が見えない閉塞した社会状況の中で、テレビやネットで「日本」というかけ声がうねりとなっている中で、この隊長のインタビューはテレビで煽るだけの馬鹿コメンテーターや、政治家、経営者とはまったく違う健全さを痛ましさとともに示してくれた。捨てたものではないと思った。

妻がリハビリ病院に転院して三週間近くが経った。今度の病院はリハビリ部門と病棟との連携があまりよくないように見える。リハビリの成果を聞いて喜び、翌日には病室で体調を崩す姿を見てがっかりする。そんな三週間だった。これが普通の病院なのかもしれない。一年前に入院していた病院はすこし特別だったかもしれないと思うようになった。15日に担当者会議があったが予定の二ヶ月から三ヶ月という期間を待たずに今月末に退院させたい旨を伝え消極的ながら承諾を得た。28日に退院する予定である。

次に自分のことだが半年ぶりに検査した甲状腺ホルモンの数値が悪くなっていたことがわかり、チラージンという薬を増量した。同時に別の病院で処方されていた抗うつ剤が合わないということで変更された。倍以上に距離が伸びた妻の病院に臆せず自転車で通い続けた。結石による潜血反応がなくなり、石は排出されたのではないかということになった。結果、なんだか体は元気だ。地震以来読むのを中断した長編小説[断崖・ゴンチャロフ/岩波文庫全五巻]を再び開く勇気はまだ無い。最初から読み直す元気もまだ無い。それでも良いと思っている。

※ちょうどログインするためにメールをチェックしたらブログレポートが送られてきていた。今月でブログ開設以来6年経ったと教えてくれた。
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眠りは目覚めの方途を彷徨っている [介護と日常]

東北地方太平洋沖地震はマグニチュード9.0というとてつもない巨大地震であったと伝えられた。地震のスケールはそのまま直接私たちに及ぼす被害の大きさに直結しているという現実をまざまざと見せつけている。比喩ではなく比例だ。

詩人は「希望が験されている」と書き、若い作家は「この圧倒的な善意といつくしみの奔流の中で沈黙を続けよ。」と発言し、呼吸器が弱いらしい心理学者は『「圧倒的な善意と慈しみの奔流の中で沈黙」するな。』とつぶやいた。私に語るべき言葉があるか。無い。無い言葉を抱えてじっとテレビ画面を凝視している。

東京のあるサラリーマンは電車が止まった通勤途上でのインタビューに「ぜんぜん苦労ではない。これは第二の敗戦です。きっと復興します」と答え雑踏の中に消えていった。彼は「敗戦」という言葉の中に何を見ていたのだろうか。これ以上ない堅固な防潮堤を津波が来る10分前に閉め終わった職員がカメラに向かってさわやかな笑顔で「作業終了です」という姿がオーバーラップする。

死者と不明者の数が積算されようとした瞬間に歴史に貼り付けられる。だが現実は圧倒的にその枠からあふれ出て抗う。あふれるのは一人の生であり死なのだ。

電気が止められている家がある。ガスも水道も止まっているその家の住人は厳しすぎる寒さに耐えかねて家の中でゴミを燃やし暖をとろうとしてぼや騒ぎを起こした。そこに住人がいることを初めて知った。なんどか見かけた男だった。凍てつく道を靴下もなく歩き、ひとときの温もりを得るためにコンビニに行く。臭気に耐えかねた客の訴えで彼は追いやられる。彼は昨年の秋からずっとまるで被災者のような生活を生き抜いている。何度顔を合わせても彼の用心深い視線が弛むことはない。年が明けたある日、寒さが弛み春を感じる朝、彼はいつも閉じている玄関の戸を開け、明け方の空の明かりを頼りに土間に座り込んで分厚い法律の専門書を見ながら一心にノートをとっていた。ペンを持つ手は真っ黒だった。

妻が入院して手術を受けた。大腿骨頸部骨折。動く方の足だった。血小板が少ないまま、万全を期して輸血をしながら人工関節に置き換えた。痛みを訴えたのは2月17日夜だった。テレビを見ていた。9時も過ぎたのでトイレに行こうかと誘った。車椅子から立ち上がろうとしたとき突然痛みを訴えた。じっとしていると痛みはないという。いったんベッドに移動し、横になるとスヤスヤ寝始めた。翌朝ベッドから起きて車椅子に移動するときやはり痛むらしい。その日はデイケアの日だった。朝食もすませ迎えを待っていたが気になって迎えの人に相談した。それはデイケアが診療所内にあるからだった。しかしデイケアの送迎で診察目的の移送は出来ないと言われた。特別痛がる風もなかったが、仕方がないので救急車を呼んだ。近所の知り合いが驚いて様子を見に来たが妻は担架で階段を下ろされながら笑顔でピースサインを出して救急車に乗り込んだ。結果は重傷だった。思い当たることはある。ずっと前からベッドに移動して横になって足を乗せるときにいつも痛がっていた。また、17日は入浴の日だったが着ているものを脱ぐときに車椅子から転倒した。この転倒は不意打ちだった。だが、たいしたこともなく痛がりもせずにそのまま入浴を済ませた。風呂の中で妻は気持ちよさそうに湯船に浸かっていた。そして夕食も済み、前述したトイレのときに戻る。手術は無事に終わり、順調ならすでにリハビリ病院に転院ということになるはずだったが、地震が起きて以降体調を崩した。まず低ナトリウムになりそれが回復したら高ナトリウムとなった。体調が回復するまで転院は延期となり今に至っている。(30日に転院が決まった)

昨年の11月頃より、ずっと安定していた糖尿病の数値が上がりはじめた。血糖値はそうでもないがHbA1cが6.1から徐々に上がりはじめ2月には7.3まで上昇した。理由がわからない。医師はここで診てもらった方がよいと紹介状を書いてよこした。精神化・心療内科の病院だった。「鬱傾向」という診断で薬を飲み始めた。

3月16日。病院の待合室で診断を待っているとき、下腹(したばら)に違和感を感じ始め徐々に鈍い痛みに変わりはじめた。座っていても立っても落ち着かずだんだんひどくなり、冷や汗が出始めた。痛いという声を出すタイミングを逸したままベンチで意識を失った。気がつくとベッドに寝かされていた。気づいたときには痛みは引いていたが、尿検査の結果顕著な潜血反応が見られたので「結石」の疑いが強いということだった。超音波の検査で石は見つからなかったが後日CT検査をすることになった。CTの画像では黒く写る腹腔の空洞の中にちょうど腎臓から尿路に近いところに小さな白い点がまるで遊星のようにぽつんと写っていた。診断後、何日か痛みを覚えたがその後まったく消えた。石が排出されたのかまだ留まっているのかわからない。そのかわり、耐え難い睡魔に襲われるようになった。目を閉じると泥沼に吸い込まれるような眠り。仮死を纏うことで救われようとする自分の生があるのではないか。そんなことを考えざるを得ない日々を送っている。

ブログに復帰します。
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よいお年を [介護と日常]

京都は朝から雪が降り始め、もう一面真っ白な雪景色になっています。
昨年の大晦日も寒い日でした。粉雪が舞っていました。
夜看護婦さんに促されて病院から帰ったことを思い出します。
妻が子供に笑顔で応えた日でもありました。
なんだかあっという間の一年でした。
ふり返ってみると自分が処理しきれない一年間でした。
やり過ごすことも引き受けることも、拒否も肯定もできない自分にただ向き合っているだけで過ぎていく日々でした。
ひとつ発見したことがあります。
そんな時でも、溢れる言葉に満たされているということでした。
日常の言葉であり、堅苦しい言葉であり、嘆きの言葉であり、喜び、冗談、刺すような言葉、あらゆる言葉に満たされながら自分の下降をとどめることはできませんでした。
もう一人の私がどこかでなにかの身振りを振る舞っているのではなく、それが私そのものでした。

ある日の深夜のことです。
妻が目覚めているのではないかという気配に眠りから覚めました。
はたして妻は目を見開いて闇の向こうを凝視していました。
声をかけると身じろぎもせずにこうつぶやいたのです。「くも膜下出血…私のくも膜下出血どうなった?」
瞬間、私は感電したような衝撃を受けました。私や子供達が規定してきた時間以外の時間を妻は確実にたしかに繋いでいたのです。

妻はよく「ありがとう」というようになりました。
私がときに「礼や感謝が欲しいわけじゃない。そんなのは余計だし邪魔だ」とこたえると、妻はクスッと笑います。
なんとなく二人はうまくいっているような気がします。

新しい年までもう12時間を切りました。私は今しばらくこういう時間が必要なようです。
でもそれほど遠くない時期にきっと会いにいきます。

みなさん、よいお年を!
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近況 [介護と日常]

気がつけば一月以上更新をしないばかりか、訪問もしていなかった。ご心配頂いた方々にはお礼とともにお詫びします。
一年に一回くらいこういう時期がやってくる。なにもかもが沈殿していくような気分を味わう。世の中が元気になると特にそういう気分に拍車がかかる傾向があるようだ。そんな私の気分とは関係なく、妻の格段に増えた言葉と豊になった感情表現はずぶずぶと沈んでいこうとする私に小枝をさしのべてくれる。
あっという間に一年が過ぎようとしている。昨年末からこの一年は厳しい一年だった。胸囲が2センチ弱大きくなった。秋口にTシャツがちょっと窮屈になったので太ったのかと思ったら、そうではなく大きくなっていたのだった。それに気づいた頃、左肘が壊れた。握っても捻っても力を入れても曲げ伸ばししても敏感に反応して痛みを告げる。病院で診てもらったが回復の兆しもない。いわゆるテニス肘というらしく、骨に突起ができて筋肉を刺激しているのだそうだ。生活の変化に適応できたところとできないところが共存しているというわけだ。
妻は9月からデイケアを週二回に増やした。以前のように送り出すのに一苦労というようなことはなくなった。いろんな拘りがなくなってすんなり出かけてくれる。それから二日に一回の入浴のうち、週二回ヘルパーさんが手伝いに来てくれている。最初はおそるおそるの入浴だったが、今では一人でもすんなりとまではいかないが、妻も私も慣れてきた。暑い間はシャワーだけだったが、10月からは浴室リフトを設置して浴槽に浸かれるようにもなった。
入浴介助のサービスは私が入浴させることが前提で、約一時間ヘルパーさんが来てくれる。それでも体を洗ったり、シャンプーをしてくれるのは全部ヘルパーさんでほんとうに助かっている。脱衣所から浴室への段差越え、下半身を洗う時の立位保持の時、浴槽に入るとき、出るときに浴室に入り手伝ってもらう。リフト操作は私の役目。ヘルパーさんにはとても良くしてもらっている。
デイケアの送迎も、二人がかりで階段を下ろしたり上げてくれる。出かける時間が近づき「さあ、あんたのお気に入りの若い子がそろそろ来るよ」と声をかけると妻はニヤリと笑って階段の踊り場にて迎えを待つ。車に乗り出発するときには行ってきますと手を振る。デイケアに出かけた後の時間は自分の時間で、最近はその時間ほとんどぐっすり寝ている。これでずいぶん体が楽になる。やはり普段は睡眠不足が深刻で、デイケアは私の貴重な休息(睡眠?)時間となっている。
食欲が戻り、退院時はガリガリに痩せていたが、だんだんふくよかな以前の体型に近づきつつある。嬉しい反面、左肘がべそをかきそうになる。

とりあえず、大ざっぱな近況報告です。元気でやってます。
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小さな紫の花 [介護と日常]

野放図に枝を伸ばす正体不明の鉢があってとりあえず今まで、つまり妻が倒れてからまる7年、枯らさない程度に水をやってきた。夏になると容赦なく枝を落としてきたが、いったいこの鉢はなんのために置いてあるのかずっと謎だった。今年の梅雨明けの頃、ほとんど枝を落としたのだがなんとなく可哀想になって陽が当たる場所に移してナスやキュウリのついでに水をやるようにした。けなげにもその木は細い枝を少々行儀悪く四方に伸ばしはじめたが切らずにそのまま放置しておいた。
今朝のことである。空が少し明るくなり始めた頃、ベランダに出て洗濯物を干しているとき思わず「あっ!」と声が出た。無用な植物だと思っていたその枝先に小さくて可憐な紫の花をつけていたのだった。
私は7年もその声を聞こうともしていなかったのだ。
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初歩的な問題として [介護と日常]

今年の夏は凶暴だ。さすがに洗濯物がよく乾くなぞと喜んでばかりはいられない。下手をするとこちらものみ込まれそうだ。
一週間24時間連続の点滴が終わった妻だが、一気に回復したわけではない。やっぱり調子が悪い。元気がないし、朝には熱が上がる。それでも、デイケアと往診してもらっている診療所が連動しているので週一回のデイケアには復帰した。だが一週間の安静で体力ががた落ちとなり、階段の昇降がますます困難になってきた。今日帰宅してきたとき、階段はヘルパーさん二人が抱えて上がってくれた。当然、私も抱えるつもりだったが「まかせてください!」と言われてお願いしたが、二人のヘルパーさん最後には「ウグァ!」と声が出て思わず手を出しかけたがキリッとした顔で拒否された。細腕なのにすごいけど、無理すると腰を痛めてしまうよ。妻は何ともいえない情けなさと不安が混じったような顔をしながら階段の上にいる私の方を見ていた。ま、一度脱水になるとすぐに回復するような年ではないということもわかった。送迎の大変さを思うと気が引けるが逆に来月から週二回の通所の提案をデイケアの主任から受けてお願いすることにした。どうしても家に閉じこもらざるを得ない状況を心配してくれている。こういう介入には感謝したい。
床ずれの心配はベッドのマット交換、車椅子用のクッション導入でどうやら回避できたようだ(今のところ)。新たなレンタル品を契約すると、担当者会議が必要だということで、退院月から数えて三回目の担当者会議が開かれた。ケアマネさんをはさんでケアマネさんではない現場サイドからのいろんな提案をしていただけたことがうれしい。

満年齢が65歳を迎えたことと、身障1級の手帳が交付されたことで今までとは天国と地獄ほどの制度的な補助が受けられるようになった。
私が仕事をしていない、つまり市民税非課税世帯であることが交付の条件をすべて満たしているというわけである。身障1級の手帳を受け取りにいったとき、医療費全額控除となる「福祉医療費受給者証」を渡された。続いて市バス・地下鉄などの公共交通機関の全額免除か、タクシー初乗り区間料金免除かを選択できるというのでタクシーチケットを選んだ。仮に市バスや地下鉄を選ぶと介助者も無料となる。その他、車にかかる税金や高速道路料金などの減免がある。

続いて、ヘルパーさんから教えてもらって申請したのが介護用品の現物支給だ。これは要介護4以上の在宅介護で、市民税非課税世帯もしくは生活保護を受けている家族が受給資格要件で、これもすんなり審査を通過した。窓口で綴りになっているクーポン券を年間先渡しでまとめて渡してくれる。指定業者のカタログに載っている介護用品を電話で注文すると、自宅まで配達してくれる。さらに、申込が必要だが有料のゴミ袋を50枚支給してくれた。

※これにはちょっとした後日談がある。ヘルパーさんが「え?ケアマネさんから全然聞いてませんか?」というから全然聞いてないと答えた。するとすぐにケアマネさんが来て、ようするにその時ちょうど介護認定更新審査がかかっていたのだが、要介護4のままになるか3に下がるかのボーダーライン上にあるので伝えられなかったと言い訳した。これには私もちょっと焦った。要介護3になると返さなければならないわけですぐに窓口に問い合わせをした。答は認定審査中は前年度の認定が適用されるので、もし要介護度が下がった時点でクーポン券やタクシーチケットを返していただければよいというので(つまり支給決定日に遡っての返還はないということ)、胸をなで下ろした。 認定基準について少しだけ触れると、それはとても不思議というか理不尽だと思った。日常生活においては介助すべきことがほぼ全域にわたるようになっているのに、逆に介護度が下がる場合があるとはどういうことなのだろう。ケアマネさんの説明では、同居家族がいて公的サービスの度合いが減る場合はそうなることがあるという。しかし、この説明はおかしいと思う。だれかが公的サービスの度合いを判断して減らしているわけであって、減らされている方の負担は上がる。つまり、プラマイ0の基準を状況判断としてどちらに振るかだけの極めて恣意的な判断が優先されるということになる。その判断の合理的な背景は説明を求めると、きっとそれなりにあるだろうが、制度の原則・認定の厳密な基準は、「ぶっちゃけて言えば、そういうものはない」ということを専門家が言っているに等しい。やはり、要介護者の状態そのものが判断基準になるべきだと思う。 またこんなこともあった。妻が点滴を受けている間、訪問看護センターから訪問看護を受けていたが、ケアマネさんが「これ、介護保険のサービスを使いますか」と言ってきた。なんのことかと問うと、ようするに介護保険を使うと費用負担が発生する。これなどは、どういう真意でそういうことを言ってくるのかよくわからない。伝えることには意味があるのかもしれないが、緊急の事態で看てもらっているときにわざわざ費用負担が発生することを言ってくる意味があるのかどうか。むしろケアマネさんからみて、今後の介護の状況から定期的な訪問看護による体調管理が必要と認められるならばそれを提案してくれれば良いだけではないか。これは、さらに医療を取りあげるということを暗に示しているのだろうか。謎だ。医療制度や福祉、介護保険に関することをきちんと調べていないのであまり突っ込んだことは書けないが、この辺りのことを自分なりにまとめておく必要を感じている。ただ、福祉全般と社会制度との関連、法や医療、精神医療の問題も関わってくるので、ここまで範囲が広がるとほとんどお手上げでまとめるといっても自分をあてには出来ないのがくやしい。ー

さらにある。身障一級の場合、在宅介護には特別障害者手当というものがあって申請して審査に通ると月額にして26440円の手当が出るというのだ。これも窓口で申請しておいたら、すんなり認定された。
整理してみると、65歳以上、要介護4以上、身障手帳1級、在宅介護、市民税非課税世帯もしくは生活保護受給世帯では、

1.医療費全額免除(ただし、介護保険サービス利用料・文書料・入院時の差額ベッド代・食 費負担、往診などの実費は除く)→身障1級
2.特別障害者手当・月額26440円(京都市の場合)→身障1級(市民税非課税もしくは生活 保護受給世帯)
3.NHK受診料免除→身障1級(市民税非課税もしくは生活保護受給世帯)
4.家族介護用品給付 65歳以上、要介護4以上→介護保険(市民税非課税もしくは生活保護 受給世帯)
5.タクシー利用券→身障1級

以上が私の場合妻が満年齢65歳を超えてかつ身体障害者認定されたことで受けることになった公的制度による補助である。満足か不満足かを書きたいのではない。ほんとに驚いたのと同時に、大きな負担軽減と安心感が得られたのは事実だ。とくに医療費全額免除と介護用品給付には助けられている。この一ヶ月でこうした補助を受けられるようになったわけだが、まさに激変といってもよい変化だ。

このことがあって、逆に思ったのは介護が必要な障害や若年性の認知症に罹った人を抱えた家族がいかに尋常ではない状態に置かれてしまうかということだった。例えば定年前に世帯主が若年性認知症となり介護が必要となった場合ほぼ絶望的な状況となる。要介護認定を受けてもそのサービスを使う費用以上の収入を得ることはかなり難しい。今まで仮に年収800万円から1000万円くらい収入を得ているとしてそれがいきなり途絶えると考えると仮に障害者年金を受けられるようになっても年間90万円ていどの手当しか受けられない。保険料も前年度の収入によって決められるから退職した時点で大幅な支出が止められない。劇的な生活の縮小を想定しなければ生活が出来ないことになる。サラリーマンの方なら退職金や貯蓄の切り崩しによってこの急激な変化を和らげつつ適当な着地を目指すことになるだろうが、おおよそ一部の高所得者を除いてなんとか生活を維持できるのは長くて3年ぐらいだろう。

一方妻がそうなった場合はどうか。とあるメーカーに務めていた課長職の方の奥さんが妻と同じくくも膜下出血が原因で重度の認知症になられた。会社に事情を話して、残業と転勤の免除を申し出ていた。二年ほどは会社もそれを認めてくれていたが転勤命令が出た。離職せざるを得なくなった。家のローンは退職金で完済し、貯蓄を切り崩しながら介護を続けていたが約二年でそれが尽き、現在介護サービスを使いながら自身もヘルパーの資格をとって働いている。だが、手取り17万円ほどで奥さんにかかる介護サービスの支払が10万円はかかる。さいわい奥さんが障害年金2級を受け取れるようになったのでなんとか生活は維持できているが、まだ自分が年金受給年齢に達していないのでそれまではなにひとつ贅沢は出来ない。彼は住宅ローンなどが無いので(完済できたので)まだ恵まれている方だという。これは身につまされる話だった。それはそのまま私にあてはまるからだ。
さまざまなケースがあり仕事を続けられる人もあれば自営業の人なら仕事の自由度もサラリーマンよりあるという場合もある。しかし、職人さんや日雇いの給与生活の人たちではたちまち生活そのものが成り立たなくなる。悩めているうちはまだましだ。あるとき突然に土石流に押し流されてしまうように生活は崩壊する。おそらくそんなことに出会わないかぎり、「社会との関係」は見えてこない。それまでは利己的に生きていくのに必要な社会との関係だけが自分を構成している世界であり社会なのだということを思い知らされる。
介護保険が孕んでいる問題は、個別のサービスが有効か無効かという議論ではなく社会保障制度とセットで考えられなければならないだろうと自分なりには思うようになった。自己責任だという人もあろうが、それは言える立場の人が言うだけの(しかも声高に!)、溺れている人に石を投げつけるような意見だと思う。また、それを言いうる社会として今の社会が整備されているわけではない。そういう社会を実現してから言えと言いたい。

以前、少し関心を持って介護保険にあたったときに、介護保険制度の誕生について「措置から契約へ」というのがいかに大きな前進であったかという主張を読んだとき、少し違和感を持ったことを憶えている。その時この違和感について明確な輪郭を持てなかったが、今は少しだけ表すことが出来る気がする。この契約の主体はいわば「今(今後)の社会が想定する成熟した市民」を前提にしていると思う。そこには新たな市民形成をしようとする政治的な動機が含まれていたのではないか。たんに弱者にやさしい社会とかの主張の政治的対立ではなく、今までの大きな枠組みの中で「恩恵としての措置」を獲得していた層を解体し、新たな制度のもとに再編する役割を担っていたのではないか。私の推察が正しければ、この動きに対応する政治、経済動向の痕跡が見つかると思う。
現在介護保険制度は経済不況のあおりを受け、また発足当時から抱えていた問題が露出して迷走を続けているようだが、おそらく当面は当初の目論見を手放すことなく、現状を過渡期とみなして生き延びようとするはずだ。なぜなら、制度設計の動機、導入過程でそれは新たな管理体制を構築することであり、すでにその体制は強化の一途をたどっている。
それはきっと『ともだち的(20世紀少年からの思いつき・注1)』にはこうだ。「皆さんの幅広い意見を、また現場の方、専門家の方の意見を聞かせてください。我々はそれを真摯に受け止めてよりよい制度を造っていきます」と。しかも、それは「無いよりあった方が良い」という暴力的な説得力を持って君臨し続ける。介護保険は無くては困るが、社会保障とは連動せず、かつ介護者の就労の前提を保証もせず、医療からは切り離し、逆説的に家族の自由(皮肉である)に委ね、家族(から)の自由を奪う。この現状を訴えれば訴えるほど、要介護者、高齢者を棄民する口実は蓄積されていく。非実在の合法的な社会化である。もちろん!それを望んでいるのはあなた方なのだ、と。「現在の権力は禁止したりしない。許可することで強化される権力」と言ったのはMさんだが(大意)、まったくそうだと舌打ちが出るほど頷かされる。

とりあえず、この辺りの実感を初歩的な出発点として考えてみたい。

注1 「20世紀少年」は浦沢直樹の漫画である。たまたま映画となってそれがテレビでやっているのを知って引用したが、映画の方は観ていない。浦沢直樹は昔よく読んだ。「踊る警官」、「NASA」、「パイナップルARMY」、「MASTERキートン」とかは面白くて買ったが「MONSTER」や「20世紀少年」はよくわからなくてぜんぶは読んでいない。
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