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無題 [介護と日常]

朝から雪がちらちらと舞っている。寒い。妻は二日前より輸血が始まった。残るは人工呼吸器だけと言われていたので、まだ打つ手があったのかと逆に安心する。体が弱っていると苦しむ元気もなくなるのだと知った。咳はもちろん、発熱すら出来ない。だけど、妻は生きている。おそらく医師の予想を超えて命を繋いでいる。このまま意識は戻らないかもしれないが、3月の末に引っ越す新居に出来れば連れて帰りたいと思っている。
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2012-02-07 [介護と日常]

ずいぶん長いあいだ留守をしてしまいました。

突然ですが、妻は死ぬかもしれません。
いま、死の隣で疲労困憊して喘ぎながら休息しているところです。

二月三日午前六時五十分に、痙攣の発作を起こして病院に入院しました。診断名は「症候性てんかん」。二次性てんかんともいうそうです。
血圧が低下し、肺炎も併発して危篤状態となりました。また、六日に軽い脳梗塞を起こしました。一見はおだやかに眠っているようですが、体の余力が残っていないようなのです。肺炎になっても熱を出して抵抗する元気もないということのようです。

今日七日、救急救命室から脳外科病棟の個室に移りました。出来るだけ時間に制約されずに家族と長くいられるようにという病院側の説明でした。
妻はいままで大きな怪我を何度も乗り越えてきましたが、さすがに今回はあまり元気がありません。てんかんの発作は負担が大きすぎたかもしれません。くも膜下出血後の患者にてんかんの発作がわりあい起きることは最初の手術後の後も聞いていましたが、この時期に起きるとはわかりませんでした。

すこし予兆があったといえばありました。一月十六日、顔がすこしむくんでいるのとときどき誤嚥があり、また夜の独語が多くなりすこし呂律もおかしいのでいま入院している病院の脳外科に(最初の手術をしたところ)久しぶりに行き、脳のCTや、電解質のバランスなど全部を調べてもらいました。この時の血液検査の結果は、驚くべきもので今回も診てくれている医師が「信じられない、外来に来ているどの患者よりもいいくらいだ。下垂体障害の患者のホルモンバランスが投薬もなしに安定するなんてあり得ない」と驚嘆の声を上げたのでした。

気になった誤嚥に関しては、いつも往診してくれる診療所が専門家を派遣してくれて、いろいろテストをしてもらったところ、まったく問題なしで筋肉の量も充分にありまだ若々しいので良く運動するようにとまで言ってくれました。
また、前日には往診があり、妻もにこやかに医師に応対していたのでした。

むろん希望は捨てていません。ただ、ゆるやかに死の方に歩んでいこうとする妻のそばにこれから出来るだけいようと思います。
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昨年の10月24日、子供たちが還暦の祝いだということで昔よく行った伏見区の韓国料理店に招待してくれた時の写真です。これはほんとに久しぶりの外食で、妻もとても喜んでいました。画像は娘の携帯なのであまり良くありませんが、良い表情だと思いました。

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古い写真 4 お終い [介護と日常]

今日は入浴の日だった。寒くなったので10月からシャワーだけではすまなくなり、湯船に入ってもらっている。冬の到来を想起させるこんな日は、妻は湯船で温もりを楽しんでいる。入浴用のリフトを設置するか少し考えたが、トラブルも多く、また手伝いをしてくれるベテランのヘルパーさんも、工夫しながらやってみましょうと力づけられてやってみたら案ずるより産むがやすしで、人工関節を入れる前よりもうんと楽に入浴ができるようになった。
手順はこうだ。更衣室に車椅子に乗ったままで入り着ているものを脱ぐ。つぎに浴室のシャワーチェアに座らせる。洗髪と身体をヘルパーさんが洗ってくれる。下半身を洗うときは私が正面から妻を抱えて立たせ洗い流す。浴槽にはいるときは浴槽に渡したボードにシャワーチェアから移動してヘルパーさんが浴槽の中から妻を立たせる。すぐにボードを抜いて私が後ろ側から湯船に入り支えながら湯船に浸かる。ヘルパーさんは浴槽から出てタオルを洗ったり片付けをする。その間、私の脚と足を利用して浴室の中で滑らないように安定させる。妻は安心してタオルで顔をふいたり肩に湯をかけたりして楽しむ。出るときは私が浴槽で妻を立たせヘルパーさんがボードを渡してそこに座らせる。それからシャワーチェアに座らせ、椅子のまま移動してタオルを敷いた車椅子に座らせる。それから身体をふいてヘルパーさんと協力しながら服を着せる。頭を乾かすのはヘルパーさんがやってくれる。
お風呂から上がった後はリハビリパンツを通常は穿かせる。なぜなら、車椅子に座った状態で着替えがすんでしまうからだ。ところが今日はうっかりリハビリパンツが切れていた。いったん身体をふいて上だけ着替えをすませタオルをしっかりかけて、髪を乾かしてもらいその後ベッドに移動してオムツを着けた。じっと見ていたヘルパーさんから「上手だ!」とほめられて、喜んだ一日であった。

古い写真は今回でお終い。だんだんブログを書く調子がつかめてきた。アルバムにきれいに整理されていた写真であったが、記憶にない写真ばかりを選んだ。とはいえ、この時期のことをなにも覚えていないわけではない。写真に撮られた記憶がないだけだ。ここに写っている父や母を見ながら、重なり合ってひとつの記憶となっている両親像から、断片として取り出された父や母と出会った。鮮やかであると同時にすぐに輪郭が滲みはじめてイメージとしての記憶にとけ込んでいこうとする。
ここに写っている私はまだ目一杯両親からの養分を吸収し、自分が関わっていかなければならない外の世界をまだ夢想だにしていないようだ。と書いて理解した。だから覚えていないのだと。
ネコと.jpg

この猫の記憶はない。だが、幼い頃確かにまどろみの中で自分以外の重さ、意外なほど熱い息と早い呼吸を記憶している。病気で早く死んだのだろうか、それとも何かの事故でいなくなったのだろうか。この机の記憶もない。兄の机だろうか。わずかに電気スタンドの記憶が残っている。赤いガラスがカットされていた。紙をあてるときれいな模様になって光を写した。
母と.jpgこの写真の母はずいぶん印象と違っている。こんなに角張っていなかった。ただよく見ると私の頭の上に顎を乗せているようだ。母に対してこんなに無防備に抱かれていた自分もあったのかとみょうに感慨深い。基本的には甘えんぼだった。そういえば小学生の頃はよく甘えるなと怒られていたことを思い出した(苦笑)。
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古い写真 3 [介護と日常]

母親の記憶は年とともに輪郭が曖昧になってきている。母親らしい愛情は別にして身体の弱い人。厳しくてきつい人。風景に馴染まない人といった印象がある。風景に馴染まないというのは、周り近所で世間話をしていてもいつも異和をまとっていた人だったという意味で馴染めない人だったのだろう。厳しくてきついという印象と、母に対する反抗は対になっている。まったく嫌いではなかった。嫌いではなかったけれども反抗せざるを得ない鬱々とした感情を持ち続けた。母はそんな私にずいぶん心を砕いたのではないだろうか。

見つかった写真を見て驚いたのは、母にもこんなはつらつとしたときがあったのかということだった。私もこの頃はまだ喘息もない元気な少年だったらしい。母が頭にかぶっているのは私がよくかぶせてもらっていた新聞か何かでつくった兜だそうだ。
この時の母は今の私よりも20歳以上も若いわけだが、そうとは見えない。やはり母である人にしか見えない。この辺りが不思議といえば不思議である。
野球少年.jpg

昭和29年か30年頃であろう。

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夏を越して [介護と日常]

大腿骨骨折の手術、リハビリ病院への転院、退院以降のこれまでの経過をざっくりと書いておく。退院したのは5月2日だった。退院後すぐにケアマネさんと相談し、月二回の往診の復活、それから上の入れ歯の不具合を治すために訪問歯科医を紹介してもらって治療をした。上の入れ歯を止めていた一本の歯がほとんど死んでいるということで抜歯と言われたが、退院後まだ時間が経っていないこと、体力が戻ってないことなどから抜歯以外の方法を求めた。医師は歯を歯ぐきから切断して入れ歯を作りかえることにしてくれた。これは良かった。抜歯をすると出血が伴う。妻の体力では回復に時間がかかったと思う。入れ歯はすぐに出来てきて食べる意欲を取り戻してくれた。その後口腔ケアに歯科衛生士さんに毎週来てもらっている。

5月下旬に往診を再開してくれた医師は、手術した方の足の膝と麻痺している側の足の拘縮が進んでいることを気にかけ、リハビリを継続した方がよいと判断した。自分が属している病院にすぐ電話をしてくれ、リハビリのやり直しをすることになった。これはありがたかった。妻も嫌がるそぶりを見せることなく、再度入院することをじゅうぶんに理解していたと思う。転落事故の時リハビリで入院した病院だった。
6月の中旬、主治医から話があった。拘縮の回復は極めて難しいこと。ただリハビリを本人も嫌がってはいないが、現状維持を目標に長期入院体制をとるかどうか。病院としては受け容れる準備はある。拘縮の原因は、回復期病院でのリハビリが進まなかったことがいちばんの原因であること。その原因となったのは、膀胱炎の投薬に原因があったかもしれないという。感染症のための薬が、認知症患者にあまり良くない傾向があってそれで自分たちもずいぶん痛い目に遭ってきたという。前の病院からの薬を全部検討して、結果的にすべての投薬を止めているという。妻の表情はずいぶん豊かになっていて、少ないながらも自分から話すことも多くなっていた。とりあえず、医師の話を妻に聞かせた。元に戻るのは難しいかもしれないけど、今以上悪くなることはないらしい。そのために長く入院する必要があるらしい。このまま入院するか、家に帰るか。妻は多分理解していて一瞬考え込んだが「やっぱり帰りたい」と言ったので、その足で主治医のところに行き家に連れて帰ると告げた。医師から、家での屈伸とかストレッチ方法を教えてもらい、一日に朝・夕二回はその運動をすることと言われた。それをやっていれば極端に拘縮が進むことはないとも言われた。結局入院期間は4週間だった。

夏の対策は万全を期した。節電の呼びかけはあったものの冷房は24時間態勢をとった。脱水も熱中症も、電解質のバランスも崩すことなく夏を越した。一度だけトラブルがあった。ある日オムツを替えると出血の後があった。オムツを替えた後、娘が帰ってくるのを待って見てもらうことにした。するとさらに明らかにかなりの量の出血があった。すぐに救急車を呼び病院に連れて行った。膀胱炎だった。写真を見せてもらうと、炎症部分が剥がれ落ちるように出血したとのこと。だが、心配することはなく出血が止まれば治るということだった。二三日出血が続いたが、治まった。この出血騒ぎにはそうとう動揺させられたが、妻にとっては抱えていた病から離脱するきっかけとなった。

今年もようやく夏を越した。やれやれと思う。順調だった。食事も自分で上手に箸を使って食べられるようになった。ときにはっきりとした口調で話す時もあり、驚かされることもある。朝ベッドから起こすと決まって嬉しそうに笑う。夜寝ないで車椅子に座るとすぐに寝始めるのは玉にきずだが。
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今年の夏の記憶に。障子が同じ高さで破れているのは車椅子のせい。キュウリがずいぶんたくさん収穫できた。
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出血の影響で少し元気がなかった今年の誕生日。で、ケーキを今年はチーズケーキにしてみたらこれがおいしくてビックリ。自分の誕生日にもこのケーキにしてもらった(^^ゞ
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