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伯母の死をきっかけに [介護と日常]

18日の昼頃伯母が亡くなったという知らせを受けた。93歳だった。これで父の兄弟はみないなくなってしまった。
連絡をしてくれたのは従兄弟で私より7歳ほど年上だが、普段会うこともないので電話の声のあまりの若々しさに大きな間違いをした。
実は伯母の姓と妻の妹の姓が同じ姓なのである。だから私はてっきり妻の妹の息子だと勘違いした。「母が亡くなった」と聞いたときに思わず腰が浮くほど驚いたが間違いに気がついて謝った。が、妻の妹と勘違いしたときには飛び上がらんばかりに驚いたのに伯母の死はそれを自然に受け止める自分の落差に、人の死は了解の中に存在するのだ思った。

妻は一週間の予定だった入院が少し伸びて、おそらく今週末が退院になるのではなかろうかと思うが18日の通夜にすぐに出られたので助かった。19日の葬式には子供達も参列した。死に顔はやつれもなくきれいだった。生前のことを思い出すうちに、節目節目で伯母が私に示してくれた愛情に気がつき涙がこぼれた。伯母は子供を産まなかった。知らせてくれた従兄弟はすでに亡くなっているご主人の連れ子だ。

私が伯母に初めてあったのは小学生のまだ低学年の頃だった。高知の片田舎で生まれた私は父に連れられて神戸という大都会に初めて行き、父の実家に行った。その時伯母はまだ今の鈴蘭台の家ではなくて市内の小さな一戸建ての家に住んでいて、実家から伯母に連れて行かれたように記憶している。父は仕事かなにかで不在だった。伯母の家にいた姑さんは、大きな目をギョロリとさせて私を品定めするように見てから「これがみっちゃんの子か」と伯母に聞いたのではないかと思う。私はけっこう縮みこんでいたと思う。
当時父の実家には、祖母と父の弟夫婦と独身の叔父が同居していた。叔父の子どもで私より1歳年下の従兄弟がいて初めて会ったのだがそれ以来会っていない。喧嘩をして泣かされたことが今でも癪の種である。アウエーの不利だった。祖母がこの従兄弟の味方についたのが決定的に戦局を分けた。記憶に残る初めての敗北だった。ま、これはどうでもよい話である。

実家と伯母の家の雰囲気で、どうやら私の父は家族からあまり歓迎される存在ではないことを感じていた。伯母は台所に立ちながらつっけんどんな調子で高知での生活のことをいろいろ聞いてきた。取り調べを受けているようで辛かった。私の前に座った伯母が初めて笑顔を見せて「ところであんた、ごっつう成績ええらしいな。お父さんがえらい自慢してやったよ」と言ったことを覚えている。そんな父親や、自分がいたことを思いがけず知った。私はそれほど出来がよい子どもではなかった。伯母の笑顔に緊張が解けていったのを、伯母の笑顔と共に思い出す。血のつながりのない従兄弟は私が神戸にいる間実によく遊んでくれて可愛がってくれた。

父の兄弟は5人。伯母が一番年上でその下の父は長男。一人比島で戦死した叔父がいて、私の父は60歳の時に亡くなったが他の兄弟はそれなりに皆長生きした。
不思議な兄弟だった。祖母が亡くなったとき、最後まで独身だった末っ子の叔父は上場企業の役員をしていて絶頂だった。会社から総務を何人か連れてきて葬式を取り仕切っていた。私の父は高知から引き上げて祖母と同居していたので肩身が狭かったのだろう。葬儀には口出しをしないようにしていた。東京にいた叔父は当時衆議院議員の秘書をしていて、花輪や焼香順序のことでなにかぶつかったのだと思う。ちょっとした口論が始まった。その時伯母が二人の弟を叱った。自分の立場を利用するな。祖母の気持ちに立って物事を考えろというようなことだったと思う。伯母はずっと小学校の教員をしていてその叱る口調が気にくわなかったのだろう。喧嘩が始まった。最初は一番下の叔父が「おれの部下のいる前で、子どもを叱るようにいうとは何事だ。その教員面が気に食わん」というような他愛もないものだったが、喧嘩はなかなか収まらない。皆が困っているのをよそに、私の父も加わって議論が果てしなく続く。焼香順序とかの問題はどこかに行ってしまって、気がつけば政治思想の問題に発展している。4人の兄弟がてんで勝手にお互い向こうの方を向いて自分の意見を言っている。困り果てた叔父の部下たちは翌日の準備が一通り終わったことを告げて帰って行った。東京の叔父が「今夜はこれから宴会だ」といって祖母の棺桶の蓋を開けて「ばーさんも賑やかで喜んでいるだろう。miyata家にふさわしい通夜だ」と酒盛りが始まり深夜まで続いた。その時はとんでもない兄弟だなあと思ったのだが、今は違ったことを考える。祖母の死をきっかけにして互いに遠く離れてしまった兄弟間の隙間を埋める儀式だったのだろう。この時、いろいろ番外編があった。お隣に住む大学生が通夜の酒盛りに入ってきた。叔父も良く可愛がった子どもらしかったが、叔父の会社の工場に戦争荷担をする企業に抗議するためにデモで押しかけたという話になって紛糾した。父と伯母はその大学生に理解を示したが、東京の叔父は民社党員でどちらかといえばタカ派。末っ子の叔父も元々は戦後ロックアウト状態の会社に労務担当として入り、操業再開の道を開いた功労者として出世した人物だったので結局最後にはなかなかきつい説教となって、お隣の大学生は泣きながら帰った。遠巻きに議論を聞いていた私は、自分がやはりその場にいたことは言わなかった。その後お隣の大学生は叔父の世話で関連会社に就職したことを知った。

私の父は伯母と一番仲が良かったと思うが、実際は父は死ぬまで伯母の世話になっていたのではないかと思う。父はどの兄弟とも仲が良かったが、父を外すとそれぞれの兄弟はあまり仲は良くなかった。いや、仲が悪いというよりそれぞれ変わっていた。父をのぞいてそれぞれが肉親の情をあえて遠ざけるような、なんといったらよいかプライドのようなものを持っていた。家族的なつながりを忌避しようとした背景はよくわからないが、叔父が残したものを調べていると戦中・戦後の極端な貧しさがあったのだろうと推察される。父は脳天気な性格で長男でありながら家が貧しいのに無頓着で、家族を困らせたらしい。そもそも、神戸に実家があるのになぜ私が高知で生まれ、しかも母がなぜ秋田出身であるのかは長い間わからなかったが、父が死んだとき伯母から聞いた話によれば、戦後進駐軍に徴用され事務長として輸送船に乗っていた父が、戦後の物資不足の現実を目の当たりにして仲間と船をチャーターし、九州から神戸まで横流しの物資を運ぼうとしたところ折からの台風でその船が沈没し積み荷がばれてしまい、進駐軍から犯罪者として追われたらしい。祖母の親類筋に高知で製材会社をしている人がいてそこにMPに検挙されるすんでの所で父を逃がしたからだということを聞いた。父は私には単純に戦後つてを伝って遊びに来たら川では鮎が釣れて、海はすぐそばだし極楽のようなところだと思って居付いてしまったと言っていた。伯母から真相を聞いたとき、わかるような気がした。父は一山あてようとかそういう性格ではなかった。身分不相応な義侠心のようなものがあり、単純に人助けのために不足したものを運ぼうとしたに違いない。私が生まれる前後、田舎の子供達がまともな文具を持ってないことを知り、神戸から文房具をたくさん買い込み住んでいた社宅の玄関を開放して並べ、「青空」文具店を開いていた。お金を入れていく人はほとんどいなかったらしい。町内に専門の文具店が出来、ものが出回るようになると店じまいしたと、母から聞いた。

私の家は貧乏だったかもしれないが、子どもの頃まったくそういう実感を持ったことがない。別に派手ではなかったがむしろわが家は皆と比較して裕福な部類にいるのではないかとさえ思っていた。思えば父の性格が実際の生活程度より大きく家族を覆っていたのだろう。母が死んだとき伯母がきて「あ、本当にテレビがあったんやなあ」と驚いていたのが思い出される。私の父の話は実家ではほとんど信用されていなかったのだ。

伯母は晩年になると私の父の悪口は言わなくなった。とても頭が良くて手先が器用で、性格は神様のようだったと顔を合わせると言っていた。私の娘が小学校の教員になるとまるで自分の後継者が出来たようにとても喜んでくれた。伯母は娘に「ガキ大将になることや」と眼を見開いて伝授していた。喪主の従兄弟が挨拶で「母は自分が教員であったことにプライドを持って生きました」と言ったとき、生前の伯母の元気な笑顔を思い出した。ガキ大将の笑顔だった。
葬式には教え子のグループが来ていた。皆私よりずっと年上の人たちだった。先生を囲む会を今年計画していたらしい。小学校の教え子たちが卒業後もずっと伯母のもとを訪れていたというのが、私の感覚ではちょっと信じがたい。

ここ二年ばかり伯母からの連絡もなかったし、四年ほど前から従兄弟の奥さんが世話をしていたので私の方からも連絡はしていなかった。奥さんにいろいろ大変だったでしょう。お疲れ様でしたと声をかけると、歩行が少し危うくなっていたのでひょっとしたらこれからしんどくなるのかなと思った矢先だったので、それほど苦労はしていませんでしたと言った。伯母は一緒に住むのは嫌で、奥さんは近所の家から伯母の元に通っていたそうだ。デイサービスを受けたらどうかと薦められて見に行ったこともあったが、人にはあそこの施設はいいから行きなさいと薦めても自分は行くのを嫌がり行かなかったことや、私の妻のことを心配して良く話をしていたというのを聞いて胸が痛んだ。いささか記憶に難が出ていたが、最後までしっかりしていたということだった。

葬儀が終わると外は折からの雨でもう薄暗くなっていた。京都に帰ってから兄の家族と一緒に久しぶりに外で食事をした。
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コメント 14

左膳

伯母様のご冥福をお祈り申し上げます。
93歳だと天寿を全うされたといって良いのでしょう。
拙者も、昨年父の最後の兄弟が亡くなりました。
養子に出られたせいか、それとも岡山と離れていたせいか
顔を見た覚えもなく他人事のように感じてしまいました。
by 左膳 (2008-03-21 18:48) 

tomoko

伯母さんお亡くなりになたのですね。
最後まできちんとしていた様子、分かるような気がします。
ご冥福をお祈りします。
兄弟っていいデスね。。。。。

by tomoko (2008-03-21 20:24) 

SilverMac

私の父と伯母の関係に酷似していて驚きました。
by SilverMac (2008-03-22 08:50) 

miyata

左膳さん、おはようございます。
こんな風に世代は交代していくのですね。祖母が死んだときには次は自分だとはちっとも思えなかったのですが、伯母が亡くなってふと成人した子供達を見ると、もう自分たちなんだと実感します。
by miyata (2008-03-22 09:35) 

miyata

ともちゃん、おはようございます。
亡くなりました。苦しまずに亡くなったどうです。きれいな死顔でした。
by miyata (2008-03-22 09:36) 

miyata

SilverMacさん、おはようございます。
ついつい家のことを書いてしまいました。私には優しい伯母でした。
父の兄弟は父も含めて皆口が達者で人に喋らせずに自分が喋るので時には閉口しましたが(苦笑)。私にも少しそういう傾向があるかもしれません。
by miyata (2008-03-22 09:39) 

なかなかない

伯母さまの御逝去心からお悔やみ申し上げます
兄弟や親の兄弟とのこと

どこの家にも色々あります

わたしは弟とは1年6か月しか年がちがいません。わたしのことは便利な女中ぐらいの気持ちです。
しかし妻に対してで偉そうに言ったときは今までで始めて「そんなことをいうものではないよ」とわたしが言いました。

義妹も姪も吃驚飛び上がりましたがそれ以来勝手なえらそうなことは言わなくなったらしいです
by なかなかない (2008-03-22 09:58) 

hana

こんにちは。
叔母様、ご愁傷様です。
こうして身近な方がお亡くなりになることは、miyataさんもさぞおさびしいお気持ちかと思います。
でも年齢から言えば決して不足はない、最後まで一人暮らしをなさって、入院もせずに?亡くなられた最後・・・・私もこうあったらと、いつも願ってはいるのですが。。。きっとそうはいかないでしょう。

書かれた内容から、お母様は随分早く亡くされたのですね。
まだお若かった頃、というよりmiyataさんの子供の頃でしたのでしょうか。
しかし、次は自分の番などど・・・・まだまだ早過ぎます!
そんなに神様は甘くはありませんわよ。
by hana (2008-03-22 11:43) 

タケノコ

93と言ったら私の祖父と同じ年ですね。(祖父はまだピンピンしていますが)伯母様のご冥福をお祈り申し上げます。
miyataさんの記事を読んで、郷里を離れているせいもありますが、妻が倒れて以来、親戚とも会うこともなく、伯父伯母など元気でいるのだろうかと
思った次第です。
by タケノコ (2008-03-22 22:19) 

だるま

ご冥福をお祈りいたします。
長い間お世話になりました。ありがとうございました。
by だるま (2008-03-23 11:42) 

miyata

返事が遅くなりまた。女房の退院、決算、仕事の締め切り、申告などが重なりもう頭の中がグチャグチャです(笑)。
女房は退院してからもまだ足下がしっかりしません。ただ今回は入院中にそれほど呆けることもなく、わりあい元気にデイケアに行ってくれました。

>なかなかないさん
兄弟というのは、仲がとても良いというのが逆に少ないような気がしますがどうなんでしょうか。わが家でも姉と弟はとても仲がよいとは言えません(苦笑)。ただ、以前のような喧嘩をしなくなりました。それぞれ、行き方が(生き方)定まってあまり交錯しなくなった事が原因だと思います。

>hanaさん
そうなんですよ。ほとんどまだ子どもの頃に母が死にました。高校に入学したその年の5月でしたね。私は寮に入りました。寮の窓から海が見えました。その堤防の上を一人歩く女の子をぼんやり見ていました。同学年の女生徒で同じ時期に母を亡くしたのです。とても痛ましく見えました。寮の同級生が教えてくれました。でも、話をしたこともなければ名前も忘れました。

>タケノコさん
おじいさんはすごいですね。確かhanaさんのところで読みました。自分で車運転して釣りに行くんでしょ?ほんとに長生きしようとしたら都会では駄目ですね。病院でしか生きられないような気がします。
身内の葬式というのは、久しぶりの身内と顔を合わすいい機会の役割を持っているんですね。真言宗のお坊さんで、読経の途中でいきなり大きな声で「喝!!」と言ったものだからびっくりして飛び上がりそうになりました。じっと故人を偲んでいるのに驚かすとはけしからんと思いました(笑)


by miyata (2008-03-25 13:18) 

miyata

だるまさん、こんにちは。
すぐに戻ってこられると聞いて喜んでおります。
お待ちしております。
by miyata (2008-03-25 13:39) 

すず音

お久しぶりです。
お元気でしたか?
私も何とか生きておりました。まだ生きているですね。
このたび楽天に戻って参りました。
今年は明るい日記にしたいとおもますが
どうなることやら・・・
また大黒柱として働きます。

by すず音 (2008-03-31 07:04) 

miyata

すず音さん、こんにちは。
返事遅くなりました。いやあ、お久しぶりです。お元気ですか。
またそちらのほうにも伺わせていただきます。
by miyata (2008-04-03 14:18) 

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