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排出口 1 [介護と日常]

ここ数ヶ月の自分の憂鬱感と不安感(圧迫感?)について、このまま放置しておけば出口なしの淵に沈んでしまうのではないかという焦燥感も加味されて雪だるま式に膨らんできたので、この辺りで少し抵抗を示しておかなければと思うようになった。
ただ、その抵抗の方法と問題への接近の仕方がよくわからない。ちょっと汗をかくほどの運動をすればすぐに回復する程度のものかもしれないが、とりあえずブログに向かってみる。無惨かもしれないがいくつかのキーワードを抽出して空拳を繰り出すしかない。

認知症 介護 家族 外部と内部 社会 排除 隠蔽 不安 ・・・

「生物と無生物のあいだ」- (福岡伸一著・講談社現代新書)の次の一節に驚いた
内部の内部は外部である
 ひとつの細胞を、薄い皮膜で覆われたゴム風船のようなものとしてイメージしていただきたい。風船の内部で生命活動が営まれる。実際の細胞の内部は、しかし、風船のような完全ながらんどうではない。たとえば、DNAを保持している「核」、エネルギーを生産する「ミトコンドリア」といった区画が存在している。小胞体もそのような区画のひとつである。ちょうど、それはゴム風船の内部に存在する別の小さな風船である、と思ってもらえばよい。
 パラーディの観察によれば、タンパク質の合成は、まずこの小胞体の表面で行われていた。ここでいう表面とは、小さな風船(=小胞体)の外側、つまり大きな風船(=細胞)の内側という意味である。ここから先、読者はトポロジーを見失わないように文章を追っていただきたい。
次の瞬間、合成されたタンパク質は、小さな風船(=小胞体)の内側に移動していたのである。このような移動が起こるためには、タンパク質は何らかの方法で、小さな風船(=小胞体)の皮膜を通過して、内側に入り込む必要がある。その方法は当時、パラーディにも知るすべがなかった。が、事実として、タンパク質は小胞体の内部に移行していた。
 小さな風船の(=小胞体)内部とは、大きな風船(=細胞)にとって一体何に当たるだろうか。それは外部に当たるのである。つまりタンパク質は、小胞体の皮膜を通過して内部に移行した時点で、トポロジー的には、すでに細胞の外側に存在しているのだ。ー 略

もう一つの内部がある理由
 細胞は、内部で作り出されたタンパク質を細胞の外部へ運び出すために、直接、細胞の皮膜を開閉する危険を避けたかった。それをすれば内的環境が外部環境に晒される瞬間を作ることになるからだ。そのかわり、細胞はあらかじめ細胞の内部に、もうひとつの内部を作った。それが小胞体である。
トポロジー的に、内部の内部は外部になる。タンパク質を小胞体の内部(=細胞の外部)に運び込むためには、小胞体の皮膜をタンパク質が通過する必要がある。しかし小胞体皮膜の開閉は、細胞膜の開閉に比べればずっと危険度が低い。なぜなら小胞体の内側はトポロジー的には細胞の外部ではあるものの、実質的にはまだ細胞に内包された区画に過ぎないからである。小胞体内部の環境が、細胞内部に漏れ出る事故が生じても、それは細胞に外部環境が無秩序に流入するわけではない。
 このようにして細胞は、最小限のリスクによって細胞内と細胞外の交通を制御するすべを作り上げたのである。

精妙な自然のあり方に驚いたのではない(それもあったけれど)。まるで私(妻を含めた家族といってもよい)を内部と置き換えた場合の社会との関係を言いあらわしているのではないかと思えたからであった。

認知症
認知症を厳密に捉えるのは難しい。単純にいうと認知症とは学術(医学)用語に置き換えられた言葉の中に存在して、同時に社会的存在としては要介護度として認定された基準の中の存在であると言うこともできる。このことは医師の前で普段の妻の異常行動を説明するときに、言葉でいくら説明しても説明が届かないという違和感としてあり、その原因を納得したのは上記の理由だった。つまり、医師は私の説明を彼の言葉に翻訳しなおして、合致したものを受け入れる作業をしていることに気がついたのだ。いくら説明してもしきれないもどかしさは、ひとつその姿をあらわにしてくれた。
認知症とはその存在のありようそのものであるとしか言いようがないのだが、存在のありようそのものを表すことは難しい。つまり認知症という言葉はそういう難しさを表す言葉だと考えるしかない。家族は介護という言葉と同時にこの言葉から解き放たれることを夢想する。この夢想の中に治癒から死まで、いわば外部と内部の問題がすべて眠っている。

地域
一言で地域と言ってしまっては誤る。居を置く周辺を指すのか、周辺を含めて行政単位の町や区や市を指すのか。私の場合の地域とはまずは住んでいる周辺から臨む風景をさす。住んでいる地域を実感として受け止めたのは妻が倒れてからであった。それまで私は地域を肌で感じることも地域の住人である実感も持たなかった。なのに妻が倒れたときからなぜ地域を肌で感じるようになったのだろうか。家族が抱えた問題が、そのまま内部の問題としてだけではなく外部との緊張関係をもたらしたからだった。それは無言の視線であったり、妻の関係を通した同情や憐憫の接近であったり。それは言いかえれば境界の発見であるといってもよい。彼らの視線や親切や同情、憐憫は地域の親和性として表れつつ私(家族)の存在は彼ら(地域)の存在の保証を確認する対象のようでもある。私(家族)の存在は彼らの禁制(望まない姿)を映しているのである。ここでの外部はまだ内部である

外部と内部
妻がくも膜下出血で倒れた後、重篤な認知障害者として家族の中に帰ってきたとき妻は異形の者として帰ってきた。家族は内部に外部を抱えることになった。外部とはのぞき見ることも想像することもできないいわば暗黒である。内部との軋轢はまるで部族間抗争の様相を帯びる。家族は家族をたらしめている内部秩序の維持に努める。それは外部の者の行動を規制し、秩序に同化させる努力を重ねることでもある。介護の大きな側面でもある。家族はなぜ内部秩序を守るのか。それは自らが属している内部から外部に放逐されることに対する恐怖なのではないか。ここでも境界という言葉に表される、明確なのにその姿を描くことが難しい「ある状態」が想起される。家族とはそれを成立させている表象的な衣装を脱ぎ去れば、境界の狭間に置かれている「ある状態」のことと、少なくともその内部に外部を抱えたときにはそう言わざるを得ないのである。

※朝の4時半に起きて妻をトイレに連れて行った後、思い立ってPCの電源を入れ一心不乱にキーボードを叩いてきたが、時間が来た。とりあえず第1ラウンドはお終い。私が書いている事は多分間違いなく誰かが書いていた様々な言説の寄せ集めであると思う。出典が明確な場合は引用先を明示するが、明示できない剽窃の結果としての文章は、いわば私の意識が紡ぎ出したエディトリアルの結果である。


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hana

おはようございます。
こうして、miyataさんがご自身の中に抱える思いを文章にして書かれることは良いことかと思います。
でも相変わらず、私には難しい。
難し過ぎるくらいですが、おっしゃりたいことは解るような気が致します。

「生物と無生物のあいだ」は、早速ネットで注文しましたが、この内容では私に読めるのでしょうか。
しかし、これは私の問題でもあるのですから。。。
by hana (2007-10-29 09:57) 

Silvermac

体験から生まれてきた考察、体験しないものには分かりづらいこともありますが、納得できます。続きを期待しています。
by Silvermac (2007-10-29 10:15) 

うーん
認知症の家族との関係を理論的にすると難しいのですが
私は元保健師という立場上、妻として専門職として
全力を尽くそうと決めていました。

言葉は悪いですが惚けたら惚けたように付き合ってきました。
娘が私の体力を心配しましたが、それがなんともなかったのでした。30分寝て3時間起きて又2時間眠ってとか。

近所に対しても、あるがままを話していました、一人でふっと出かけるホームセンターには私の連絡先を知らせてありました(事情も話して)

親しい近所の方は「いっそ寝たきりになれば奥さんもらくになるのにねえ」

私は本人それを避けたがっていましたから最後まで歩かせましたが

脳梗塞とがんの全身(骨にも)転移よくぞ骨折にいたらなかったと

それだけがほっとしています。
by (2007-10-29 16:30) 

私は病の当事者なので位置としては外部に属するのかもしれない。
外部から内部を覗き込むと好奇な目を隠し外部を伺っている内部の眼差しが針のように突き刺さってくる。
配偶者である妻は今の不安と将来の不安が入り混じり精神的に参っているようです。私の病は内部の心と精神状態を狂わせているようでした。
miyataさん
男性の貴方でも自分で気が付かないうちに心の不安が悲鳴を上げているのかもしれません。
私は絶対に治る事の無い病に倒れやがて8年。
今私は残された人生に大きな不安を感じています。しかしそれ以上に内部の人たちは口にこそ出しませんがつらい日々を送っていると思います。
一刻も早くmiyataさんの心に平穏な日々がくる事を願っています。
by (2007-10-29 20:35) 

miyata

hana さん、こんばんは。
ええと、自分でもわからないようなことを書いているのがいけないんですね。これが今の私の低調な現実なんだと思います。なんだか中学生とか高校生時分の時の悩みのようです(苦笑)。孤独や孤立から逃れたいと感じているのではないんです。ただ、このなんとなく「空気が重い」感じから逃れたいだけなのですが。

「生物と無生物のあいだ」は、ご心配いりません。ほんとうはすごく難しい世界をこんなにも面白く魅力的に語ってくれる本はそうそう無いと思います。ノーベル賞にまつわる運命のいたずらとかそれはもう、面白さ満載です。特にですね、人間が生きているというのは摂取したタンパク質を分子ごと交換して、つまり入れ替えていきながら生きているというところの説明とか、いやあ面白いですよ。ぜひお楽しみください。
by miyata (2007-10-29 23:19) 

miyata

SilverMacさん、こんばんは。
考えても現実は変わるはずもないのにとか思いつつ、変なところにとどまっていまして、溺れかけている人のような状態ですのでちょっと水面に出て空気を吸わなくてはというあがきのようなものです。早くそうしないとますますこうじてしまう気がしますので、とりあえずハチャメチャでも藻掻いてみようと思います。
by miyata (2007-10-29 23:24) 

miyata

なかなかないさん、こんばんは。
そうですね。今の状態を理論化したり説明できるとは思っていないのです。それは私のレベルを遙かに超えた世界だろうということはわかっているのです。ただ、少しだけでもいいから自分の腑に落ちる部分が見つかれば、それは望外のことだと思っています。ちょっとシャキッとできればそれでよいという感じです。女房と一緒に散歩に行っても私に映る風景が灰色だったら、女房もきっとつまらんでしょうから。と、自己中的に考えて(^^ゞ
by miyata (2007-10-29 23:30) 

miyata

だるまさん、こんばんは。
ああ、そうか。ここの文脈に当てはめるとだるまさんはそうなるんですね。だるまさんはその場所ではあらゆる理解を拒絶できる意識の王のように振る舞えることもできるわけですね。だるまさんの絶望や孤独、悲哀にはだれも届くことができないというように。逆に認識できないいわば無意識の王の場合はどうなるのか。それは私の今の問題にもつながります。彼女(女房)は、内の住人なのか外の住人なのか。私自身が内を演ずれば演ずるほど境界の外に追いやられていくという矛盾に出会う気がします。彼女の存在は不安と恐怖(将来の)を伴って化外に通じる通路を垣間見せる。結論的にはそこを自由に行き来することができる、そのことが自由であり解放であるという現実の条件(意識も含めて)が獲得できればよいのですが。それこそ極端な事を言ってしまえばホームレスになり橋の下とか公園で段ボールの家に夫婦で住むことになっても、死ぬまでは夫婦で生きて行ければ人生それで良しと言い切れるような地平です。そうできれば私は今のつまらない悩みを悩む必要はないのです・・。

※遅くなりましたが、明日送ります。
by miyata (2007-10-30 00:24) 

miyata さん
自分を含めて内側であって欲しいと思っています。
病に倒れた夫や妻を分身とは考えられないだろうか?
自分の手足が傷つき不遇になったら外部の人間と捉えられるだろうか?
それでも私は捻くれてしまっています。その気持ちは内部の人間にも以心伝心伝わっています。内と外の差は紙一重。
家内からもし「私が病気になったらどうするの」とよく聞かれました。
私はmiyata さんのことを話したことがあります。
辛いと思います。自分を見失う事もあると思います。
患者となってしまった方は倒れる前は確実に内側で生活していたと思います。そしてこれからも内側で生活していかれることを強く望んでいます。
by (2007-10-30 10:06) 

左膳

拙者も倒れてから8年が経ちますが、母を介護者として
兄の元から来て貰って忸怩たるものを感じながらも、何も言えず・・
または母が拙者に対し早く歩けて独り立ちを望んでいることを
分かりながらも無理を言うなとついつい口に出しています。
by 左膳 (2007-10-30 13:47) 

miyata

だるまさん、こんにちは。
私の言う「外部」は現実的な外部というより概念的なものです。そして社会を形作っている要素から外れてはいるけれども決定的に影響を受けざるを得ない場所のようなものです。家族を内とみなせば外は家族を取りまく世間や社会・制度というものになり、外部は接点が必然でありながら外(世間や社会)からは決定的に疎外されている領域のことです。この辺のことが、「内部の内部は外部」ということに触発されたということにつながりました。
だるまさんのいうところの「分身」として捉える事は、過去から現在まで人間の歴史は可能である事を示しています。ただし条件があって、ある強大な権威(神のような)の影響が必要でしょう。しかし、それはすでに大きな悲劇を内包しているのです。
私はそこではなくて、自分の尊厳と自由が保障される領域がないものか、可能性はないだろうかと考えているのですが、それも違う権威を求める旅かもしれないという空しさも感じます。結局人は自分だけの王国を作ってそこで死ぬまで生きるしか方途はないものでしょうかね。
そうそう、誤解して欲しくないのは私は今の妻との生活をはかなんで愚痴をこぼしているのではないのです。逆に青年の時のように悩める時間を与えてくれた今の生活に感謝しています。
by miyata (2007-10-30 14:53) 

miyata

左膳さん、こんにちは。
もう8年にもなるのですね。昨夜ちょっとうとうとしながらNHKスペシャルを見ました。交通事故で記憶障害になった若い女性が子供を産んで育てるという番組でした。一緒に住む母親(祖母)が娘に対してあれやこれやと彼女の義務と責任において、娘に介入します。娘は絶望的な抵抗として「どうしてそういうことをいうのか」と言い返しますが、母親(祖母)は「それはあなたのためを思うから」という場面で、自分の姿と重なりました。そしてそれこそが権力であり暴力なのだと思ったりしました。番組ではそういう事を含めて、若い記憶障害を背負った母親(娘)の成長の記録として紹介しているようでしたが、私にはなんだか母親(娘)の諦めの過程、子供を奪われてゆく記録のように見てしまいました。
by miyata (2007-10-30 15:35) 

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