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排出口 2 [介護と日常]

「排出口」というタイトルは、「生物と無生物のあいだ」に刺激されて考えたものだが、自分のセンスの無さというか言葉に対する感覚の貧しさにつくづくうんざりする。あまりにダサイので前回のタイトルを変える。ま、あまり変わりはないと思うが。

福岡伸一によれば人間の生命は、口から入れたものを消化して必要な栄養とエネルギーを取り込み、残った不要なものを排出して生命活動を営んでいるのではなく、摂取した分子を驚くほどの速度で全身に取り込み、そして古くなった自分の分子を捨てる、つまり交換をすることによって生命を維持しているのだという。

私は一人のユダヤ人科学者を思い出す。彼はDNA構造の発見を知ることなく、自ら命を絶ってこの世を去った。その名をルドルフ・シェーンハイマーという。彼は生命が「動的な平衡状態」にあることを最初に示した科学者だった。私たちが食べた分子は、瞬く間に全身に散らばり、一時、緩くそこにとどまり、次の瞬間には身体から抜け出ていくことを証明した。つまり私たち生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り立っている分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。ー「生物と無生物のあいだ」福岡伸一著

プロローグから引用した。最初からドキッとさせる手口もなかなかだ。
この福岡の説明は明らかに今の我々が持っている身体感を過去に追いやるものだ。と同時にある種の拡張感をもたらす。そしてその拡張感はとてもはかない人間存在のあり方を喚起する。つまり比喩的にいうと大きな自然の流れの中で自分の存在は空気と比較して少し密度が高い霧とか霞のようなもので、やがて霧消してしまうものだと。まるで古典文学の解説を読んでいるのではないかと勘違いしそうになる。

さてとにかく面白い本であったが、私は小骨が刺さったような違和感も感じた。この違和感はなんだろうかと考えていたら、もとhanaさん(もとシマリスさんではないhanaさん)からすすめられて読んだ「ボディ・サイレント」を思いだした。マーフィーは脊髄にできた腫瘍によって全身麻痺になり、回復することなく息絶えた人類学者であり、ボディ・サイレントは彼自身の死に至る病(身体)の記録だった。彼はその中で生と死について省察している(ほとんど全編がそうなのだが)。死は生の否定ではなく、逆に生を創る。死がないと生という観念は意味をなさない。純粋な存在は死もしくは純粋な不在と同じ事だと。
福岡伸一から感じる強烈な虚無感、導き出された結論としての無力感はマーフィーの語った生と死の否定であるように私には思える。そしてそこに微妙なイデオロギーの陰影を感じる。彼は科学と思索の二つのレールを敷き、思索にはある方向性を与えた。それが彼の、絡み合う二重らせんのあらかじめ決定されていた戦略かもしれない。想像が確かなら(いや、多分すでに雄弁に語っている)身震いするようなイデオローグが登場したと言わなければならない。


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hana

miyataさん、今晩は。
「生物と無生物のあいだ」は、昨夜から読み始めました。
上に書かれているプロローグの部分を読んだ時には、大丈夫か?と思いました。
科学的な世界は、私には全く別世界ですから・・・昔から化学や物理は難ししすぎて嫌いです。
でも内容を読み始めてみると、そうでもないですね。
高校生くらいの時に、この本に出会っていたなら、少しは違っていたかも知れません。
miyataさんが感じられた違和感・・・さて、私はどうでしょうか。
楽しんでゆっくり読み進めていくことにしましょう。
by hana (2007-11-04 21:34) 

miyata

hanaさん、おはようございます。
本が届いたのですね。私もhanaさんと同じく科学的な世界は別世界です。たしかにおっしゃるように高校生くらいの時に出会っていたらという思いはありますが、私のその後のことを考えるとやっぱり無縁な世界だったような気がします(笑)。
私が感じる違和感というのは、私がエコロジー運動や自然環境保護運動などにもろ手を挙げては賛同できかねるというところから来ています。
by miyata (2007-11-06 07:08) 

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