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春の椿事 [介護と日常]

SilverMacさんのブログにユキヤナギの写真が出ていたので、ヘルパーさんが来た昨日思い立って鴨川に行ってみた。ユキヤナギはほんの少しだけ染みのようにぽろっと場違いのように白くこぼれていただけだった。
それでも川端の歩道を歩いていると甘い香りが漂っている空気の層になんども触れる。ジンチョウゲの香りだった。

妻はようやく錯乱と体調不良を脱出できた。手足が冷たい状態は続いているがまずは落ち着いて集中力も増してきた。
尿崩症の治療薬としてデシモプレシン点鼻という薬を毎日鼻に噴霧していた。前回病院で点滴をした時からトイレに行きたがらない。かなり水分を摂っているのになかなか尿が出ない。そこでこの薬を中止して様子を見たところ翌朝に濃い尿が出た。その後もずっとこの薬を止めているが頻尿や多量の排尿もなくなった。ステロイド剤の効果のようだ。これはとても嬉しい。夜中のトイレが一度ですむし、時にはそのまま朝まで起こされずに眠れる時がある。しかもほとんどパンツや寝具を濡らすこともない。

飲み込んだ百円玉だが、出たかどうか確認できないままだ。コメントで金属探知器で調べたらというご意見もいただいたが、来週の火曜日が診察日なのでその時まで待ってみます。炎症が残っていたら耳と頭に残った人工骨の事を聞いてみようと思っている。

昨夜のこと。「お父さん、お願い。なんとかして」と悲鳴を上げたのは娘だった。
事の発端は、娘が炬燵に置いた「各問題の整理の方法 理科」というパンフレットだ。ここには学習指導要綱の内容と評価の観点が記載されている。学期末を迎えて娘は仕事の忙しさが頂点のようだ。夜9時過ぎに帰ってきて食事が終わると炬燵で作業を続けようと思ったらしいが、そのまま潜り込んで寝ようとしていた。
その時パンフレットを手にとって妻が読み始めたというわけだ。妻はそれを娘がやるべき宿題であり、試験のための勉強だと感違いしてしまった。
座り直して背筋を伸ばしパンフレットに記載されている問題番号と問題のねらい、設問のねらいを声に出して読みながら娘に質問を始めた。眠くてたまらない娘は妻の話しに合わせて「ちょっと寝たらまた起きてやるから」とか「朝早く起きてやるから」と言い訳をしていたのだが妻はそれを許さない。
「あんた、やるべきことをやれないでどうするの!起きなさい!」「そんないいかげんなことでどうするの!しっかりしなさい!起きてちゃんと座りなさい!」と叱り始めたのだ。
それは一点の曇りもない威厳に満ちた態度で、適当に笑いながら応対していた娘もだんだん困り始めた。そこで私に助けを求めたというわけだ。
私が「あんたがそんなに教育ママとは思わなかった」というと「なにを言ってるの!こんなことは教育ママとか以前の問題やろ!良い成績をとれとかあたしは言ってない!」と言下に否定して、本気モードになっている。
今日は疲れているようだから朝早く起こしてやるようにさせましょうとなだめてなんとか事なきを得た。易興奮とか易怒とかの話しに結びつけたいのではない。後天的な異常とか問題行動とかと判断される側の世界を占有しているのはまさに今属している社会規範ではないのかという妙に新鮮な発見だった。あるいはいつも自分に接している私の正確な反映かもしれしない。いずれにしても、問題のねらいや設問のねらいをはっきりとよどみなく声を出して読みながらとか、少し不思議な妻の姿だった。
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疑惑の百円玉 [介護と日常]

鳩山とか地検特捜部ってよくやるよなあ、いよいよ末期症状だななんて感想はここではどちらかというとご法度にしているのでさておき、今日は妻の通院日だった。
四日前、つまり二月二十七日にまるでコインの表と裏みたいに元気をなくしたのだったがこの間も元気がなかった。意欲もなければ食欲もなし。たった数日なのにかなり痩せた。手足も冷たい。電解質のバランスがかなり崩れているだろうことは予測できた。これがステロイドを飲む間隔を開けたことでもたらされているのか、単純に季節の変わり目に対応できなくなっているのか、だからステロイドを処方したのだから元に戻すべきと言われるのかなどと考えながら家を出た。

家を出てみると霙まじりの冷たい雨が降っていた。妻を抱えながら目の前にきたタクシーを止めて乗り込む。
病院に到着して採血に向かう。ゆっくりだがまだ充分に歩ける。手が冷たいのでなかなか針が血管を捉えられない。いまでも注射は嫌いで人がされているのを見るのも辛い。

採血後は結果が出るまでの間いつものように食事に行く。外は雨だし今回も病院の食堂に。うどんにするというので三種類あるうどんを二つずつあげて選んでもらう。三ついっぺんに候補を挙げて放っておくとまず軽く一時間はその場で固まる。まず二つの内のひとつを選んでもらって、その選んだ一つと残った一つを比較して選んでもらう。すると一番高いうどんを選んだ。妻の顔をのぞき込んでから試しにと逆の順番でもう一度選んでもらった。そうしたらやはり選んだうどんは同じく一番高いうどんだった。
全ての動作が緩慢で、うどんを食べ終わるのに一時間かかった。

診察室の前で座って順番を待つ。妻に動かないでといって少しだけ席を外す。トイレに行った。今日は動かないだろうという確信があった。戻ってみると姿が見えない。一瞬焦るが気を取り直して診察室を覗くと医師の前に妻が座っていた。ほんとうにほっとした。看護士が血圧を測っていた。血液検査の結果はひどかった。三十項目ほどのなかで正常範囲の項目がわずかに五つしかない。こんなにひどい結果を見たのは初めてだった。おまけに血圧が測れないと看護士が言う。点滴をすることになったがその前にと気になっていることを訴えた。

二月二十二日の夕方のこと。元気があふれて無敵のマリオ状態になっていた妻がティッシュを食べたりするのでその都度止めていたのだが、なにかを喉に詰めたような動きをした。その後慌てたようにまたなにかを口に入れようとするので制止して手をみると五十円玉であった。そこでテーブルに置いてある妻の財布を見ると中に入れてあったはずの百円玉がない。なぜ百円玉があったのかというとまだ銀が含有されていた頃の銀貨の百円玉が仏壇から何個か出てきて記念にと妻や子供の財布に入れたからで、その百円玉がない。妻の様子も何となくおかしいのでまず病院に問い合わせた。病院では当日に吐き気や急激に様子が変わったら対応する。引っかからなければ出てくるので大丈夫だと言われた。その日は少しだけお腹が痛いといったり、お腹を下したが翌日には元に戻り元気一杯休むこともなく過ごしていたものだから、子供達も私の考えすぎではないかといっていた。その後何度も妻のバッグやいくつもある財布(妻は自分の持っているバッグや財布、それに衣装などをいつも全部外に持っていこうとする)をつぶさに調べたが百円銀貨は出てこなかった。
そこでそれを調べてくれないかと医師に頼んだ。直ぐにレントゲンを手配してくれた。レントゲン室で技師に何時飲み込んだ疑いがあるのかと問われ、先月の二十二日だというと、それはいくらなんでももう出てるのじゃないかと言いながらレントゲン台の上に妻を横たえて動かないようにといって撮影室の外に出てからマイクで「はい、息を止めて」と指示した。それからすぐに「ええ〜!」と声を出して中に入ってきた。
私をモニターの前に連れて行って「ありましたね、百円玉。先生から説明あると思いますが、ほらここに。S字結腸のところですからここを抜けるともう直腸なので出てくると思いますが」といった。そして妻には「お母さん、いいものを溜めてるねえ。お金持ちだなあ」と声掛けした。きれいに丸く白抜きされた百円玉の影が骨盤の左上に映っていた。

診察室に戻り、すぐに点滴準備に入った。血管がなかなか見つからずまたちょっと痛がったが点滴が始まるとすぐに寝息を立て始めた。お腹の中の百円玉なんてありふれた画像かもしれないが、個人にとってはなかなか珍しいもので画像をもらえないかというと、フィルムにすると大きいし、お金もかかるので今度の診察日にモニターをカメラで撮ったらと言ってくれた。百円玉は血液検査の結果が良くない原因ではないだろうということだった。ステロイドのことはやはり言われたが、四日おきの服用の後に考えると答えた。点滴が終わり足下も少しおぼつかないので買い物もせずに帰ってきた。

帰ってからすぐにベッドに横になり寝た。夕食を準備してから起こしたがやはりまだぼうっとして食べることに集中できない。食べさせると口を開けて要求する。
んったく、うどんといい本当にあんさんは認知症?と言いたくなる。ところで電解質のバランスと共に炎症値も高かったが、これはどうも耳がおかしいのではないかと思い始めている。雨でない時に雨の音が聞こえると三日ほど前に言っていたことを思い出した。今日それを思い出していたら耳鼻科も受診させたのにとちょっと悔やんだ。これを書きながら耳の周辺を触ると痛がる。今週はもう一回病院に行くことになるかもしれない。
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古本屋で本を売った [介護と日常]

昨日。妻は朝四時半過ぎにトイレに起きた後ベッドに入ったままで、朝食の時間になっても昼食の時間になっても起きてこない。ずっとベッドの中でぼんやりとしている。ご飯も食べたくないという。体調が悪そうでもない。この間とにかくずっと忙しく動き続けていたので休養も必要だろうと思い直してときたま水を飲ませるだけでそっとしておくことにした。

こんな機会なので自分の部屋の整理を始めた。机周りをきれいにして、ちらかった紙類や本を本棚に放りこむだけだったが本棚があふれてきたのでいらない本を処分することにした。雑誌などは古紙回収に出すために紐でくくり、新書や文庫それに単行本もだすと少しだけすっきりしてきた。本棚から出した本はそれなりにきれいなのでちょっと古本屋に行って売ってみようと思い立った。仕事場に籠もったままでここ三日間ほど家に帰ってきていなかった息子が徹夜明けだといって夕方に帰ってきたので、入れ替わりに古本屋に出かけた。
文庫まで入れてしまうとかなりの量になってしまうので、とりあえず単行本と新書だけにして五十冊(追記:大きな間違い。正確には28冊内新書17冊単行本11冊。嵩があったのでもっとたくさんかと思いこんでいた)ほどを手提げ袋に入れて出かけた。最初に行った古本屋は仏教書が専門らしく若い店主がいかにも関心がなさそうに本を出して一山にしてじっと眺めて六百円だと言われた。長らく古本屋で本を売ったことがなかったので専門外とはいえその安さにちょっと驚いた。そこの若い店主と少しだけ古本事情などの話をし、奨められてブックオフに持っていくことに。
ブックオフには初めて行った。査定が終わったら呼ぶので店内でも見ていてくれと言われ、本棚を見ていて最初の古本屋での値段がよく理解できた。もう、最初と同じ値段でもここで売ってしまおうと決めた。店内放送で呼び出されたのでカウンターに行くとついた値段は千五十円。少しだけ高く値が付いた。持っていった内二冊は値が付かないのでこちらで廃棄処分にするがと言われたが、持ち帰ってきた。

昔よく世話になった古本屋があった。そこは本を質草として預かってくれた。同じ本を何度も出したり入れたりした。今でもそうなのだろうか。妻と結婚することになった時、質札を持っている私に会社の同僚の女性がそんなものを持って結婚するのはよくない、結婚祝いで私が出してあげるからといって本当にそうしてくれた。その時質に入っていた本は今も本棚にある。

二十代半ばの頃、東京に出張に行った後遊びすぎてお金がなくなった。時効だとも言えないので名は伏せるがある著者から本をいただいた。その人は小さな出版社にも関係していて、その出版社から出ていた本も三冊いただいた。それをそのまま神田の古本屋に持っていったらビックリするような値段で買ってくれた。その日また新宿で友人と飲み、翌朝京都に帰った。会社では出張に行ったまま連絡も無しに帰ってこないし妻からも行方を問う電話が入ったりしてちょっとした騒ぎだったらしい。会社でかなり怒られたがさいわい首にはならなかった。
小さな出版社の本は後に買ったが本人からいただいた本は限定本で、その後探しても手に入れることは出来なかった。思い出すと今も胸が痛い。

今回、最初の古本屋よりも高く買ってくれたブックオフで本を売ってみて感じたことは、実にあっさりした解体屋さんだということだった。目の前で形を変えずに本を鉄くずのようにスクラップにしてひと山いくらと値段をつける。原型がなくなった本のその先は想像できない。

家に帰ってきて部屋の壁や床の本を改めて眺めて、浮かない気分になった。二束三文でも仕方がないので本を片づけようと思った。以前は訪ねてきた本好きが「こんな初版本がある。これはかなり値打ちがあるんじゃないか」とか言われて、「へ〜そうなの?」と本棚を見てにんまりしたこともあったがもはやそんな時代ではなさそうだ。
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2009-02-25 [介護と日常]

別に肩の力を抜かねばならないほど書くことにこだわっているわけでもないのだが、ふと思いついたことをそのまま記事に書くという作業はどうやら私には向いていないようだ。かといって折り重なって捻れているところをほどいていくような書き方も出来そうにない。敷居が高いわけではないが、かといって低いわけでもない。ふと思いついたことしか書いてはいないのに、それを書くのに私には錘が必要で一定の水圧がかかったような状態にならないと、ふと思いついたことすら書けない。
というわけで、あっさりと前回記事で立てた目標を撤回することにしました。

妻の状態は一進一退という状態だ。電解質のバランスは良好を保っている。おまけに高かった中性脂肪も低くなってきた。これは処しがたい活発さと共に取り戻しつつある足下の確かさに関係している。もはや買い物や散歩に車椅子が必要なときはない。さらには横で腕を支えながら歩く必要すらなくなるのではないかと思えるほどだ。
先週の通院日に簡単な行動記録を持っていった。面白い傾向が見られたからだった。前々回に半錠の薬を一日おきに飲むことを提案されたが、興奮度合いが治まらないので三日間服用を見合わせた。四日目に落ち着いたので半錠を服用すると、その日は落ち着いたままだったが翌日に興奮状態になる。そして夜寝るまでそれは続く。翌日目覚めると落ち着いていて薬を服用しても状態が変わらない。だが次の日から興奮状態となり、それが規則正しく服用した日の翌日に現れることを示していた。
私には妻の症状に対するステロイド剤投与の意味がほんとうはよくわからない。脳に炎症があるという見立てだった(そのような説明だったと自分で勝手に理解しているが)。しかし、間違いなく足下はしっかりしてパーキンソン症候群のような歩行様態から離脱したし、電解質のバランスも改善した。だが、ステロイドは免疫機能を高めるのではなくて逆に機能を低下させることによって症状を緩和させるものだという学者もいる。
妻の興奮状態を活性化と見るか、抑制機能低下と見るかで評価は分かれるところだが結論としては主治医と相談の上、半錠を四日に一度服用して様子を見ることになった。
最近気にかかるのはトイレの仕方を忘れてしまう傾向があることだ。wikiで調べてみると、このホルモンは多量に分泌されると海馬を萎縮させることがあると出ていた。いずれにせよ、暖かくなったらこの薬は必要でなくなる。その時に今の足下がしっかりした状態が維持できたらいいなと都合よく期待している。なお、ステロイド剤を飲み始めた時からフェルガードは飲んでいない。ステロイド剤の服用を止めた後にまた再開するつもりでいる。

先だって、NHKのクローズアップ現代でインドネシアから日本にきた看護士が介護の仕事についている特集をやっていた。そこでふと気になったのは、インドネシアからきた看護士は認知症の老人を初めて見たのだそうだ。とても興味深かった。
妻の認知症と事例は違うが(それでも出現する状態は種々の認知症と共通するし、周辺症状の緩和や解消も同様の手法で実現する場合も多い)老人の認知症は都市に偏っているのではないか、あるいは先進国に偏っていて、「社会の順序」が突出する社会で「発見」され始めた「病気」の可能性がきわめて高いと思う。
医学的診断では間違いなく病気(認知症)であることを示しているのに、ある社会や家族では認知症と認識されないばかりか普通の老人として過不足なく生活している事例はきっと数多くあるように思う。
「自然の順序」が社会的な「順序差異」で語られた時に呆け老人は出現するというわけだ。

認知症の早期発見とかにどんな意味があるのだろう。治る病気ではない病気を早期発見することによって(そもそも病気なのかというより、生まれ老いて死ぬという当たり前の現実を異常とみなす方が異常だろう)老人や家族を不安と恐怖に貶めるだけではないのか。あげくは個人(老人)も家族も恐怖と不安に駆られて結果それを生み出す社会と、「医療」を通して密通する。かくして誰かが予測した数年後の要介護老人の人数が確保されるわけである。まったくよくできているではないか。

実はここまで書いて数日堂々巡りをしていた。もともと自分で整理できない問題に触れているからであって、立ち入る前に引き返すべきであった。この先を書くのはもう止めようと思っていたが、突然みょうな夢想に取り憑かれた。続けてみる。

こうして生み出される様々な制度は社会の先取りした恐怖の裏返しであるならば、ボケ老人の出現は逆に社会を次なる次元に押し出すための社会に内包されたポジティブな欲望の顕在化であると考えられないだろうかと。国の予測通り何年か後に300万人以上の認知症老人が社会に溢れると、もはや社会は今の社会のままではいられない。社会はすべてを隔離するのか、それとも見えない未来に向けて舵を取るのか。危険な賭かもしれないが、高齢者の最後の反乱が始まったのだ。

炬燵から目覚めてからこんなことを思いついて書いている。あながち馬鹿げた夢想ではないのではないか。
もちろん単純な読みかえで解決する問題とは思っていない。それにしても私や我々は老いや認知症を<負>のイメージで語りすぎる(その術しか持っていないかのように)。社会や制度の真の代理人であり執行人は実は介護者でもある「私」かもしれないのだ。
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診察日の一日 [介護と日常]

昨日の診察結果の話を追記2として書こうと思っていたが、ブログを始めてはや四年になろうとしているのに、あまりの記事数の少なさを少し反省して新しい記事として立てることにした。
※早期に200記事を達成するために当面週1回は記事をアップすることを目標にすることにしました(笑)。

通院日の予約時間はだいたい12時から12時30分である。診察が始まる前に血液検査の結果が出ていることが前提になっているので、血液採取から検査結果が出る約一時間を見越して病院に出かけるようにしているのだが、だいたいこれが一苦労だ。なかなか外に出られない。それは妻が外に出る段になって次から次になにかを思いついてしまうからだ。着ているものも何度も着替えようとする。
外に出かける時のある種の不安は通常誰にでもあるものだが、妻の場合放置するとこれが無限運動のようになる。ここを切断して連れ出すのはなかなか骨が折れる。デイケアへの通所を始めた頃私は5時前に起きて準備を始めてもとうとう連れ出せなかったこともあった。この苦行に遂に音を上げてデイケアへの通所は自由時間とさせてもらった。
それでも最近は以前に比べてうんと楽になっていたのだが、この日はそうさせてくれなかった。遅くても11時半には病院に着いて血液採取をするために9時前から準備を始めたのだがとうとう11時を超えても治まりそうもない。もう実力行使しかないと判断して怒号を飛び交しながら外に連れ出し、家の前にきたタクシーに乗り込む。
なんとか時間に間に合って予約機に診察券を通すと、記憶になかった予約診療が入っていた。慌てて血液採取をしてからその診療科の前に診察券を入れた。実は三週間前にあることが気になって産婦人科を受診していたのだった。その時は異常がなく胸を撫で下ろしたがついでに子宮癌検診を受けてその結果を今日の通院日に併せて聞くことになっていたのだ。待っている間も落ち着かないこと甚だしい。すぐに席を立ってウロウロしようとする。
結果は問題なし。やっぱりこの人は長生きするんだなと改めて思う。

産婦人科を終えて脳神経外科の診察室に診察券を入れに行ったら、妻がドアをノックしたものだから中から看護士さんが出てきた。聞くと今日は混んでいるから、食事をする時間は充分にあるらしいので、昼食をとるためにいったん病院の外に出てみると雨が降り始めていた。傘を持って来てなかったので仕方なく病院の食堂で食べることにした。妻はラーメン。私はカレーを注文した。期待していないので簡単に食べられるものを注文したのだが、妻が少し食べてみろと私に勧めたラーメンが意外にといえば失礼だが期待以上の味だったので驚いた。
カレーは、食べなければよかった・・。実はこの前に食べた時も同じ思いをしたのにそれをすっかり忘れていた。

診察室に戻ったのが一時過ぎ。それからが長かった。忙しくバッグの中を引っ張り出しては入れる作業を繰り返している妻も、お腹がくちたので眠くなったようだ。私も持っていっていた本を読んでいても頭に入らないので二人してそのまま寝てしまった。
起こされたのが二時半過ぎ。血液検査の結果は、極めて正常。ナトリウム値はさらに下がって142だった。その他クレアチンやクロール、尿素窒素もすべて正常範囲に収まっている。元気なはずだ。

医師に様子を伝えると妻に質問した。「miyataさん、忙しいですか。」妻は少し考えている。「今日もすることがたくさんありますか。」妻は「そうやねえ、後はお風呂に入ってご飯とかのんびりですね。」だって!

体調はあきらかにアップしている。ここは悩みどころだ。相談の結果、まだ二週間分残っている薬、現在一日半錠を二日に一回服用することで落ち着いた。
小澤勲流にいえば「ギャップは大き過ぎて困惑が激しくなれば、ケアを届けることで小さくしてさしあげねばなりません。しかし、一方でギャップは守り育てていくべきものでもあるのです。」である。妻の現在の体調を介護のために放棄する必然はどこにもない。今しばらく自分の疲労とつきあうことにした。

余談だが頭の中の爆発音のことを聞いてみた。まず「頭内爆発音症候群」という病名・診断名はないとのこと。そういう普通の言葉で意味を辿れる病名は、まずないらしい。それから頭の中で音が聞こえるという症例は普通にあって、心理的な要因ではなくて聴覚に関係していて、痙攣を押さえる薬で効果があるとのこと。次回の予約をして妻も上機嫌で診察室を出る。

病院を出ると、ほとんど雨が気にならないくらいになっていたので買い物をして帰ってきた。買ったものは巻きずしと鰯。それからお漬け物。帰宅してからも家の中をドタバタしていたが、もう放置するのみ。ときたま「さっきあんたに渡した黄色い紙と赤いバッグはどこにやった?」とか「さっき渡したノートを出して」とか言ってくるのだが適当に無視。夜になり、夕食がすむと落ち着いた。息子の彼女が豆を持ってきたので豆まきをするという番外編まであって今日の一日が終わった。一時過ぎにトイレに連れて行って、そのままこの記事を書いている。
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朝の買い物 [介護と日常]

春のような雨が降ったかとおもうと、雨上がりには足下から全身を凍らせるかのような寒さが上がってくる。極寒の季節はしかし同時に春を呼ぶ季節でもある。いつも訪問するブログには、こんなにも寒いのにきれいな花々が彩りはじめた。

妻の元気良さは一向に治まらない。医師に相談した二週間前、ステロイド剤は一日半錠になったが、治まらない。
かなり疲労が溜まってきて、とうとう昨夜は睡魔に耐えきれず妻を子供達に任せて寝た。午前三時過ぎに目覚めてインスタントコーヒーを飲んでいると妻がご機嫌な顔で起きてきた。洗濯、弁当、魚屋、絵付け・・・まだまだ一杯次から次に閃く思い出したことに翻弄されるようにドタバタ家の中を歩き回る。野放図な情報伝達物質が間歇的に頭内を駆けめぐって暴走している。
いつのまにか身の回り一切を持ち歩くホームレスのようになって膨れあがっている。睡眠が満たされると苛立ちもなくなって、その格好に思わず笑いが出る。妻も屈託のない笑顔で返す。
外に出かけたいようなので、まだ夜も明けていない外に買い物に出かけた。コンビニで妻が選んだのはカップメンのてんぷら蕎麦。家に帰って二人でそれを食べた。おいしかった・・。かなり早い朝食だった。

年が明けてから、ずっとこんな毎日が続いていてかなり疲れた。
今日は通院日。薬を止めてもらおうと思っている。

※追記:今日の「報道ステーション」(古館伊知郎キャスター)に伝説の白球有情の方が出られるらしい。30年前の「箕島高校 vs. 星稜高校」戦(延長18回戦)の特集でだそうだ。
なぜ茶柱なのかよくわからないけど・・。
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書き忘れていたことなど [介護と日常]

年末のことで書き忘れていたことがあった。
診てもらっていたちょっとかわいい女医(糖尿病と甲状腺機能障害)が病院を変わることになった。
12月26日。年内最後の診療日に予約を取っていた私はいつものようにかなり多めの採血をされた(なぜか普通の人と同じ量だと分析できない項目があるらしく、倍くらいの量を採血される)。結果が出るまでの間、つまり予約時間までの間お茶を飲みながら手持ちの本を読んだり立派な、池のある庭を散歩したりしながら過ごし時間が来ると診察室の前で名前が呼ばれるのを待った。
名前を呼ばれて中にはいると女医は眉間にしわを寄せながら私の検査報告書の画面に見入っている。前の椅子に座ってその様子を黙って見ていた。
やがて私の方を向くと、血糖値はHbA1cも良いが甲状腺ホルモンの値がまた低くなっているのと、今回初めて中性脂肪が基準値を超えているのが気にかかると言われた。それから昨夜の食事の事を聞かれた。確かクリスマスでもあったのでケーキとかチキンのから揚げとかを食べた事を伝えると得心したように頷いて「そうか、そのせいね。では気にしないことにしておきましょう」といった上で、甲状腺ホルモンについては今の薬の分量の見直しは次回まで様子を見ることにするとのこと。年末の挨拶をして帰ろうかと思った矢先に「実は今日、この病院での診察が最後になるんです。大阪の方の病院変わることになりました。どうもお世話になりました。miyataさんのことは院長先生が糖尿の専門ですから引き継いで診ていただきます。」と告げられた。院長先生は知らないが、そうと聞いた途端になぜか体力測定の時の医師の顔が浮かんでゲショッとした。私はそれはとても残念だ。糖尿はさておき甲状腺の異常を見つけてくれてとても助かった。ずっと診て欲しいのだが仕方がないというと女医はちょっといたずらっぽい笑顔で「では追いかけて来てくれますか?」といったのだった。
年甲斐もなくドキッとした。そうしたいのは山々だが遠すぎますねと答えながら動揺を見透かされたような恥ずかしさを感じつつ良いお年をと言葉を残して診察室を出た。こういうときにせめて見透かされることなく年齢にふさわしい軽妙な受け答えができればよいのにと思いながら愚鈍な自分が重たかった。

神戸や大阪ほど規模は大きくないが今住んでいるところのすぐ近くに恵美須神社がある(16日訂正)。十日戎の時には屋台と人で埋まる。歩いても今の妻ならギリギリ往復できるくらいの距離なので、さほど人が多くないだろう八日の宵恵美須に二人で出かけた。それでもかなりの人出だった。二人でおみくじを引いた。妻は大吉で私は中吉だった。そして行列に並んで参拝してきた。
帰り道、妻が「あ〜、しまった〜」と声を上げた。どうしたのかと聞くと「お釣りをもらってくるのを忘れた」といかにも失敗したような顔をして神社の方に戻りかけた。私は思わず吹き出した。神様からお釣りをもらい忘れたなんて聞いたことがないではないか。笑いながら「仕方ないな。今から戻ると人で大変だから、来年までおいといたら」というと諦めきれない様子で「来年までは長すぎるわ。しまったなあ。けどしょうがないか。この人ではなあ」といって諦めた。気になっていくらお釣りがあったのかと聞くと「25円やと思うけど」ということであった。おかしくて家まで笑い通しだった。妻は不満そうに少しよろけながらも無事に家までたどり着いたのだった。

ステロイド剤を飲み始めて一ヶ月を過ぎた。今は最初の薬より軽いものに変更になっているが、この季節、ダメージに弱いから続けるという。しかし、最近非常にうるさい。学校に行くと言いはじめると聞かないし、今日はデイケアから帰ってきた後、おやつにお餅を焼いてあげようかと私が言ったのだがそれが引き金になって「忘れてた!お餅を焼いている途中だから、早くひっくり返さなくては」と言いはじめてからが大変だった。箸を持ったまま玄関までおり、お餅を焼いているところを探し回って家の周りを一周した。夜はいったんベッドにはいるとすぐに寝てくれるし途中でトイレに起きた後もおとなしくベッドに戻ってくれるので助かるが朝からとにかくやる気満々で振り回されている。足下はどんどんしっかりしてきているので(車椅子はもう返そうかと思い始めている)薬の影響としか思えない。来週の診察日に薬の中止を相談してみようと思う。
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2009年 雑記事始め [介護と日常]

年が明けました。今年もよろしくお願いします。

年末年始のこと。
大晦日は、何十年ぶりかで紅白を炬燵に座って見た。その前には晦日そばを食べた。
除夜の鐘を聞きながら、慌てて妻をお風呂に入れてそれから家族みんながお風呂に入ってから、お屠蘇で新年を迎えた。土佐鶴の新酒をいただいていたのでそれをお燗にして飲んだ。
妻は顔が真っ赤になるくらいお猪口でお酒を何杯も飲んだ。テレビで朝まで生テレビが始まった頃、妻はベッドで。私と娘は炬燵の中で寝た。

元日の朝。お節とお雑煮を食べながら家でゴロゴロと時間を過ごし、午後三時過ぎになって妻とぶらっと表に散歩に出た。夕食もお節と雑煮と少しのお酒。ちなみに雑煮は具だくさんのすまし雑煮。息子は夕食後仕事場に行く。穏やかな元日だった。

二日。朝はお節に雑煮。息子は彼女の家に挨拶に出かけた。昼食は娘と三人でお節に白味噌雑煮。娘は夜バスで東京に遊びに行く予定。夕方、一緒に行く友人が時間つぶしにわが家にやってくる。なかなか魅力的な美人だった。以前会社にいた男が、辞めて以来もう十数年になるが毎年年始の挨拶にやってくる。彼は東京で会社を経営しているのだが実家が京都にあるので帰省のついでに大学の恩師や先輩への挨拶をすましてから最後にわが家にやってくるのだ。律儀なのか人なつっこいのか未だに良くわからない男だ。わが家では倒れる前の女房を含めて人気者だ。お節を肴に酒盛りが始まった。話すこともやっぱり未だに良くわからない。去年はサッカーの話だった。その前は地域活性化の話だったような記憶がある。サッカーは大学のサッカー部出身であり仕事でも関わっているらしいので話題として出るのはまだ理解できるが、今年はとつぜん泉鏡花が彼の主題だった。なにが言いたいのかほとんど理解できない。途中でお前は文化人になりたいのか文学を語りたいのかどっちなんだと嫌みを言いはじめところで私は終了したようだ。

三日。少し二日酔いの感じで目が冷めた。台所を見ると一升瓶が二本。ワインが二本、ビールが6缶並べてあった。あまり記憶がない。娘は東京に出かけていない。妻を起こして朝ご飯の準備をしていると息子が起きてきた。昨夜のうちに帰っていたらしい。彼女の家から生駒の地酒をもらってきたということで、また少しお酒を飲む。土佐の酒はさっぱりしているが生駒の酒は甘かった。お昼頃から妻と散歩に出かけ、珈琲を飲んだり無くなった洗剤を求めたりと簡単な買い物をして、夕食には水炊きをしていったんお節から離れる。息子は食事の後、仕事場に行き妻と二人で時間を過ごす。ボクシングを見たり、たけしの番組を見たり、妻を入浴させたりしながら夜は更けていき、三が日は終わった。

正月の間ブログを時々巡回しながら新年の挨拶を書き込んだりしていたが、Mさんのブログで指名されているのを発見して驚く。慌ててリンク先のブログを何度も読んだのだが、ごめんなさい。私もどう理解して良いのかわからなかった。いろんなレベルのことをごった煮にして書いているので、良くわからない。というか私にとってとても苦手なタイプで、どの記事を読んでも最初の印象から逃れられない。使命感を持って活動している人の嫌な面が立ち上がってくる、なんだか典型の側に近い人の印象しか持てない。システムや制度の中で自分の「良心」を訴える善意の人だろうが、とても勘違いの落差が大きな人だと思う。それにちょっと度し難い傲慢さも。出会いたくない人。
「良い支援」なんてものはなく個々にとって「望む支援」だけがあり、もちろん「良い医療」なんてのもあるわけもなく個々にとって「藪医者か普通の医者、それにすぐれた医者」がいるだけだ。
とりあえず、今私たちに出来ることといえば必要の度合いに従って怠りなく今の制度に分けいり「望む介護・医療・支援」を最大享受できる方法を見出すしかない。その時々で社会化する問題に突き当たると思うがそれはまた別の次元でということになるのではないだろうか。
※Mさん、「侃侃」届きました。どうもありがとうございました。走行中の車の火災記事を読んで驚きました。無事でなによりです。

四日。朝と昼食を兼ねて白味噌雑煮を食べお節を片付ける。夕食は年末に送ってもらった魚の干ものなどを焼いて、残ったなますや数の子を添えてあっさりとすませる。なんだかほっとすると息子は言ってから夕食後また仕事場に出かけた。
夜の八時過ぎ、寺の住職をしている友人から久しぶりに電話がかかってくる。何事かと思ったが今夜吉本隆明の特番があるという知らせだった。
十時前、炬燵で横になっていた妻に「吉本隆明さんがテレビに出るらしいから、その前にトイレをすませておこうか」と声をかけた。素直に炬燵から出たのは良かったのだが、トイレに入ってすぐに出てきて「ちょっとトイレに行ってくる」というのが始まった。もう一カ所のトイレに連れて行くがまたすぐに出てきてトイレに行くという。実はこれは良くあるパターン。トイレをする仕方がわからなくなるのだ。
もう十時は過ぎて番組は始まっていたが妻はトイレに行くと言ってはトイレから出てきて押し入れや三階の納戸を開けたりして落ち着かない。こういう巡り合わせかなと半分諦めた頃、ようやくトイレ騒動は収まった。

吉本隆明の講演を聴く機会は何度もあったはずだが一度も聴いたことがない。以前にいた会社で86年頃講演会を企画したことがあった(提案は私だった)。都合で交渉は別の人物が行った。実は会うのが怖かったというのが真相である。企画した本人が行くのが筋だろうとずいぶん責められたが、都合良く?指定されたその日は外せない用事があった。ちょうどその頃社内分社のような形で会社の外に出ていたので、自分が行けない理由は十分にあった。講演の日も私はほかの仕事でいけなかった。映像で見る吉本隆明はこれで二度目になる。以前三好十郎の特集で短い時間だったが出ているのを見た。つっかかりながら繰り返し繰り返し言葉を折り重ねていく話し方がとても印象的だった。
この放送についてはすでにMさんの感動的な記事があげられている。南無さんの短い記事も心に響くものがあった。ほかに付け加える感想はない。

が、二三書いておきたくなった。
吉本隆明を初めて読んだのは高校二年の時だった。吉本隆明全著作集13「政治思想評論集」を兄からもらった。注文していた書店の手違いで二冊配達されていたうちの一冊だった。兄から返品しようと思っていたがちょっと早いかもしれないけど読んでみたらと渡された。まっさらな本を土産に高知に帰った。喫煙と、ある事件を起こして退寮処分となり停学中だった。家で夢中になって読んでいると父がその本を見て「戦争責任を追及した奴だな。あれは納得できなかった」と言ってギョッとしたことをはっきり覚えている。高等小学校しか出ていなくて、普段オール讀物くらいしか読まない父親の口からそんな言葉が出てくるなんて思いも寄らなかった。この本は漫画以外で読了後に自分の名前を記した初めての本となった。

全共闘世代の教祖とか、下の世代が団塊の世代と吉本をひとくくりにして揶揄したりするのをたまに見かけるが私の印象はちょっと違っている。吉本は団塊世代や全共闘世代にはそんなに読まれていなかったのではないか。むしろ68年から70年当時広範な影響力を持っていたのはベ平連という運動体であり小田実や鶴見俊輔だったのではないかという印象がある。吉本は当時の全共闘運動のことを思想的にも別にたいした運動じゃないと否定していた記憶の方が鮮明だ。ところが鶴見との対談では鶴見は逆のことを言っている(記憶によれば)。学生と話をしているとまるで吉本と論争しているようだと。

ある詩人のブログを読んでいると、団塊の世代の蔵書のことが書いてあった。団塊世代の蔵書はまったく値がつかないのだそうだ。団塊の世代しか読まない吉本隆明を中心とした思想書や社会科学系の本ばかりで、人口が多いわりに価値観が画一化していて同じ本が大量にあって希少価値もないとずいぶん意地悪な事が書いてあった。これはほんとうだろうか。古書店主との話ということだったので、売れないというのは(古書店が仕入れない)事実かも知れないが、私の頃の大学進学率は20パーセントを越えたくらいだったはずでしかもそういう本を買って読んでいたのは一割もいなかったのではないか。
※気になっていまちょっと簡単に計算してみると、たしかにかなりの部数になるような気がする。やはり古本屋では売れないのかもしれない(苦笑)。だけどそんなことをことさら書かなくてもそれだけ今も昔も市場が狭いということであって、それはそのまま団塊の世代も含めた市場における自分の本の売れ行きにも関わっていると思うのだが。骨董好きらしいこの詩人、高麗白磁と李朝白磁の盃の写真が載った記事を読んでいると、横から写真を見た息子が「贋作は完璧な姿をしているが本物はどこか欠けている」と言った。誰の言葉か知らないがこの感想をちょっと伝えたい誘惑にかられる。ま、本物であることを祈る。

結婚を間近に控えた頃、試行の定期購読を止めた。お金がなかったというのが一番の理由だった。結婚をして住所も変わり、長女が生まれて一段落した頃、読みたい作品があってバックナンバーの問い合わせをした。するとすぐにはがきが帰ってきて、あなたは以前どこそこの住所で定期購読をしてくれていたmiyataさんではないか。残念だがその連載が掲載されている号はすでに在庫がない。必要なら国会図書館に毎号寄贈しているので複写できるはずだというようなことが書いてあった。これは奥さんの字だろうかと思いながら机の上に置き、なんだかそのとき自分がとても恥ずかしく、知らせてくれたお礼の返事すら書けなかった。後年になって勤めていた会社で講演会を催したときに吉本が会社の役員に請われて残していった色紙を後で見て、ああ、あの時はがきを書いて送ってくれたのは吉本隆明本人だったんだということを知った。

今日は妻の年明け最初の通院日。おとなしく出かけてくれるといいのだが。いや、きっと大丈夫だろう。
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2008年大晦日の備忘録 [介護と日常]

ここ数日、年末とは思えないほど暖かい日が続いた。さすがに今日は冷え込んでいる。
今年を振り返って、とても大きな出来事がいくつも重なったのにさしたる感慨も湧いてこない。年が変わるまでにはたして家の掃除が終わるかどうか、例年通りの年越しになりそうだ。

数日前。トイレに入っていると「肉まんが食べたいよ〜」というセリフが突然頭によぎった。下の子と一緒に読んでいた漫画、ドラゴンボールの主人公の子供、孫悟飯がピッコロのもとで修行することになった時、切り立った塔のような山の上で膝を抱えて泣きながらつぶやいたセリフだった。買いに出る気はなく、娘をたきつけて中華饅頭を作ることにした。幸い賞味期限切れのドライイーストも見つかった。小麦粉を発酵させて生地を作り、ミンチと野菜を捏ねて具を作り蒸かす。見栄えは悪かったし皮の美味しさもなかったが、自家製中華まんはあっという間に皆の胃袋に消えた。

やはり数日前。トイレに入っていると玄関のチャイムが鳴った。どうしてこういうときに限ってとおもいながら、出て行くと宅配便だった。そしてまたトイレに入っているときにチャイムが鳴った。宅配便だった。またまたトイレに入っているとチャイムが鳴った。また宅配便だった。ゆの酢にお酒。田舎鯖寿司。幾種類もの魚の干もの。今度こそはとトイレに落ち着き、ありがたさを噛みしめた。クリスマスイブにいただいた贈り物や、お歳暮。なにもお返しできない切なさと喜びはいつも同居している。

先日。トイレに入っていると、突然以前に観た映画の謎が解けた。ような気がした。
殯(もがり)の森・河瀬直美監督
あの主役を演じた認知症の男性は、実は認知症を患ったお年寄りたちの精神世界の比喩として映像に躍り出た影だった。
そう考えると、とてもわかりやすい映画であることに気がついた。
確信に導かれて彷徨する記憶。森にたどり着く困難や、たどり着きいだかれる(れたい)存在。混乱、拒絶、遊び、喜び。
その内面のドラマに懸命に付き添おうとする介護福祉士の若い女性。つまりそういう映画だった。認知症に対する監督の視点を明確にしている映画だと思える。認知症患者が時に見せる行動障害などの諸症状に拘泥されない少し大きな枠組みの視点を持った映画でもあった。
最初に観た印象でとてもひどい感想をブログに書き込んだ。ろくでもない感想だった。
つまらない難癖をつけてしまった。

今朝。トイレに入るときドアを閉めてしまった。トイレの中で聞き耳を立てているとやはりというか、ごそっとという感じで妻が動き始めるのがわかった。中から声をかけると、こそっとドアを開けて「ああ、あんたここにいたん?さっきから呼んでいるのに返事もないしどこかに行ったのかと思った」と言った。これは彼女の嘘である。余計な奴の姿が見えない今のうちに、やるべき事をやっておこうかと妻は思ったのである(きっと)。この互いの微妙な差の中に、妻と妻を取りまく私たち家族の日常生活がある。相監視状態というわけである(笑)。だけど双方向ではなく、両者の必然的な非対称性が私にとっても彼女にとっても問題であり、エネルギーの源でもあるように思う。

そんなわけで、今年も終わるようです。そして新年がきっとわが家にも訪れるのだろうと短い未来予測を確信しています。
そして、どんな未来になろうとも、それは受け入れるのみです。だけど這いつくばってもとは、ちっとも思ってはいません。
ごく少数の読者の皆さん、旧年中はいろいろとお世話になり、ありがとうございました。年が明けると、またすぐにブログの更新をしていると思います。年が明けても、またよろしくお願いします。

※追伸:前回の記事で皆さんにご心配をおかけしましたが、妻はあれからうんと落ち着きました。無事に年を越せそうです。


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冬の徒然 5 滅多なことは書くものではないという話し [介護と日常]

滅多なことは書くもんじゃないと思い知らされた。
「中期の安定期」なんてものはなかった。
前回の記事を書いてから符合をあわせるように妻が狂い始めた。いちど歯ブラシを手渡すと終わらない歯磨きに洗顔。介助を拒否し始めて呼びかけにも反応しない。一日、一日とエスカレートしていく不穏な行動は臨界を越えて、次々と未体験の行動を生み出していく。ついには早朝トイレに閉じこもり、なんとかドアを開けるとそこには全裸でトイレの水を頭からかぶっている妻の姿があった。

その日は定期的な通院日の日だった。血液検査の結果は血中ナトリウム濃度が基準値をかなりオーバーしていた。この時期、この結果は少し身体の状況が変わったことを意味する。脱水とも密接に関わっているこの高ナトリウム血症は脳のダメージによってもたらされている。尿崩症も、ときに季節の変わり目で出てくる低体温も同根である。

今までは対症療法的にデスモプレシンという抗利尿ホルモンを分泌させる薬で尿崩症を抑え、脱水による高ナトリウム血症をいわば間接的に押さえ込む方向で対処してきた。
この薬のデメリットは、「水中毒」を起こしやすいことで、水分摂取が多すぎるとその水分を体内にため込んで「低ナトリウム血症」を起こしやすいことである。水分摂取が足りないと脱水となり、摂りすぎると水中毒となるいわば両刃の剣(12.18訂正。お恥ずかしい)であった。しかも脳の機能障害が解消されない限りこの綱渡りから逃れられない。
NHKのためしてガッテンで取り上げられて話題になった「抑肝散」という漢方薬を今まで採用しなかったのはこのような事情があった。

主治医は、今回の状態に対して新たな方針を出した。それは視床の障害に対する治療としてのステロイド剤の投与である。これもある意味高リスクの治療となる。だが、視床自体に炎症があれば尿崩症そのものに効果が出る可能性もある。短期投与となるがこの間妻の行動に細心の注意を払わなければならない。

狂乱状態になった朝、妻をトイレから出し、部屋中の暖房を全開にして浴槽に湯を張る。衣服を着せてもすぐに脱ぎ捨て裸であることもかまわずベランダに出る。引き戻しても「お風呂、お風呂」と家中を彷徨う。浴槽に湯が溜まるまでバスタオルをかぶせてベッドに押さえつけた。起きあがろうとするのを押さえるのに頭を掴んだ。手のひらに人工骨の破片を排出した頭蓋の割れ目を感じて思わず手を離した。ふとこれは身体の異常を知らせるシグナルなのだと気づく。自分もこの混乱に飲み込まれようとしていたのだ。
風呂場に連れて行く。妻は素っ頓狂な声で「なに〜、ここはお風呂場やんか。なんでこんな時にお風呂に入るの〜」と言った。お湯をザバッと体にかけると悲鳴を上げた。そして、諦めたように湯船に浸かると気持ちよさそうに目を閉じた。
風呂を出てから病院に出かけるまで、それはもう時間がかかったが血液検査結果が出るまでの間食事はしっかりと食べ、点滴が始まると直ぐに熟睡状態になった。

昨日の日曜日。娘に時間をもらって少し外に出た。喫茶店でしばらくぼんやりしていると疲れが溶けていくようであった。夜になると妻はようやく少し落ち着きを取り戻した。トイレに起きてもすぐにベッドに入って寝息を立てている。私はもうこのまま起きていようと思う。今日、運がよければ夜に妻と共に寝られるだろう。
今朝の日の出は6時58分であるらしい。これから少し早い朝食の準備である。
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冬の徒然 4 小澤勲をきっかけに [介護と日常]

 痴呆の人にだけギャップをまったくなくそう、プラスアルファはいらない、という考え方は間違っています。本人の「やりたいこと」を潰し、「現実の自分」を突きつけて、周辺症状をなくそうとすれば、結果的には意欲を失い、笑顔をなくしてしまった生きる屍のような人をつくるだけです。このような行為をケアと呼ぶべきではありません。向精神薬をこのような目的で使用するのも同罪です。
 繰り返します。ギャップは大き過ぎて困惑が激しくなれば、ケアを届けることで小さくしてさしあげねばなりません。しかし、一方でギャップは守り育てていくべきものでもあるのです。
「物語としての痴呆ケア」ー小澤勲・土本亜理子著/三輪書店刊

小澤勲が語ってきたケアの特徴をよくあらわしている。彼がその奔流に身を置いた「反精神医療」の<運動>や「自閉症」へのアプローチを私は知らない。ただ小澤は認知症について語ったり書いた本の中で自分の軌跡に触れている。
たまたま近所の本屋で買って読んだ村瀬学の「自閉症ーこれまでの見解に異議あり!」(ちくま新書)に当時村瀬が小澤が専門誌に連載していた自閉症論を注目しつつ読んでいたことに触れていて、そうだったんだと合点した。

今では私自身の混乱だったといえるが嵐のような日々に翻弄されている頃(そりゃあもう、何でもありでそこら中への排尿や排便、弄便は当たり前で深夜逆転に徘徊、異食。その他一括りにしての行動障害など雨あられ)、どこかに光明を見いだしたくて関連の本を貪るように読んでいた。その時に出会った一冊が小澤勲の「痴呆を生きるということ」(岩波新書)だった。これを読んだ後、何冊かの医学的な専門書を除いて認知症Q&A的なノウハウ本は古新聞とともに処分した。
なんとなく脳の器質的な障害に答えを求めるよりも関係の障害ではないかとおぼろげながら思い始めていた頃だったので小澤の本との出会いはこと介護に関しては大きな勇気を与えてくれた。(ノウハウ本を捨てた変わりに思い立って段ボールに詰め込んで納戸に放り込んでいた70年から80年頃の本を何冊か引っ張り出してきて再読した中に前出の村瀬学の「初期心的現象の世界」があった)

こうした経緯がなかったら、私はきっと何人もの専門家と呼ばれる医師を求め歩き(ドクターショッピング)、当たるも八卦の世界を彷徨いながら、妻をほんとうの廃人にしてしまっていたかもしれない。あるいはその逆に、もっと早く最適の解にたどり着いて今よりうんと快適な生活を妻と共に営んでいたかもしれない。
だけど今の脳外科の主治医による客観的な身体的条件の診療と処置(疑問が見つかればただちに婦人科やその他の科に回してくれる)、介護サービスを使った在宅介護の方向は、今までの生活から大きな変化を余儀なくされたが、まあ悪くないと思っている。

小澤はある本の中で介護家族から反発をされたことを語っていた。24時間ずっと一緒に生活する家族の身になってみれば、先生の言うことはきれいごとだと叱られた。小澤は黙って夫を介護するその女性の話を聞いていた。するとその女性は「ああ、すっきりしました。聞いてくれてありがとう」といって笑みを浮かべて帰って行ったという(かなり不確かな記憶です)。小澤の目線は老練な(と確信する)精神科医として日々介護に疲れ果てている家族の深いストレスにも抜かりなくとどいていた。

実は私は、よくある悩み相談などで世界中の不幸を背負ったように自分の現状を嘆き悲しむ相談者に対して、皆がよってたかって、あなたはよく頑張ったとかかばい立て、慰める様は反射的に嫌悪感を感じていた。だから、京都から始まったという「家族の会」などには参加しなかったし、避けていたともいえる。だが、この小澤の挿話を読んだとき、わかった気がした。みんな弱くて嘆いているのではない。もっとしたたかに現実に向き合っているんだと。嘆き悲しみで終わるのではなく、嘆き悲しんだあと表情を一変させ戦場に飛び込んでいっているんだということが。

小澤の目線は戦場に向かう戦士を支えるだけではなくそこを越えた先にあると私は思っている。そこは戦場であってはならないからだ。この本の中で、講演したクリスティーン・ブライデンの言葉を小澤は引いている。
 これを受けて(「介護はほんの一部で、ごく普通に二人の生活を楽しんでいるのですよ」という夫のポールの言葉)クリスティーンさんは、「介護漬けにしないで下さい」「痴呆を恐れ、自分の嘆きの犠牲にして(介護者のー引用者注)、私たちを一人きりにしないでください」と訴えられ、「自分の中にある真珠を探しながら、ゆっくりと新しい人生の門出に立ちましょう。そうできれば、私たちはもはや被害者ではなく、生存者(サバイバー)なのです。新たに見つけた真珠を糸に通して、人生の首飾りをいっしょにつくりましょう」と講演を結ばれました。拍手がしばらく鳴りやみませんでした。
 彼女の基本的主張は、「従来の痴呆に対する見方は、健常者が外側から見たものである。それは、痴呆を病む者からすると、不満が多く、かなりズレている!痴呆を病む者の思い、感じ方を知って、かかわってください」ということでしょう。
私はこのクリスティーンさんが語ったという「痴呆を恐れ、自分の嘆きの犠牲にして」という箇所で正直ギクッとしたことを覚えている。

私が妻との生活をなんとかやっていけるのではないかと思えるようになるのに妻が退院して家に戻ってきてから丸二年は優にかかった。振り返ると無駄な時間だった。その日をなんとかやり過ごすのにブログを始めたりしたものの自分があまりにも無防備だったこと、無知だったことを悔やむとともに腹立ちを感じた。この国の認知症治療と制度が駄目だなと感じたのは、患者本人だけではなく介護者に対するサポートが医療の中にほとんど皆無だということだ。このことは以前記事に書いた。認知症の発見と共に介護者(家族)への医療的な観点も含めたサポートはただちに始められなければならない。この考えは今も間違っているとは思っていない。これが実現できれば間違いなく、介護家族の混乱と負担は白紙スタートより5割は軽減する。この事がもたらす実りは本人にも家族介護者にも、そして社会にも想像以上に大きいのではないかと想像する。

周辺症状に惑わされる時期を越え、おそらく中期の安定期に私たちの生活は入っていると思う。中核症状の快癒は望めない現状、ある意味ほんとうの介護の意味を問う生活が始まる。いつかクリスティーン夫妻のように、「なに、普通の生活を楽しんでるだけだよ」と果たして言えるのか、言えないのか。なにも言えなかったにしても、それはそんなものだろうと考える。(言えたら、カッコいいですね)

※ NHK100年インタビュー 河合 雅雄 は面白かった。
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冬の徒然 3 テレビあれこれと、ある精神科医の死 [介護と日常]

●昨夜は久しぶりに三時過ぎまで、それから早朝に起き出してドタバタと騒がしかった。トイレも問題がなかったので理由がわからない。本人が語る理由は、それほど多くない。
・「お寺さんが来るから準備をする」
・「学校に行かなくてはいけない(この場合、自分のことの場合もあるし子供達のこともある。いろいろバリエーションがあるが「学校」が一つのキーワードである)」
・「窯を見てこなければいけない」
・「お客さんが来るから用意をしなくてはいけない(この場合はお寺さんのバリエーションにはいるかもしれない)」
・「おばあちゃん(母のこと)を見てこなければ(この場合、伯母や兄弟の場合もあるし兄弟の子どもの場合もある。ちなみに不思議とおじいちゃんは出てこない。それからおばあちゃんと伯母はすでにこの世にいない)」くらい。
だいたいこのパターンで騒動が始まる。いきなり切迫した状況に突入する。止められない。話につき合おうとしても話すのももどかしいぐらいの状態でタンスをひっくり返したり家の中をかけずり回る。それから目についたものを手当たり次第に手に取ったり、ガスに火をつけようとしたりする。今朝は起きてきた娘が大声で追いかける。朝10時過ぎになんとか炬燵に座らせたが、足が氷のように冷たくなっているのを発見する。これは以前にもあって、季節の変わり目には頻発するが今までは身体を動かすことが出来なくなるので見逃していた。動き回るのは身体を温めようとする自衛行動だったかもしれない。炬燵に入ってしばらくしてようやく落ち着いた。すでにお昼を過ぎていた。ただ、これも確証がない。というのは先ほどまた炬燵から抜け出して「窯を」と動き始めたからだ(午後三時過ぎ)。このドタバタはなかなかすさまじい。まさに暴風だ。この時の動きは素早くて、普段の立ち上がるのにきっかけ介助が必要だったり、歩くときの支えが必要な姿は想像できない。つまり、普通に動けるんだよね。なにが邪魔してるのかなあ。

NHK「杉本家 歳中覚の日々ー京の町家 200年のレシピ」
興味深く見た。杉本家は四条西洞院を上がった(北に行く)大きな町屋で京都市の指定有形文化財になっている。町家としてはとにかくとびっきり大きい。現在の建物は幕末の騒動で焼けた後明治三年に再建されたものらしい。老舗の呉服屋さん跡だ。200年前から代々受け継がれてきたレシピがあり、またそれぞれの時代の当代の女将さんがそれに書き加えることができる。そのレシピはそのまま「杉本家」の家訓を反映するもののように思えるものだった。例えば毎日の食事は「朝夕茶漬け・香の物。昼は一汁一菜」とかでちょっとびっくり。季節や祭りの細かい段取りなど、現在でもおおむねその通りに営まれているというのが驚く。現在の当主が、家を手放すかの決断を強いられた時に市に文化財として登録し、財団が管理する形にして実際に杉本家の人々が今も生活しながら家を守っている。この家を守るというのが建物や土地を守るというだけではなく、四季折々の生活そのもの(つまり文化ということなんでしょうね)を守るということである。で、番組で杉本家の現在の当主が出てきて驚いた。仏文学者の杉本秀太郎だった。ずいぶん前だが下駄履きに洗いざらしのシャツ、腰には手ぬぐいをぶら下げて手には風呂敷包みという、およそフランス文学者とは思えぬ風情で歩いている姿を何度かみかけたことがある。あの姿はまさに京都町屋の生活文化を背負った(仏文より重い?)証明のような姿だったんだなあ。番組から察するにその頃というのは家を手放すかという大変な決断を強いられていた頃のようだ。次の女将である次女の話を聞いていて「家」を残すために自分が生まれてきたのだと意味を見いだす、ある意味個人にとっては大きな断念と決断を「家」がもたらすことが出来ることにいろいろ考えることがあった。

NHK プロフェッショナル「介護はファンタジー・認知症介護」
面白く見られた。認知症になってグループホームに入所しているお年寄りの笑顔を見るとホッとする。大谷さんという介護の専門家が語る内容は、私にとっては別段これといって新しい発見があったわけではない。ただ私にとって興味深かったのは、どうして介護を「職」として選びそれをある意味自己実現の場として深化させることが出来るのかということだった。「ファンタジーでしょ」という彼女の言葉だけでは理解も納得もできなかった。以前我が家に来ていたヘルパーさんは、自分の親の介護がこの仕事につくきっかけだったと言った。私は妻とともに生活することになんの躊躇もないが、見知らぬ人の世話をすることは想像できない。ヘルパーさん達(今のヘルパーさんではない)の妻への接し方を見ていてこの人達はなにか別の次元にいる進化した人達ではないだろうかと思ったことがある。私には出来ない。というか、それが義務ならやるが(きっと努力もすると思うが)妻と同じように他の人に接する自信はまったくない。
逆に今来ているヘルパーさん達は一人を除いて理解しやすいというか、職業として割り切っているドライさがあり、それはそれでこちらの気も楽な面がある。ただし期待もない。
体験的に思うことは、介護の大変さは距離感に比例する。時間ではない。介護家族が悩むのはおそらくこの距離感が掴めないことに起因するのではないかと思う。行動障害(と番組では言っていた)の原因が不安だとすると、それに対するこちらの動揺はその不安を写す鏡のように同質なのではないか。プロと呼ばれる人はこの距離感を保つことに長けている人と言えるかもしれないが、それは職業だからそうなのか、職業として成り立たしている知識と技術がそれを支えているのか、それともそもそもそういう資質の持ち主なのか。番組を見ている限りではわからなかった。一般的には職業でもって知識と技術を持っていても、麻生大臣の失言と言われる発言の中にもあったようにぜんぜんそぐわない人間も少数ではなくそこそこ多くいるので、やはり資質なのかなあと思うがそれはそれでまた資質とはなんぞやという迷宮に迷い込みそうになるので、停止(苦笑)。

NHK ETV特集「長すぎる休日・若年認知症を生きる」
いろいろ考えさせられた。クリスティーン・ブライデン(旧姓ボーデン・著書ではこの旧姓で書かれている本を読んだ)さんという認知症を患いながらも本を書き、日本の認知症ケアの世界に大きな影響を与えた女性が住むオーストラリアにご主人が若年認知症を患った二組の夫婦と介護スタッフが訪ねる。
「私は誰になっていくの??アルツハイマー病者からみた世界」この本はすでに多くの人に読まれていると思うがお薦めの本である。小澤勲はクリスティーンさんは痴呆症(認知症)ではあるがアルツハイマー病ではないと解説で書いている。で、なにを考えさせられたかというと日本の若年認知症患者の病名がアルツハイマー病なのかどうなのか確認できないのだが、病気と向き合う自己の違いであった(介護者も含めて)。訪れた夫婦の奥さんがクリスティーンさんのパートナーであるブライデンさんに問いかける。介護する自分を支えているのはなにかと。ブライデンさんははっきりとそれは「神」だと答えた。神は解決はしてくれない。だけど強さは与えてくれると。クリスティーンさんも著書の中で同様の事を書いている。奥さんの「宗教という支えがない私には、どうやってその強さを得られることが出来るのか」というつぶやきは深刻さと共に共感できた。
私は誰になっていくのかと問う私のとらえ方がどこか違う。クリスティーンさんの場合、私に対する意識がとても明晰だ。だから自分が自分でなくなっていく恐怖に対しても突き放したような道筋を導き出してくる。日本の患者の場合それが逆ベクトルに働いているかのように見える。私とは何かを問うとしても、私はもやもやとした情緒のなかに埋もれていく不安が増大していき、やがて私は解体されるしかない未来を想像させる。この不安を着地させるのに、先に書いた大谷さんたち専門家の方法論というのは日本的なケアとしてやはり有効なのだろうなと思う。私自身はどこかで反発を感じるのだが・・。

tontonさんのコメント欄で小澤勲さんが亡くなられたことを知った。末期の肺ガンを患っていたのはその著書で知っていたけれど、驚いた。介護の本を読んで泣いたことはないけれど例外として「ケアってなんだろう」小澤勲 編著の中で、西川勝が書いた「小澤勲はカッコいい」の一節に思わず目頭が熱くなった。
 これを知ったのは(学生時代に応援団だったということ・引用者注)小澤さんの本の出版記念パーティーに出席したときのことだった。壇上に上がった小澤さんが、出席者への返礼としてエールを送ったのだ。演舞というのか演武というのか、とにかく激しい動きで立ちまわる姿は、小澤さんの病状を知るものには信じがたいものだった。前ボタンをはずした背広は、左右に跳ぶ体に羽のような動きをつける。拳を突き出し、足を踏みしめ、腕は大きく円弧を描く。観る者の最初の心配は吹き飛ばされて、熱い鼓動が内側からわき上がってくる。
 迫力に満ちた数分間におよぶエールは、息一つ乱さぬ気迫で演じ終えられた。おそらくは満身の力を振り絞り、残るわずかな力を乱れる息を整えるために使い切っているのだろう。すっきりして席に戻る小澤さんは、カッコいいの見本だ。
 雄々しさと猛りをひとつの形にまとめあげた精悍な動きの奔流に、一緒にいた理学療法士が涙をにじませて感激していた。医師として精神科医としての小澤さんは、多くの患者たちが人生の負け試合に出会ったときにも、あの凛とした眼差しでエールを送りつづけたのだろう。ぼくも胸が熱くなった。
小澤勲の書いたものは、けっしてハウツー本ではなかったが激流に翻弄されそうになっているときに奇妙な力を与えてくれた。ただ温かい感じだけではない、ちょっと硬い拳のような力を感じることができた。この西川が書いた文章を読んで、ああそうか、小澤勲って根っこにこういう単純な情熱のようなものを持っていたんだと納得したことを覚えている。小澤に比較すると三好春樹は、頑なになっている心のつっかい棒をひょいと外してくれる軽快感がある。優秀な技術屋さんという感じだろうか。
いずれにしても介護に関して介護家族に向けて出される本ははっきり言ってろくでもないハウツー本が多い中、介護家族にまで届く「熱」を持っていた数少ない「専門家」がこの世を去ったことはほんとうに残念だ。合掌。
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冬の徒然 2 [介護と日常]

● 昨夜というか、早朝。ブログの記事をアップした後ちょっとした大騒動があった。
ゴミの日なので台所などのゴミを集めていると妻が寝ている部屋から音がしたので寝室を開けると妻の姿が見えない。トイレを見てもいない。ベランダを見てもいない。仕事部屋、階段、風呂を見ても見あたらないので焦った。
妻の名を呼びながら三階を見てもいないので冷や汗が出た。息子の部屋を開けて見あたらないと言うと飛び起きてきて一緒に家の中を探した。寝室の押し入れをまだ探してなかったのでベッドの脇を通り過ぎようとするとなんとそこに寝転がっていた。横向けに丸まりながら眼は開けているが思い詰めたように黙っている。トイレ?と聞くと黙って頷くので起こしてトイレに連れて行った。ずいぶん我慢をしていたようで、トイレから出てくるとホッとした顔をしながら「このまま出てしまったらどうしようかと思った」という。
ベッドに寝かせてゴミをまとめてから横に行くと「ありがとう」と言った。出なくて良かったねというと安心して目をつぶった。で、すぐに目を開けて再び私に笑いかけてきたが、すでにベッドの脇に倒れていたことは忘れてしまっていた。起こされた息子は慌てすぎだと文句を言いながら自分の部屋に戻った。

● 本日、心療内科を受信した。約三年ぶり。理由はいろいろあったが詳細は省く。ここで久しぶりに長谷川式とMMSEのテストを受けた。結果は長谷川式8点、MMSE16点。長谷川式は30点満点で前回は4点だから大躍進。MMSEの方は前回を把握していないので比較できない。医師は「ふーむ。こりゃ良くなってますねえ」と言った。テストの点数が上がったことを伝えられたときの妻のうれしそうな顔といったらなかった(笑)。
医師から前に診た時と違って妻の様子が穏やかなのでこの間の事を質問された。薬なしでやっていたのかとか(心療内科で処方されていた薬)それはなにか理由があったのかとか。とりあえず私は次のように説明した。ちょっと優等生的な答えで嫌だったけれどもそうとしか言えない面もあるので、ブログで書いているようなことを答えた。妻がやることはほとんど前と変わらないが問題行動というのは大半はそれを問題だとする私の側の問題である面が大きいので、原因を妻に求める発想を変えてみる努力をした。それに伴って険しさを伴うような状況は少なくなっていったと。医師はこの話にはけっこう関心を持ってくれたようだ。
それから今年に入ってからはフェルガードも落ち着きを後押ししてくれている。予想通りというかβアミロイド主犯説に異論も出てきたけれどもフェルガードって私はなんだか内蔵系に作用しているような気がしている。効能に謳われている事とは違うがフェルラ酸が糖尿病に効果があるとかの資料を見ているとなんとなくそんな気がする。ま、こんな事は書いてはいけない事なんだろうけど。

● 病院から帰って二人でうどんを食べに出かけた。きつねうどん(京都は甘いキツネではなくておあげを味も付けずにそのまま細く短冊状に切ったものをのせてきつねという)を食べた。

● 夜になって8時前。従姉妹を迎えるために妻と二人で京都駅の八条口に行く。そこで兄とも落ち合ってそのまま兄の家に。夕飯を食べながら色々話をしていると娘から電話が。帰ってきたら玄関の鍵を忘れて入れないという。そのまま娘も兄の家に合流して12時前に帰ってきた。
日曜日に私の家にやってくる。どのように歓待するか思案中。
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冬の徒然 1 [介護と日常]

● 昨日、妻をデイケアに送る途中東の空を見上げると雲ひとつない青空だった。染みるような泣きたくなるような青空だった。フロントガラスと頭上の高架に遮蔽された隙間から見える青空を指すと妻は座席からただ見上げていた。ウインドーを下げるとほどよい冷たさをしたがえて青い空の明るさにひとしい温もりに車内は満たされた。妻は大きなため息を小さな声を出してついた。晴れた空を見つけられたことがうれしかった。

● 一昨日の通院日。インフルエンザの予防注射をした。それから必要があって主治医に診断書を書いてもらった。以前もらったときは後日渡しで封をしていたからどういう内容なのか知らなかった。今回、患者が少なかったのかその場で書いてくれた。主治医はパソコンの画面に保存された経過を書き写していたので私も見ることができた。
実は私は妻が倒れた時のことをいろいろ書いてきたが、実際にはどうであったのかということをほとんど知らなかったことを今回気づかされた。今まで正確ではないことを書いてきたことを少し反省した。今回手術時のことを確認できたのでメモ代わりに。

妻が倒れて救急病院に運ばれ、開頭手術を受けた。これは間違いない。手術が始まる前執刀医は手術時間は五時間か長くて六時間だろうと言った。しかし、手術室から出てきたのは十二時間半後だった。早朝手術室に入った妻が出てきたのは夕方六時前だった。出てきた執刀医と助手の医師の顔は顔面蒼白であり執刀医(つまり今の主治医)が手術の説明をしている時もう一人の医師はほとんど意識が飛んでいるような状態で、立ったまま何度もコックリをしていた。説明では術中に小さな血管に傷がつきその処置は当然したが、脳梗塞が出ているという話を漫然と聞いていた。医師は三度の破裂のことは話さずにずいぶん端折って説明したのか、あるいは私が聞き漏らしていたのか定かではない。多分、手術時間が長くなった理由と大変だった事情をまとめて説明しようとして細部を話したのだろう。あるいは私がそういう細部しか記憶にないのかもしれない。
その後時々に説明を聞いてきたがあまり喋るのが得意ではない医師という印象がある。が、今思うと素人の私に対して専門用語をなるべく使わないように配慮して言葉を選びながら説明してくれていたのだと思う。それを私は適当に解釈して自分で調べたりしながらありがちな推測や憶測を交えながら自分の記事にしていたようだ。おおむね間違いではないと思うが正確ではなかった。

今回わかったこと。
CTでくも膜下出血と診断。脳血管撮影で前交通動脈動脈瘤を確認。開頭してクリッピング術を行う。
手術直前に再破裂。術中にも再破裂。止血困難になり術中血流遮断を要する。
術後意識障害が遷延。軽度の右片麻痺、失語の出現。頭部CTにて両側前頭葉及び視床下部に多発性の脳梗塞が出現した。
リハビリにより麻痺及び失語は改善したが前頭葉障害による認知症(高次機能障害)、また視床下部障害による尿崩症が残る。

以上が正確な診断情報である。今回の診断書によって手術中を含めて計三回出血したことを初めて知った。麻痺と失語に関してはリハビリが有効だったという確認もできた。失語に関しては今もかなり影響が残っているように感じる。転倒しやすいのも麻痺の影響があると思う。スプーンで食べ物を口に運ぶ時、今でも調子が悪い時には上手く口まで運べなくてこぼす時がある。口はパクッと食べるように開け閉めするのだが運ぶスプーンは全然違うところで返す。食べ物はそのままこぼれる。これも麻痺の影響だと思う。

● また昨日に戻る。高額医療還付の案内が来ていたのを理由もなく放置していたので妻がデイケアに行っている間に区役所に行った。その道すがら自転車に乗ってすれ違った男性がアッという顔をして止まったので私も止まって振り返ると前任のケアマネさんだった。久しぶりだった。彼は自転車を歩道の脇に止めてちょうど良かったといってカバンの中を探り始めた。聞けば渡したい資料があるという。昨日研修を受けた時高次脳機能障害の家族の会の事などの紹介があったので私のことを思い出していたところだというのだ。ちょっとうれしい出来事だった。

● 明日は仙台に住む従姉妹が京都にやってくる。兄も含めて久しぶりに身内が集まる。とても楽しみだ。
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秋の徒然 3 [介護と日常]

●日にちが過ぎると冬になるので、慌てて秋の徒然3をアップすることにした。最近妻は元気で快調なのだが、ティッシュペーパーを食べようとしたり、夜になるとしきりに家に帰ると言ったりする。また、なにを指すかわからない自分の大事なものがあって、私がそれを持ってないかと聞いたりする。ただ、その出方が穏やかなので日常生活に支障を来すということはない。つい先日もデイケアから帰ってきてすぐに「ちょっと私帰ってくるわ」といってまた階段を下りて玄関に行こうとするので、ついて行った。足下がふらついたので車椅子に座らせて指示するままに押した。するとじつに正確に妻の元実家に辿りついた。だがそこはもう引っ越ししていて次に入る人が改装工事をしていた。なにやら高給寿司店になるらしい。暗くなっても工事している家の前で妻はしばし呆然としていた。「これは社長に聞かないとわからないから、裏にまわって欲しい」といわれて裏にまわった。社長とは家主である墓石製作所の社長のことであると思うが、裏口に回っても元実家の中は大きく姿を変えて工事されていて、妻は諦めたように「もうええわ」と言ってそこを去った。元実家の前で過ぎ去ろうとしたとき近所の人と会い「あんたショックやろなあ」と声をかけてきたが、妻は気丈に「ううん、どうもない」と答えて相手の話に耳を傾けていた。さあ、そろそろ家に帰ろうかというと素直に従い、これまた間違いもせずに指示を出して家に帰ってきた。玄関で車椅子から降りると何事もなかったように階段を上がり居間で大きなため息をついてすぐに横になった。

●普段アルコールをほとんど口にしないので、以前のような飲み方はできなくなった。が、最近マタタビ酒20ccの晩酌派となっていたので、人と飲んでもそこそこいけるのではないかと高をくくっていた。実は伝説の「白球有情」の方から二度目のお誘いをいただき、よろこんでいそいそと出かけたのはいいが、お年を召されているとはいえ(失礼!)プロからも誘いを受けていたというその方は体格も人並み以上はもちろんのこと、かくしゃくとされており、しかも土佐人。あまかった・・。今回いろいろ聞きたいことがあったから整理をして出かけたのだが、ペースに併せて飲んでいるうちにメロメロになり猛烈な睡魔に襲われた。座敷で倒れ込んでは男の名折れと踏ん張ったが遂に我慢が出来ずトイレに隠れるように入ってそのまま座り込んで寝てしまった。目覚めてからの記憶がない。気づいたのは家に帰ってから。なさけない。久々に酒に酔った翌日の自己嫌悪にずっとかられていた。

●連休のさなか友人たちがご苦労さん会を開いてくれた。先に久しぶりのお酒の洗礼を受けていたのでこの日は絶好調だった。遠方からの人と帰れなくなった何人かが家に泊まったけれど、よく寝たせいもあり二日酔いもなく妻と一緒に買い物に出かけたり喫茶店で珈琲を飲んだりした。

●最近わりあい夜にこうして出歩けるのはやはり娘が帰ってきたことが大きい。先のどうやって帰ったのかの記憶をなくした夜、家にたどり着くと娘の同僚がいて、二人でお酒を飲んでいた。誘われて再び飲み始めたのだが、娘の同僚が妻が倒れて以降の娘の変貌について話をしてくれた。わが家の中では家族間にいろんな軋轢が生じていたが、同僚によると娘は娘で職場内のそれまでの関係を絶つように閉じていったらしくてそれが心配で心配で、今夜こうやってお父さんも交えて一緒に飲めるのが嬉しいと言われて、そうか、娘はいったん家を出たにもかかわらずそういうものを背負って出て行っていたんだなということを知った。久しぶりに若い女性と恋愛だの教育だのの話をしたのだが、翌日の自己嫌悪はこれも原因の一つだったような気がする(苦笑)。

●今日、妻の年金特別便のことで社会保険事務所に行ってきた。特別便によると妻は無年金者になっている。どう考えてもおかしいのでそれなりに準備をして出かけた。相談員の前に座ってから二時間半。無年金ではないことが確認できた。ちょっとよかった。

●ずっと竹内孝仁のいうところの「治癒」の前で考えさせられている。


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秋の徒然 2 [介護と日常]

■火曜日、妻の通院の日。朝早くベッドの上から話しかけてくる。話の内容はうまく理解できないが機嫌は良さそうだった。トイレに起きたり、軽く朝食を摂ったりした後またベッドに入り、しばらく熟睡していた。そういえば、夜中突然大きな声で「はーい!」と叫ぶので飛び起きた。トイレに起きた後もすぐに寝息を立てるのだが息子の名前を大きな声で呼んだり、「おとうさーん」と呼んだり二度三度と起こされた。譫妄や幻覚とはすこし違うようで夢を見ていたようだ。最近では珍しいことで、私も少々寝不足だったが、ベッドで熟睡する様子を見ていると妻も浅い眠りだったようだ。そのおかげで出る時間が遅くなったけれど家を出て診察が終わり帰るまで、ここ数年の中で最高レベルのしっかりした足取りだった。病院の二階の駐車場から降りる階段、入り口から血液検査、診察室までふらつくこともなく私の手を取ることもなくゆったりと歩けた。よほど電解質のバランスが改善されているのではないかと思ったが、あにはからんや前回とほとんど変わりがなかった。医師に聞くと、ナトリウム値が高い状態に馴染んできたかもしれないという。
帰宅後すぐ近所の八百屋さん、魚屋さんまでいっしょに買い物に出かけた。だけど、薄暗くなった帰り道では車椅子を用意しなかったことを少し悔やんだ。

■フェルガードを注文していて今朝届いた。荷物を開けてみると一箱の注文だったはずなのに二箱入っていてちょっと驚いた。間違えて二箱注文したかなと納品書を見てみると一箱分の金額がマイナスされている。よく見るとポイント使用分の金額が引かれていた。そういえば、注文の画面でポイント使用欄にチェックを入れたが自分のポイントが幾らあるのか表示されないまま注文確定の画面にいったので、ポイントをもらうような登録をしていなかったかもしれないとそのまま注文のボタンを押したのだった。いつの間にか一箱分に相当するポイントが溜まっていたようだ。

■23年間アルツハイマー病の奥さんの介護をされておられた「monkichi」さんのホームページに行き、先月奥さんが亡くなられたことを知り衝撃を受ける。いつもコラムを読ませてもらっていた。しばらく更新がないので創作に専念されているものとばかり思っていた(monkichiさんは今年、「栃木県文藝賞」を受賞された)。施設に預けることなくずっと在宅で奥さんと共に生活されてきたmonkichiさんにアドバイスをいただいたことがある。掲示板に書かれている経過を読んでいて、涙で文字が追えなかった。

■「父83歳、ボケからの生還」ー 樋口恵子著・現代書館発行
今この本を読了してから書いている。
夕食がすんだ後、テレビを見ている妻の横で読み始めた。本の帯には「障害をもつ著者が、遠距離介護者として高知と東京を往復。ぼけかけた老父のメッセージを確実につかみ取った。」と書かれている。この帯のうたい文句が検索で引っかかりアマゾンに注文していた。これも今朝届いた。

著者は幼い時に脊椎カリエスに罹り、中学生の時に再発して肢体不自由児施設で寝たきりの生活を経験する。その後施設を退所し、高校、大学と進みアメリカで障害者の自立生活運動に出会い帰国後その運動に邁進する。東京の町田市市議となったり、全国自立生活センター協議会の代表も務めた。2001年参議院選に民主党比例代表で立候補するも落選。
ずいぶん端折って書いたが経歴を見ると筋金入りの活動家だ。その著者の父が心臓のペースメーカーを入れ替えるための入院がきっかけでボケがはじまった。ローテーションを組み、週末には東京から高知に帰り父と共に生活するというハードな介護生活に取り組んだ著者と家族の記録だ。自身が障害者であるだけに障害者自立支援法の問題点や介護保険の問題点にも目配りを効かせつつ、介護される側の当事者性に一貫してこだわり、ときには医療現場と格闘し、ボケた父と向き合う。
自分の現状認識に至り、行動し、発言する時間が短く、老いの進み具合が優先して、自分の状況に一番適した方法を見つけることが難しく、医療や家族などの関係者優先で事が進んでいってしまうという現実があります。 この現実に対して、高齢者という当事者性をどう打ち出していけるのか、今後も、家族・関係者のみで進めていくことしかできないのか、私の問題意識はここにあります。
父の状況を連絡するための土佐弁で語られる家族間のメールのやりとりや、父の介護に向かう妻を支えた夫とのやりとりは時には緊迫感を、そして時には土佐の女性らしいたくましさ、おおらかさがあり、「とてもかなわないな」と思った。
後書きで著者は書く。
この記録を書いてきて、そう言えば、ぼけたぼけたと、そのことばかりにとらわれていたけれど、父のあの時の反応はぼけていたとは言えない、しっかりとした時があったということなどが感じられました。家族の側がぼけているというショックから過剰反応して、父を見失っていた部分もあるのです。
ほんとうは動揺し、絶望したこともあったと隠さず著者は書いている。だがそこに拘泥されることなく、一貫した視点で書かれた記録に「信念」というものがもつ力を再認識させられた。そしてそれを著者にもたらしたのは自らが背負う「障害」の発見だった。

この著者樋口恵子さんは私の高校時代の同級生であった。その時代は私にとって苦み以上の苦みをもってしか振り返れない記憶としてある。そのひとこまの中に、確かに彼女の姿を思い出すことができる。だが出会えなかった。思いがけぬ再会はやはり苦さを伴いつつ、実は出会っていたのだということを知った。

■定額減税方式が合意された。直接給付で現金やクーポン券が配られるようだ。この政権はよくよく「国民」が馬鹿だと思っているらしい。財政赤字が拡大しているにも関わらず、目の前の現金を国民は優先すると見込んだ選挙対策のバラマキだろうが結局財源は税金であり、また税金として回収されることはすでに国民は知っている。こんな事で内需が拡大すると思っているのだろうか。手持ちの現金を使うのをさらに手控えてクーポンしか使わないのは普通の感覚ではないかと思う。後期高齢者医療制度などを含めて生活の負担感はかつてないほど増大している。ところが先進諸国との比較では税負担はそれほど大きくないということを国は言うが、ではなぜ我々は負担が大きいと感じるかというと、ようするに国やその行政機関に対する不信感が反映しているのだ。こんな政府ではますます不況が深刻化していくのではなかろうか。

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秋の徒然 1 [介護と日常]

駆け足で秋が深まっていく。
10月のはじめ天気がよかったので久しぶりに大原の方に出かけた。お目当ては「里の駅大原」。府民便りに紹介されていたのがきっかけで、新鮮な野菜が安くて大にぎわいだというので出かける気になった。まだ紅葉には早く、観光客も少なくて道は空いていた。里の駅は予想に反して意外とこぢんまりした施設だったがかなりの人が買い物に来ていた。周囲は畑で、彼岸花が咲いていないか妻と二人であぜ道を歩いたが、残念ながら少し残っていた彼岸花も全部しおれていた。気持ちのよい天気で野菜やおはぎにお餅、それにお漬け物などを買って帰ってきた。野菜は確かに安かったしおいしかった。
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「里の駅大原にて。秋の実りというかザル付きで売っていたからなにかお祭りのお供え物だろうか」

朝の連続ドラマ「だんだん」を見ている。前作はほとんど見なかったので一年ぶり。面白いというよりも、松江の方言と風景を懐かしみながら見ている。「そげかね」とか「なんとかだが」などという言葉を聞くと、亡くなった岡田さんを思いだし、こみ上げてくるものがある。お墓参りにいけていない。ご母堂から季節のものを送っていただいたり、手紙をいただいているのに返事が書けない。こんな時の自分がほんとうに情けない。明日には明後日には明々後日にはきっと・・。

二週間に一度の妻の通院日の朝、いつもの朝食(みそ汁に、納豆に、干物か塩鮭にお漬け物)ではなく趣向を変えてスコーンを焼いた。いただいたおいしい手作りジャムをたっぷりつけて、紅茶にもジャムを入れてロシアンティーとしゃれ込んだ。二人でたっぷり食べて満足し、病院に出かけた。いつもの手順通り、まず採血。それから予約券を診察室の前のボックスに入れ、約一時間時間をつぶす。歩行も安定して機嫌もよく予約時間に少し遅れて診察室に入る。主治医が血液検査の結果を見ながら「今朝は朝食が遅かったんですか?」と聞く。「ええ、朝にちょっとケーキのようなものを焼いたものですから」と私。医師は笑いながら「そうですか。それでだな。今までで一番血糖値が高いから、どうしてかなと思って」と言った。血糖値166。ちょっと首をすくめた。その他血中ナトリウムなどの電解質は問題なし。夏ばてもなく安定期に入った。これからの警戒対象は風邪やインフルエンザとなる。

いつも断片的だが、ふと思いついて妻の脳は現在どうなっているのかを聞いた。萎縮した前頭葉が欠落して髄液に満たされている写真を見て妻と重ねたからだったが、そうではなかった。前頭葉の皮質面はきれいに残っている。前頭葉の内側の部分が広範に蜂の巣状に梗塞を起こしているのだった。全然理解が違っていたのだ。つまり脳機能から推測すると、視床下部、海馬、扁桃体、大脳辺縁系、前頭葉、側頭葉などの情報経路が寸断されているのだろう(こんな風に簡単に言えるほど単純ではないと思うが)。

アルツハイマー病を調べて見ると、まったく妻とは違う。妻の場合は進行性ではない。この進行性の病は介護されている方のブログを見てもやはり恐ろしい病だと思う。
出てくる症状が似通っているだけで老年認知症をアルツハイマー型と一括りにするのはちょっとおかしいのではないかと思ったが、専門家は臨床的、病理学的に区別しているようだ。こうした分類と変遷については、「トーク認知症-臨床と病理」小坂憲司 / 田邊敬貴著(神経心理学コレクション・医学書院刊)がわかりやすく説明してくれている。(この本は専門書でありながら、多少用語の理解に苦しむところはあるのだが素人でも通読できる内容になっている。認知症患者の解剖された脳や画像がふんだんで言葉は悪いが楽しめる。ただし、読んでみて率直な感想としては別に自分の立場では読む必要もなかった。とても高いし。それに当たり前だろうが検討されている臨床例が認知症患者に限定されており、同様の画像でも認知障害とは無縁の例との比較検討はされていない。ということは部検や画像診断でも病巣が発見できない認知障害は臨床医の立場では病気と診断しないのだろうか、というような素人の感想は余計だからやめておきます)

病院から帰って自分の血糖値が心配になって測ったら107。安心してまた妻と二人でおやつにお茶を入れてスコーンにたっぷりのジャムをのせていただいた。ちょっと優雅な一日だった。あっという間に残り少なくなったジャムはなんだかもったいなくてわずかに残ったままの一瓶を冷蔵庫に置いてある。よし、明日の朝これを食べよう。

SilverMacさんから送っていただいたマタタビを焼酎に漬けていたが、ほぼ三ヶ月に近くなったのでちょっと試し飲み。おいしい!漬かるあいだ飲んでいた市販のマタタビ酒とは大違いだ。普段はまったくアルコール類は飲まなかったが今は毎晩マタタビ酒を20ccを飲む立派な晩酌派に変貌した(笑)。新たにマタタビを仕入れて二リットルほどマタタビ酒を作ろうと思う。腰の調子はとても良い。

今回はちょっと思いついたことをつらつらと書いてみました。
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老いについてもう一度 [介護と日常]

およそ四半世紀続けてきた仕事から離れることになった。今後のことは皆目見当がつかない。この件についてはあらためて書くことはあるかもしれないし、触れることもないかもしれない。
幼なじみが(彼は今仕事で関西に出てきている)事情を聞きつけて一度会おうということになった。
7日火曜日に四条通のジュンク堂書店で待ち合わせをした。待ち合わせの時間までのぞき込んでいた本を翌日改めて本屋に行き、買った。読みづらい内容だった。どこかに理解のきっかけがあるはずだと思いながら読んでいた。
きっかけは、miyataさんの記事だったが、減算、喪失としての老いを考えると分からなくなるのは、そこに老いがないからではないか、と思ってみたりした。
徒然 #1 - 渓谷0年
減算、喪失としての老いを考えるとそこには老いがないという指摘に、理解の戸が開いたような気がした。以下、読みづらかったその本から引用する。
1 老齢への誤認と自己の例
六十歳以降の症状と対応
 老齢化で一番辛いことは、身体の動きが鈍くなり、足腰が弱くて痛みがともなうといったことではない。自己の意力や意志、そう志向することと、それに従って実現しようとする行為や運動性との「背離」が著しく増大することだ。
 これは若い人にはわからない。老齢だから身体を動かすのが億劫なんだと誤解している。丁寧にいえばそうに違いないのではあるが、真の原因はこの意力と行動との背離性にあるのだ。これは専門と素人、熟練と浅い経験との違いではなく、老齢に固有のものだ。
 わたしたちのような引きこもりを職業的専門にしてきたような老齢と、運動性を職業にしてきた老齢は、同じ老齢でもこの背離を助長する職業と、この背離を縮めることを職業としてきた者としての決定的な相違がある。この見方からすると、老齢は年齢ではなく、この意力と身体の運動性の背離の大小だといってよいとおもう。これを老齢の二重性として理解できるかどうかが、ほんとうの科学性だと思う。
2 意志と行為の背離
老齢とは意志と行為の背離のことをいう
 動物身体の運動性は人間を除いてすべて反射的なものだ。意志と行為のあいだに分割や間隙がない。人間は意志することと身体運動を起こすことのあいだに時間差があり、そのあいだにあらぬ空想を交えたり、想像にふけったり、妄想や思い込みにとらわれたりする。これは身体行動を鈍く遅くするが、思考や想像力を豊かに発達させ、言葉を生み出すことに寄与してきた。
 老齢者は身体の運動性が鈍くなっていると若い人はおもっていて、それは一見常識的のようにみえるが、おおいなる誤解である。老齢者は意志し、身体の行動を起こすことのあいだの「背離」が大きくなっているのだ。言い換えるにこの意味では老齢者は「超人間」なのだ。これを洞察できないと老齢者と若者との差異はひどくなるばかりだ。老齢者は若者を人間というものを外側からしか見られない愚か者だと思い、若者は老齢者をよぼよぼの老衰者だとおもってあなどる。両方とも大いなる誤解である。一般社会の常識はそれですませているが、精神の「有事」となると取り返しのつかない相互不信になる。感性が鈍化するのではなく、あまりにも意志力と身体の運動性との背離がおおきくなるので、他人に告げるのも億劫になり、そのくせ想像力、空想力、妄想、思い入れなどは一層活発になる。これが老齢の大きな特徴である。このように基本的に掴まえていれば、大きな誤解は生じない。老齢者がときどきやる感覚的なボケを老齢の本質のようにみている新聞やテレビ、あるいはそこに出てくる医師、介護士、ボランティアなどのいうことを真に受けると、とんでもない思い違いをしていて、老齢者をほんとうのボケに追いやることがあり得る。身体の運動性だけを考えれば、動物のように考えと反射的行動を直結するのがいいに決まっている。
 けれど高齢者は動物と最も遠い「超人間」であることを忘れないで欲しい。生涯を送るということは、人間をもっと人間にして何かを次世代に受け継ぐことだ。それがよりよい人間になるかどうかは「個人としての個人」には判断できない。自分のなかの「社会集団としての個人」の部分が実感として知ることができるといえる。
3 自他の違い
「自然の順位」のみが老齢の意
 老齢は身体の生態的な自然を前提とする限り(つまり事故を除けば)、誰でもが体験するのに誰でもが老齢を体験しなければわからない点を含むということだ。つまり自然の「順序」がもたらす差異にほかならないのに社会的な「順序差異」としてしか言葉では表現されないことだ。老齢者自身も、それに大なり小なり接触する場面をもつ人もおなじように「自然の順序」を「社会の順序」に置き換えて考えているとおもう。おまえはどうだといわれれば、即座にわたしもそうだというほかない。これは間違いだということはわかっている。どうすればいいのかもわかっている。社会が全体的に「自然の順位」による差異だけを保存し、社会での個人、個人の心の全体性を「自然の順位」の差異にすればよい。このうちいちばん難しいのは(少なくとも老齢のことについては)、個々人の精神の全体性において「自然の順序」による差異以外のものを廃棄することだとおもう。

「姥捨て伝説」と「手がかり神」の意味するもの
 現在では老人ホームの施設や介護保険の制度もまがりなりにあり、専門の介護士や医師もいる。しかしわたしの考えでは、老人ホーム的な施設はすべて社会助成を受けて無料、無償とし、介護の医師、介護士、看護師は職業としてその社会(時代)の最上の給与を支給されるのでなければならない。これが前提の第一だとおもう。それなしにはほかのことは成就できない。

 老齢者の保護、介護、保険、年金の課題は、身体障害者の問題を包括するものとして国家や社会の不当な権謀の消滅という課題と同等の重さを持っているとおもう。通貨の共通化までやっと到達するに至った、欧州共同体の民族国家解体の問題と、老齢者、身体障害者の完全な保護の問題は分離しつつも並行すべき車の両輪のように真に逸してはならない課題とおもえる。
中学生のための社会科 - 吉本隆明

長い引用になってしまった。ここには私がぶつかっていた問題のほとんどすべての解答がある。
介護とかケアの言葉で語られる世界を見渡していて、いつも釈然としない思いを抱くのはなぜかと問う自分があり、その問いそのものが自分をひどく孤独な場所に追いやっているのではないかと焦燥にかられていた。いつも目の前の小さな問題にぶつかり、毎日のエネルギーの大半を消費してしまった後の徒労感は、単に楽しいレクレーションに置き換えて忘れようとしても埋められない。なにかが欠落していると思った。
吉本隆明のこの発言をおそらく多くの人はたんなる理想論だとして片付けてしまうだろう。私は理想論として片付ける現実論が自分を縛り、自分も他者も苦しめていることを眺めてからもう一度息を詰めて自分の現場に向き合おうと思う。

Mさん、やはりあなたの書いたことは正しいとおもう。私はただ自分の疑問だけを漂うようにしか書けなかったが、書いてみて良かった。

追記:引用した「中学生のための社会科-吉本隆明」という本のタイトルについて違和感を感じる人が多いようなので、自分の記事でカットした部分を追記として載せます。

『奥付によるとこの本が刊行されたのは2005年3月1日となっている。吉本はこの前後にインタビューをそのまま書籍化した単行本を悪くいえば粗製濫造のように矢継ぎ早に出していた。「幸福論」とか「超20世紀論」とか「超戦争論」とか「人生とは何か」といった一連の本と、「食」や自らの「老い」についての本も同じスタイルで出していた。伊豆で溺れて以降肉体的な条件が旺盛な執筆欲を満たすことが出来なくなったので、こういうスタイルをとらざるを得ないのだろうと思っていた。何冊か読んだが、だからといって内容的に劣るという感じは受けなかった。しばらく吉本の著作を読まずにいたが、この時期の本をポツポツと読んでこの人はちっとも衰えていないなという感想を持った。
待ち合わせ場所である書店の棚を見ていてふと吉本のコーナーを見ると以前の三分の一ほどの分量になっているのに気がついた。若手の評論家や学者が著作を充実させて書店の棚に増殖しているのと対照的だった。その吉本のコーナーを追うとほとんど持っている本ばかりだったが、一冊だけこの「中学生のための社会科」は読んでいなかった。
最初このタイトルは際立って変だなと思った。ほんとうに中学生のために書いたのだろうかと手にとった。「はじめに」で次のように書いていた。
「この本の表題として『中学生の社会科』というのがふさわしいと考えた。ここで「中学生」というのは実際の中学生であっても、私の想像上の中学生であってもいい。生涯のうちでいちばん多感で、好奇心に富み、出会う出来事には敏感に反応する柔らかな精神をもち、そのうえ誰にもわずらわされずによく考え、理解し、それして永く忘れない頭脳を持っている時期の比喩だと受け取ってもらってもいい。またそういう時期を自分で持っていながらそれに気づかず、相当な年齢になってから「しまった!」と後悔したり、反省したりした私自身の願望が集約された時期のことを「中学生」と呼んでいるとおもってもらっていいとおもう。」
と書いてあった。目次に目を通すと想像していたものとはまったく違ったものだった。詩、言語、老齢、国家についてインタビューではなく書き下ろしたものだった。すぐに買おうかと思ったが友人と会うのに荷物を持つのは嫌だなと思いなおして後日買いに来ることにしたのだった。』

つまり、この本は中学生の「ために」書かれたというものではなく、本のタイトルとしてそう書かれたというものです。最初とても読みづらかったのは、うまく言えませんが評論や論考のような書き方ではなく(対象となる引用などはほとんど省かれている)、思想を文学表現のように書いているからだと思いました。とても緊張を強いられる内容でした。記事では触れてませんでしたが、唸らされたのは(自分はなにも理解していないなという意味でです)一章の「古典以前の古典」と「表記される日本語とその特性」の節でした。

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2008年、秋。 [介護と日常]

清原という選手のことは、ほとんど関心がなかった。それにリザルトを見てもさほど評価できる選手とは思っていなかった。プロレスラーのような身体にして馬鹿だなと思ったり、年齢のわりには野球を浪花節にしてしまってとかと過小評価していた。見方が根本的に間違っていた。西武の時にはそう思っていなかったので、評価できない背景に巨人の姿があったのだということに、引退試合を観て気がついた。長嶋の引退の時、もうこんな選手は出てこないだろうと思ったがそれは私の世代が持つ傲慢さだと思った。全部の打席と引退セレモニーを観てKK以降の世代が繰り広げるプロ野球の世界が少し理解できるように思った。そういう打者だったのだということも初めてわかった。花束を渡した王が生まれ変わったら一緒のチームでホームラン競争しようと言ったそうだ。その時の清原の涙を理解した。ドキュメントも見た。桑田が泣いたことも知った。すごい手術のことも知った。野球というゲームを突き抜ける存在感をこの選手がずっと持ち続けてきたことを認識した。清原をはじめとするこの世代がプロ野球を変えるだろう。そんな想いを強く持った。

三十代の若い人に「おじさん」と呼ばれてはたとそうか、おれはおじさんなんだと自分の年齢に気がつく。そんなこと言われなければ、ほとんど気がつくことはない。老いはわからないと過去何度もこのブログで書いてきたが、やはり今もわからない。だが、生き延びていれば逃れられないものとして必ず訪れてくるはずであり、それがどのように自覚として捉えられるのか。
今でも「反射」という意味ではもう若い頃のように反応できないという自覚はある。車の運転をしていても、それは感じる。五年前にはダッシュしてアスファルトにスライディングして妻の怪我を防ぐような芸当は普通にできたが多分今は無理だろう、と思う。この「と思う」事が果たして老いなのか。きっとこれは老いに向けてなだらかな推移の中の一こまのようではあるが、こんなことが積み重なっていったとしても、それが「老い」にぶつかり自覚することにはつながるのだろうか。今の段階ではよくわからない。皆目わからない。ほんとうに呆けにつながるほどのストレスとしてそれは現れてくるのだろうか。自分にとって今のところこれが唯一未来にむけて理解可能かもしれない謎だ。だけど少年期も青春期も中年期を振り返っても余りよくわからないから、理解できないまま終わるんだろうな。

自分の誕生日を祝ったり、祝ってもらうのは好きではなかった。ようするにあまり自分が好きではなかったからだ。だけど、こんなことを主張すると逆に人以上に自分にこだわるからそうなるのだろうと揶揄されるのは決まっているので、祝ってもらえば普通に喜んだ風をしていた。感動もなく普通にその日をやり過ごすようになって、やがてほんとうにその日を忘れるようになっていった。今年も2日、古いMacに教えられて、「ああそうか、そういう日だったんだ」と57回目の誕生日を迎えたが例年以上に誕生日祝いのメールやポストカードを頂いた。うれしかった。というのは「誕生日はあんたが生まれた記念日じゃなくて産んでくれたお母さんに感謝する日だよ」という読みかえを教えてもらったからだ。だけど、家族で私の誕生日を気にかけていたのは妻だけで子供達は気づかない。妻にこっそりその事をいうと目を丸くして笑いながらちょっと声色を変えて「おめでとう」と手を握ってきた。これもうれしかった。

「あじねフライパン」さんから封筒が送られてきた。中を開けると手作りの「あじね通信」が入っていた。中の記事は食べ物のことと、地元の歯科医さんの記事。ふたつともとても良い記事だった。食べ物の記事は「噛むこと」について。現代人は噛む回数が歴史的に最も少ないという記事を紹介していろいろと調べたもの。記事では噛む回数が減ってくると大きな時代の変化が起こるという歴史の見方があるそうですと書いてある。時代ごとに大きく噛む平均回数が減ったのはまず、平安時代で、つぎに減ったのが江戸時代から明治にかけて。このテーマは確か柳田国男の「明治大正史・世相編」の中でも現代は食べ物が軟らかくなっていると取り上げられていたのを思いだした。うーん、これは勉強させてもらった。
もう一つの歯科医さんの記事は介護との関連で。そこは夜遅く診てくれる歯科医さん。母を介護している歯科医(女医さん)さんが自分の介護の体験を通して介護する人にはほんとうに時間がないこと。自分の母が寝てからでないとなんにもできない。これは介護を抱えているところはみんな同じではないだろうかと思って、歯の治療も満足にできない家族のために夜の診療を始めたというインタビュー記事だった。ちょっとジンとした。
我が家の食卓を支えるあじねフライパンはまったく焦げ付きもなくますます馴染んできている。ここで買って良かったなあと思う。

※タイトルはchihiroさんから拝借
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頭の中の音 [介護と日常]

昨夜のこと、居間で本を読んでいると息子がやってきて座り、「実は今まで言わなかったことなんだけど」と話しかけてきた。何事かと向き直ると、最近夜寝ようとすると突然頭の中でバシン!と大きな爆発のような音がして飛び起きることがあるのだという。それはもうほんとうに大きな音で、一瞬脳の血管が破裂したのではないかと飛び起きてなにもないことを確かめてホッと胸をなで下ろすのだが、それが何度か続いて不安になり調べてみると実は原因不明だがそういう症状があることがわかったというのだ。「頭内爆発音症候群」というらしい。その話を聞いていて、なんとも不思議な想いであった。
実は私も誰にも話さなかったけれど、これと全く同じ症状に10年ほど悩まされていたのだった。それはもうすごい音で時には眼の奥に大きな閃光が光る時すらある。
息子はそういう症状があるということを知り、自分だけの異常ではなかったことに安心して私に話すことにしたらしい。今まで言わなかったのは、妻のこともあり(脳動脈瘤には遺伝的な要素が多分あるだろうからと私が言っていたから)検査をしてこいと私に言われて、もし異常が発見されて何らかの外科的な処置をしなければならなくなった時に妻と同じ後遺症に悩まされるかもしれないと考えると怖かったのだという。
私は息子に、実は俺もそうなんだという告白をした。実際、目眩がしたり頭痛がひどかった時に小心なほど気になって病院に行ったりしていたのは、背景にこの変な現象があったからに他ならない(この事は息子には言ってないが)。この頭の中の爆発音は、ほぼ間違いなく寝入りばなに起きるので自分ではなんらかの心因性のものだろうと思うようにしていたが、不安だった。この音は外部の大きな音ではなくて耳の奥というか前頭部から側頭部あたり、それも脳内で発生するかのように自分自身では感じている。一時、うつらうつらしている時に突然飛び起きることがあって妻や子供達を驚かせた。そのうちの半分くらいが実はこの爆発音だったと打ち明けると息子はそれを思い出して納得した。というのは、飛び起きた時、妻や子供に確かめるように「今、だれかものを落としたり大きな音を立てたりしなかったよね」と聞くことが再三あったからだ。私はこの脳内に発生する(かのように感じる)現象が、実は半分覚醒している意識が外部の音に異常に反応して、まるで頭の中で何かが破裂してしまうように感じているのではないかと疑っていたからだった。
金縛りもよく似た状態の時に起きる。どちらも寝不足や疲れている時に頻発する。身体と意識が微妙なずれを引き起こしているという感覚はある。私の場合この金縛りが起きる時ウイ〜ンという金属音というかジェットエンジンの回転が上がっていくような耳鳴りを伴うことが多い。
不思議な想いというか心配なのは、息子のことだ。四年ほど前、私が円形脱毛症になった時、同じように息子も円形脱毛症になっていた。介護に苦しんでいた時だった。つい最近、私がぎっくり腰になった時もまるでシンクロするように腰を痛めた。今我が家の状況は、ちょっと閉じているのかもしれない。そういえば最近、それほどきつくはないが妻に夕方症候群がでている。
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認知症掲示板についての感想 [介護と日常]

前の記事で夏が戻ってきてちょっぴり嬉しかったと書いたのだが、今では暑すぎてもう辟易している。とはいえ一昨日の明け方は窓を開け放して寝ていたけれど寒くて目が覚めたくらいだから、確かに過ごしやすくなってはいる。今朝は突然どしゃ降りの雨が降ってすぐに上がったが、やはり蒸し暑くなってきた。(記事をアップしようとしたらまたゴーッと降り始めた)(また止んだ。きりがないのでやめる)

一週間ほど前、妻の友人が訪ねてきてくれた。一人は埼玉の方で最近までご子息が京都で陶器の勉強をしていた。ご主人が軽い脳梗塞で倒れて大変だったという話をされていた。もう一人はやはり京都の炭山で焼き物をやっておられる方の二人。二人とも焼き物をしていて妻とは友達というより同志のような関係ではないだろうか。二人とも妻と同じ年。炭山の方には、妻が倒れる前年ベトナムに連れて行ってもらった。ご主人が20年以上ベトナムで伝統工芸の復興に尽力をされていて、今でも毎年ベトナムに出かけ現地のお弟子さんと共に作品を発表されている。ベトナムでの最初のお弟子さんは今や押しも押されもせぬ陶芸作家としてベトナムの名工となっている。妻と喧嘩しつつ旅したベトナムは体力的には大変だったが楽しかった。特に朝5時半にハノイの宿を出発して夜中の12時についたサパというリゾートへの車旅は強烈だった。殆ど舗装されていない川沿いの道や、山岳地帯の道を走り続け着いたときの寒いくらいの清涼な空気と満天の星空は印象的だった。
いや、そんな話ではなく訪問は1時間ほどの時間だったがこのおばさんたち(失礼!)のパワーに圧倒された。「変な世の中で大変だけどね、女はしぶとくて強いのよ」とうそぶかれたときには、笑っているしかなかった。妻もこの訪問に嬉しそうだった。

ここしばらく、仕事上のことや生活上のことで心休まる暇が無い。記事を書く気力もなくそれでも日々更新されるブログを読みながら自分を慰めていた。そんななか「認知症ネット」というウエブサイトのことをマオさんのブログで知り、ブックマークして時々見るようにしていた。ところがその掲示板で書き込みが管理者によって一方的に削除されてしまうということが起こった。
管理者からは「国内において正式な認可を受けていない医薬品等についての処方(投与方法等)・効果・効能につきましては、認知症ねっとでは責任を負いかねます。そのような投稿につきましては、認知症相談室では削除の対象となることがございます。」というアナウンスがされていた。どうやら、私もこのブログで書いているサプリメントのフェルガードに関する書き込みがその対象となったようだ。
で、感想としては、一言「ひでえな」ということ。利用規約もなにもあったものではない。この掲示板の管理の仕方は、正直許し難い。これでは当たり障りのない介護家族の涙や喜び、ようするに困ってる人のいい話だけを囲い込んで市場化するのが目的だというのが透けて見え見えじゃないか。

その削除の背景に繋がったと思える書き込みを読んだ。サプリメントはもうたくさんだとか、実際の患者を診ずしてそれを薦めるのはおかしいのではないかとか。一見もっともらしい意見ではある。サプリメントはもうたくさんという人の介護に対する考え方というのはどちらかといえば、同意できる。しかし、まったく同意できないのは「自分目線」の偏狭さと排除意識である。どうして他者の個別性を容認できないのかねえ。実は同じことをフェルガードを推薦する側の、医師ではない一部の人の書き込みにも感じていた。きっとその人は自分が体験した(あるいは体験中の)素晴らしさを皆と分かち合いたいという善意がその動機になっているのだろうが、自分の立っている場所まで困っている人を引き上げてやるのだという逆の排除意識が見えていやだった。

掲示板でサプリメントの話題を排除しようとする側の人も薦める人の側も認知症の、介護の、ある段階のことしか語っていないように思えた。私の置かれている立場では、サプリメントでも薬でもケアでもなんでもよいけれど、周辺症状が治まり負担が大きく改善したとしてもなお介護の問題は重くのしかかる。認知症や介護ってそんなに単純なものかねえというのが正直な感想。それでも掲示板で一生懸命答えていた医師からの情報は有意義なものだった。まあ、書き込みを削除されたり脱会した医師が新たに掲示板を立ち上げるそうだから、そこを楽しみにしている。

ついでに少しだけわが家の介護状況を記しておこう。不穏な状態になったときには、水分不足か排便・排尿欲求を疑う。プラス血中ナトリウム濃度の管理。これで7割はカバーできる。その他の細々とした「とんでも行動」はまあ黙って見過ごしたり怒ったり。ただその背景はいつも探ろうとはしている。ようするに介護について書かれた教科書通りのことをやっているだけ。ただ過渡にその背景に物語性を発見しようとはしていない。これはそうすることによって平坦化したり一面化するし、状況によって絶えず変化するから。

フェルガードを飲み始めて限定的ではあるが大きく改善しているのが前にも書いたように一桁の計算。足し算・引き算とも今では確実に暗算できる。数の概念も認知できている。ただし、二桁になると途端に把握できなくなる。改訂長谷川式知能評価スケールの問4が答えられるようになった。他はほぼ全滅。これも大躍進。

これまたついでにサプリメントではないがわが家の秘薬を紹介しておく(笑)。夜に寝付きが悪かったり、徘徊行動があるときに絶大な効果をもたらしてくれるのはchihiroさんからいただいたアロマオイル・「クラリセージ」だ。これを一滴か二滴ほど枕に染みこませる。どう表現したらよいか・・・端的に言って「いちころ」である(笑)。今のところこれが「わが家では」一番効く「薬」である。ご参考までに。(chihiroさん、ありがとうございます。いつも感謝しております)
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白球有情 [介護と日常]

知人(オートバイ仲間)の奥さんのお父さんが高知県の方だということを聞いたのは、かなり前のような気がする。ゆの酢《柚子酢のこと。高知ではこういう(はずだが)》のことを知っていて驚いて尋ねると、そういうことだったと思う。その奥さんは詩人であり作家でもあるのだが、とにかく不思議が泉のようにわき出てくる人という印象があって、自分で勝手に作り上げている高知県人に繋がるイメージがない。

なにかの時に「父が高知県人会で一度どうですかと言ってましたよ」というので、それはぜひと答えたのだと思うが、記憶は曖昧で今書いていることもほとんど作り話のようでもある。ただ、「そのような話し」があったことに間違いはなく飲み会が実現することとなった。

田舎の友人が来てその話をたまたました。そういう縁も面白いなと話が進んだところで「その方はなにか野球では高知でも有名な人らしいよ」というと友人が名字はなんというかと聞くので、その奥さんから頂いた詩集を本棚から持ってきて友人に見せると「miyata。もし俺が知ってる人と同一人物なら、おまえが気安く会いに行ける人じゃないから、もし会うんだったらよっぽど気をつけて粗相がないように」と注意を受けた。

気になって調べてみると、確かに友人の云うことは当たっていた。約束の日が近づいてくるとだんだん緊張してきた。高知県人といっても私は生粋の高知県人ではない。いわば偽高知県人である。お酒を飲んで調子に乗って変なことを喋ったりしたらどうしようとか、急に意気地なしになってドキドキしてきた。

待ち合わせの場所に少し早く着くように行ったら、知人とお義父さんはすでにそのカウンターだけの店に座っていた。急に脂汗が出てきた。
土佐高で春2回、夏1回甲子園に出場し1953年夏に決勝戦を戦ったその方はさすがに大柄でとても70才を越えた人のようには見えなかった。ブログを読んでいるといわれて正直に白状すると一瞬頭が真っ白になった。瞬間失神していたのかもしれない(笑)。

我に返って、そういえば偉そうに野球のことも書いていたな、ひょっとしたら怒られるかもしれないなどと覚悟したけれど、そういう心配は杞憂だった。適当に土佐弁を交えながら固くなっている私を気遣ってくれて話ははずんだ。気がつけばカウンターに残った客は我々だけになっていた。

社会人になってから審判として甲子園に戻り30年勉めた人から聞く野球やもろもろの話は、異和感がないどころか世界が広がるものだった。余談だが倉橋由美子とは同級生だったそうだ。

久しぶりにお酒を飲んだ私はやっぱり調子に乗って余計なことを喋りすぎたような気がする。(お許し下さい)

田舎の友人の勧めで持っていった色紙をおもむろに出してなにか書いて欲しいとお願いすると、謙遜してとても困りながらも書いてくれた言葉は「白球有情」だった。

下の写真は、以前無理に頼んでおいたお孫さん。つまり知人のお子さんが書いた動物園の案内図である。今日は妻とこの無料入場券つき動物園の案内図を見ながら、この動物園にはカエルやコウモリもいて、しかもメガネクマという熊さんもいるらしい。今度行ってみないといけないねえなどと話しながら午後の時間を過ごしたのだった。piさん、どうもありがとう。miさん、また。
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遅れたオリンピックの感想など [介護と日常]

9月になった。ここ数日雨が続いていた。クーラーのやっかいになることもないような日が続いた。いつのまにあの暑い夏は退場したのだろうかと、残り香を追うように戯れにクーラーのスイッチを入れ、やはり今は必要がないというのを確認してスイッチを切る。なんとなく今年も夏とは遊べなかったなあという思いで久しぶりに晴れた今日洗濯物を干していた。しかし気温がぐんぐん上がり外に出ると汗が噴き出してくる。そうかまだ去ってはいなかったんだとわかって少し嬉しくもあった。

8月は暑かったし、オリンピック一色でなんだか息苦しい月だった。それでもオリンピックはよく見たし、興奮もした。ちょっとだけ感想を。
開会式はすごかった。北朝鮮のマスゲームどころではない。なんて貧しい比喩しか思いつかないが、なんとなくこれは閾値を超えたという感じがして、中国がそれをやってしまったことにやっぱりと思いつつ、期せずして開会式というイベントの自身の葬送まで突出して演出して見せたということに新鮮な驚きを禁じ得なかった。聖火への点火は象徴的だった。
勝手な感想では、最低最悪のアナウンサーと解説者として男子サッカーの第一戦を挙げたい。実況は誰がやったのか知らない。NHKを見ていた。解説者は山本という前五輪の代表監督だった。前半日本が消極的で簡単にボールを奪われたりしているのに、日本が試合をコントロールしているとか今のパスは素晴らしいというようなことしか言わなかった。あんまりひどいので音を消して見ていた。平泳ぎ100メートル北島へのインタビューもひどかった。これはもうレベル的に崩壊しているとしか思えない。柔道の解説をしていた篠原は面白かった。何度も笑った。
野球だが、星野は現役の時から嫌いだったので正直意地悪く見ていた。よく行く喫茶店の女将さんが星野の大ファンで、キューバに負けたときわざと最悪の予想を聞かせたところ、怒ってしまった。もちろん、そうはなって欲しくないとの願いも込めてだったのだが。実際にメダルも取れなかったのにはがっかりした。星野が嫌いだという理由は、体育会系の嫌な性格を感じるから。弱いものには強く、強いものには可愛がられる自己保身のうまさ。親分ぶり方etc。野村のぼやきの方がずっとまし。女子ソフトは予選リーグのアメリカ戦で上野を温存して負けたときメダルを確信したが、実際はそういう戦略だけで勝てるものではないというのを見せつけられて、手に汗握って興奮した。最後に勝った瞬間解説の前宇津木監督が「やった、やったー」と辺りはばからず号泣しながら叫んだときは思わず泣いた。女子サッカーもほんとに面白かった。
見た競技に全部感想があるが、収拾がつかないので最後に。
日本選手団の福田という副団長が五輪後の記者会見でサッカーや野球を暗に批判したが、これがなによりも一番つまらなかった。だいたいそういう体質の日本野球が国際式ベースボールで負け、またそこからきちんと離脱できずに中途半端に進歩的な指導者体制のサッカーが世界の壁にぶつかっているのにだ。さらに専門化に向けて加速させるのが役割だろうに引き戻してどうする。こういう人物が日本のスポーツ(体育)界を牛耳っているのだなとよくわかった。
それからスポーツ新聞などではすぐにハングリー精神がどうのこうのという風潮があるが、ほんとにハングリーだったらスポーツなんかしてないし、成績も出せるわけないじゃないか。いい加減まともに仕事しろよと言いたい、というのが短くはないけどだいたいの感想。

8月29日の妻の通院日。血中ナトリウム濃度が162と基準を超えたのでこの夏ついに点滴をした。いつもの看護師さんが、夏の間にこんなに点滴しなかったのは初めてで新記録だと妻に話しかける。それを聞いてなんだか妻も嬉しそうだった。妻が点滴をしている間ベッドの脇で、めずらしく看護師さんと親しく話をした。他愛もない話だったが彼女が今年50歳になるというのを聞いて正直驚いた。もっとうんと若いのかと思っていた。年齢を聞いて(私から聞いたのではない)まじまじと顔を見ると(おおぴっらにではない)、そうか、そう言われるとそうなのかもしれないなと思ったが、どうも最近女性がうんと若く見える。そういえば、最近近所の喫茶店で挨拶を交わすようになった「若くて可愛い」独身女性が40歳というのを知って椅子から腰がずり落ちるほど驚いた事を(わからないように)思い出した。20代の後半かと思っていたからだった。これはどうもおかしい。自分の中の基準がどんどん狂い始めているような気がする。いや、こういう事は書くつもりではなかった。看護師さんの事だった。
この看護師さん、妻の引き起こすいろんな事にかなりまいっている頃心療内科に行くように薦められて診察を受けたとき、「miyataさんやね。お久しぶり。元気になったんやねえ」と話しかけてきた看護師さんだった。聞けば手術の時妻を担当してくれていた人だった。その後ふた月ほど心療内科に通ったが、やめてしまった。それからしばらくして彼女は脳神経外科に変わってきたのだった。だからけっこう縁がある看護師さんなのだ。
その彼女に心療内科はどうして通うのを止めたのかと聞かれた。はっきり伝えて止めたわけではなく、なし崩し的に診察を受けなくなったのでちょっと引け目があった。彼女もそのことが少しは気になっていたのだということを知った。別に悪い先生ではなかったが、予約時間通りに行くのがなかなか難しい面があったのと、いろいろ薬を処方されたがそれらの薬の結果が思わしくなかったのが通うことを止めた原因だった。確かに薬によって夜は徘徊もせずに眠ったし、行動を制止しても興奮状態になって止められなくなるというのは無くなったが、意欲そのものもなくなった。結局心療内科で処方された薬は全部捨てて、通うのを止めた。聞かれて私は「薬が必要ないと思ったので」と答えると「miyataさんの今を見ているとそれで正解だったと思うわ。必要な患者さんもいるけど、みんな違うからね」と彼女は言った。妻は点滴中はいつも寝てしまうのだがこの時はずっと起きていて、話に加わった。上機嫌だった。ほとんど通じない話ばかりだったけど、彼女はしっかりと会話に参加している。
いつも不思議に思うのは、たとえば認知レベルのテストをすると(長谷川式)たいがい4点以下しかとれないし、話すことはとっぴだしやることはとんちんかんだが、こちらの言うことは全部ではないにしろ理解するし、なによりも彼女は以前と変わりない彼女の人格を保っているということだ。そのためにはもちろん妻も必死の努力をしているに違いない。前頭葉の広い範囲に梗塞を起こしていて、海馬と視床下部にもダメージを受けているのに。結局、今の状態こそ残る脳の機能を総動員して補完している最善の状況かもしれないと思ったりするこの頃である。
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今日は五山の送り火 [介護と日常]

今朝10時の気温が32度。この気温で少し涼しく感じる。午後から天気が下り坂に向かうそうだが五山の送り火は大丈夫だろうか。
五条坂の陶器祭りも終わり、お盆となった。仏壇を掃除して、お供え物をしてから妻の家の墓参りに行った。山科に通じる峠の頂付近にある墓地にはすでにたくさんの人がいた。影も溶けてなくなるような日差しの中で墓を洗い、掃き清めて花をさし、ろうそくと線香をたてて手を合わせた。妻も車椅子から降りて手を合わす。自分の父と母がすでにこの世にないことは、半分は理解していない。祖父の墓参りだったと帰りの車の中で何度も言いながら、半分はやはり父と母もあのお墓の中にいるのかもしれないと淋しくみとめて、大通りに出たときにはすでに墓参りのことは彼女の頭の中にはなくなっていたようだ。
五条通は人と車が溢れている。日暮れまで途切れることなく人が行き交う。お盆はいつだってそうだ。

娘が一人住まいをやめて家に帰ってきた。娘の部屋を開けるために家の整理をした。とにかく、すごい量の不要品を処分した。なおまだ同じ量ほどの処分品がある。これを処分すると少しは気分も晴れるかと思っているのだが。私の方は娘が帰ってきてからかなり精神的、物理的な負担が軽くなったのを感じている。娘に家事は期待できないのだが、これなら娘を含めた主夫業もこなせるのではないかと思っている。妻も娘がいると、二人で喧嘩しながらも落ち着いていられるようで、私も自分の部屋でできることが多くなった。年を重ねることで、以前には高くなっていくしかないかのように思えた障壁もたいした問題ではなくなっている。まるで介護のようだ。

妻はかろうじてこの夏の暑さに耐えて脱水症にもならず、電解質のバランスも崩さずに過ごしている。今週の火曜日に診断に行き、点滴もせずに帰ってきた。実際は、かなりフラフラ状態だったがこの暑さでは我々だってかなりフラフラなのだ。この夏は一度も点滴治療をしていない。新記録だ。デスモプレシン点鼻という、尿崩症の治療薬が効いているという主治医のお話。

フェルガードという健康食品を今年の一月から飲み始め、まもなく八ヶ月になる。二ヶ月前から「Newフェルガード」ではなく「フェルガード100」という製品に変えて飲用している。理由は経済的なこともさることながら、「ドクター・コウノの認知症ブログ」で興奮の作用をもたらす事例があるというのを読んでからだった。主にアルツハイマーやレビー小体型認知症に処方されるアリセプトや向精神薬との併用関係で出てきているようで妻の場合とはあまり関係ないかなと思ったが、ちょっとうるさくなったという感じもあったので変えることにした。この健康食品だが、劇的な改善例も含めてちょっとしたフィーバーになっているようだ。この辺りの情報を見ていると、いかに多くの人が認知症を発症してからの周辺症状に悩まされているのかをかいま見ることができ、身につまされる。この段階での医療や経験が蓄積され、広まることは大切だと思う。
ただ、周辺症状を押さえ込むことに偏りすぎるとかつて(おそらく今もあまり大きな変化はないと思うが)精神病棟に隔離したり、薬漬けにして身体とこころの自由を奪ってきたことと本質的には変わりはない。介護する側の「私」(私という個人であると同時に私は私ではなく、社会的な規範によって規定され認識される私)の問題は抜きにはできない。私の考えではいまのところ介護者の、認知症発症者との関係改善を望む意志と努力がフェルガードに辿りつくことによって相乗的な効果をもたらせているのではないかと思ったりする。いずれにしても喜ばしいことである。
私は、すこし距離を置きつつこの辺りの動きを眺めている。

自分のことだが糖尿病の数値が落ち着いたので、病院で週1回運動療法を約一時間行っている。自転車とウオーキングを中心にストレッチとか。最初は軽い運動にもかかわらず太ももが筋肉痛になったりしたがこれが気持ちよい。もっと体を動かしたいと思うようになるから不思議だ。
ぎっくり腰は痛みは癒えてはいるが、万全ではなく重い感じがずっと残っていて、これももっと体の筋肉をほぐしたら良くなるだろうと思いつつ、なかなか出来ないでいた。SilverMacさんのブログにマタタビ酒のことが書いてあり、ちょっと関心をもっていたところなんと原料のマタタビとサンプルのマタタビ酒を送っていただいた。感謝感激。毎晩、いただいたマタタビ酒20ccを水割りにして食事時に飲む。これが、けっこう酔っぱらうのである(笑)。いただいたマタタビはメールで丁寧に説明していただいたのですぐに漬けた。三ヶ月後が飲み頃ということ。一ヶ月でも飲めるそうで、ほろ酔い機嫌で腰痛が良くなればいうことはない。

一昨年だったと思うがバジルの苗を買ってきてベランダで育てたが、貧相な収穫しかできなかった。昨年はパスして今年種から育てた。間引きが早すぎるとかいろいろあったが、今年は見事に育ってくれた。バジルペーストを作っても余りあって、ふさふさしている。大成功。
だけど同時に植えたミニトマトはうまくいかない。出てきた苗を全部育てようと思ったのが駄目だったようで、ひょろひょろと背だけが伸びて実がほとんどつかない。「徒長」というらしい。だけど、実がならないからといって抜いてしまうのが忍びなく夕方には乾ききったプランターや鉢にせっせと水やりをしている。ますますひょろひょろと背が伸びて小さな花を咲かすのだが、ほとんど実をつけない。出てきた苗を全部いかすというのは、なかなか難しい。今までの収穫は二個だけ。小さな実を二つに切って妻と分けた。甘酸っぱくて美味しかった。
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梅雨は明けたのだろうか [介護と日常]

気がつけば一ヶ月以上記事を書いていなかった。友人の事故死のあと、ネットに彼の会社に関連する掲示板がいくつかあることを発見した。それらの掲示板には実際に知らなければ書けない事も書かれており、彼の会社に直接か間接に関係する人たちが書き込んでいることが窺えた。事故の後、そこでは誰かが自殺だと断定していた。内容の愚劣さや稚拙さにも驚いたが、彼はそういう世界を否定することもなく笑って飲み込んでいたのかと思うと彼の涼しげな笑顔の背後の悲哀に触れたような気がした。

・妻のこと
暑くなり始めてから、妻の血中ナトリウム濃度と脱水症状はかろうじて正常範囲内に治まっている。だけどもう時間の問題のようで、少し足がもつれだしたので明日の病院ではきっと点滴が処方されるに違いない。これはもう今のところ仕方がない。
が、最近こんな事があった。夕食前のバラエティー番組で誰かが大きな半分にカットされたパイプの前に立ち、流れてくる素麺を食べるというまったく誰が見てもそれは結果が想像できて、ようはそこに出てくる芸人のリアクションがどれほど受けるかという企画だったのだが、お箸と汁が入った器を構えて待つ芸人のところに大量の水とともにソーメンが流された。これを見ていた妻がはっきりと気持ち悪いくらいに声を上げて笑った。こんな事は今までなかった。そんなに面白いのかと聞くと、「あんまりバカバカしくて、それがおかしくて仕方がない」といった。それはまるで行方不明になっていた「妻」がふいに目の前に現れたような生々しさだった。

・私の病気のこと
糖尿病の方は、血液検査の結果で見る限りきわめて順調に推移しているという。例の可愛い女医さんは「こんなに順調な例は少ないですよ」と持ち上げてくれる。食事だが、まったく今までと変えていない。今まで通りである。節食もなにもしていないのでストレスもない。最初の数値が即入院レベルだったので、運動は制限されていたがそろそろ運動を始めようということになり適当な運動量を決めるために今度体力測定をすることになった。

橋本病はじっさい私に大きな影響を与えていたんだということを実感している。抵抗できないまま足掻いていたが、気づかなければそのまま崩壊していたかもしれない。最初甲状腺ホルモンの不足を補うチラージンS錠50という薬を一日半錠から飲み始めたが、検査の結果効果が出ていないということで一日一錠に増量された。女医さんが検査結果の後追いになるのが嫌だから診察の三日前に血液を採取して、診察日にはその結果を基にリアルタイムで処方を決めたいというので診察日の三日前に血液をとって診察を受けた。その結果、増量した薬が適量であることがわかった。集中力がないことや気分が塞いだりする症状がなくなったわけではないが、日常のちょっとしたことでの変化は感じている。
声に張りが出てきたとか(もともと大きい)、腫れぼったくていつも寝起きのようなまぶたがすっきりしてきたとか、調味料が足りなくなったらすぐに買いに行く気になるとか。結論がわかっているのに決断できないでいた事が決心できたり。今頃遅すぎるよという現実を知ることになるのだが。

その診察日に妻のことを聞かれた。前に診察を受けたとき時間が長引いて妻のデイケアからの帰宅時間に間に合わなくなり、自宅ではなくて私が診察を受けている病院まで妻を送ってもらったことがあった。それで知られることとなったのだがどんな状態かなどを話すとやたら感心される。こちらにゆとりがあると異常行動はほとんど目立たなくなるなどと、少し話すと可愛い女医さんは「赤ちゃんと同じですねえ!」と目を輝かせている。
「赤ちゃんとは違うよ。赤ちゃんは人類の記憶に。妻は人間の記憶に拘束されてるんだ」とは言わなかった。この先生、あまり詳しくないけど娘がたまに読んでいる少女漫画の主人公っぽいんだなあと思った。

六月の末頃にぎっくり腰になった。踏み台に上がって、棚の上にあるカメラの空き箱を寄せたときにいきなりギクッときた。腰痛とは長い間つき合ってきているので、もう急激な腰痛に見舞われることはあるまいとちょっとした自信を持っていたのだが、もろくも崩れ去った。10日を過ぎてもいっこうに良くならないので病院に行き、注射をしてもらってからようやく立ち直った。

しばらく読書や思考から遠ざかっていたが、ぼちぼち本も読めるようになってきた。今、竹内孝仁の「認知症のケア」を少しずつを読んでいる。三好春樹が推していた本だ。この本は認知症は脳の病気なのかと疑問から始まる。
ブッセ(Busse,E.W.)
・脳病変と行動異常を直接的に関係づけるべきではない。
・精神構造の解体を直接的に導くものは社会環境要因である。
ロットシールド(Rothschielde)
・脳の組織学的変化と痴呆の間には質的にも量的にも厳密な相関はない。
これらの主張は、認知症が単に脳の病気と片付けられるものではないこと、その人の人生と現にいま生きている世界との関係の中で生じている精神全体の働きの問題としてとらえなければならないことになる。こうした考え方は、脳の変化を否定していることにはならない。それがあったにしても広く精神全体として考えよと述べていると解釈すべきだろう。

かつて統合失調症(精神分裂病)も脳の病気といわれ、脳の異常を究明する研究が盛んに行われた(いまでも精神衛生学にその名残がある)。しかし現代では、統合失調症はその人の人格の病であって、脳の病気だという人はいない。
脳からの解放は、あらためて私たちにこの病気の成り立ちへと関心を向けさせる。そしてそのことが認知症のケアへと道を開くものだとの確信がある。(竹内孝仁著『認知症のケア』年友企画)

これは納得できる前提だ。三好春樹は認知症で脳の器質的変化に原因を求められるのは「アルツハイマー症」(アルツハイマー型ではない)と「ピック症」だけだと書いていた。
少しとばして「認知症の人々の心理はわれわれと変わることがない」という章から引用してみる。ここは著者が研修会で行う模擬体験の模様を書いている。参加者になんの説明もせずにいきなり壇上に上がってもらい黙ったまま1〜2分過ぎるのを待って席に戻ってもらう。すぐにもう一度壇上に上がってもらい、黙ったまま同じ事を繰り返す。その後もう一度壇上に上がってもらっていままでの指示された行動で心に浮かんだことを全て語らせる。
この被験者は、研修会でなぜ自分が壇上に呼び出されたのか、つまり自分が呼び出される「状況」が理解できない。
すでにおわかりのように、人は状況-くわしくいえば状況の意味、自分との関係-がわからない(一般的には認識できないという)ときに、どのような心理状態になるか、という実験で、いってみれば「認知症体験」より正確にいえば「認知障害体験」といえる。
結論からいえば、被験者は前述した認知症の人びとの心理のすべてを語る。
・まずはじめに“なぜ研修会の席で”“なぜ自分が(よばれたのか)”と混乱した。
・2度目には“何か自分がまずいことをしたのか”“また呼び出されるのでは”と不安と怯えが生じた。
・壇上に上がるとき、急に“自分が一人になった”ような孤独感を感じた。
・これが何度も続くかと思って“腹立たしい気がした”
・“ゆううつ”になった。
認知症の人びとと同じ状況に立たされたときには、私たちも同じ心理状態になる、ということを理解することは、ケアを行うにあたって極めて大切である。
認知症のケアにあたる人びとから、時に次のような発言がある。
・認知症の人びとにも人格が残っている。
・認知症の人びとにもプライドがある。
これらの発言は“認知症の人はどうせ何もわからない”との侮蔑的な態度と、彼らの心理についてきちんと考えたことのない軽率な意見だといえる。
一般に、認知症のみならず精神疾患にかかる人びとはもっとも傷つきやすく、デリケートな精神をもつ人びとだということを知らない。(同上)

正常と異常の境界は曖昧であるというより、異常はむしろ正常の中にあると読みかえる事ができる。だがしかし、認知症に罹るとその人格すべてを異常が覆うかのように正常な我々は認識してしまうのはなぜか。というのは介護する我々の側を見る疑問。以前に触れた「なぜ老人を介護するのか」の著者大岡頼光の提唱する人格崇拝の論理に疑問を感じたのはここと関連する。制度としての人格崇拝の論理(内実がまだ理解できないけれども)では、介護される側の心理や人格は置き去りにされ、介護する側の現場主義(技術優先主義)に解消される可能性を捨てきれない。
問題行動を回避できれば介護の苦労は激減するが、そのために介護の問題を現場の技術に優先させるのには違和感を感じる。三好春樹が(ですら)新聞のコラムで、介護の専門職はある時は役者になることだってあると書いていたのを読んだとき、否定はしないし受け入れざるをえないと思うが、そのこと(違和感)を感じた。
そんな介護のハウツーまがい本が溢れている中、竹内の本は平易でありながら本質的な理解に誘ってくれる本格的な啓蒙の書だ。周辺症状の三分類など示唆に富んでいる。とうぶん、じっくりこの本に没頭するつもり。


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最近の様子 [介護と日常]

■「あんた、ちょっと起きて」
今朝6時過ぎにベッドの上から妻が私を起こす。5時過ぎにトイレに行ったはずなのだがと思いつつ返事をするとこんな事を言う。
「100円借りているんだけど、10回に分けて返すには10円ずつ返せばいいよね」
「その通り」
「100円を10円にするにはどうしたらいいと思う?」
「お店に行って替えてもらったら」
「ああ、そうか」と言って静かになったから見ると寝ていた。

■木曜日、会社の人間がきて仕事の打ち合わせをしていた。ヘルパーさんが帰ってから妻が落ち着かなくなった。
冷蔵庫をしきりに開けたり閉めたり。ついにはキュウリやトマト、それにレモンを出して包丁で切り始めた。
私の心にさざ波が立ちはじめたが、人もいるので見守るだけでするに任せていた。
切ったものをテーブルに出して
「後はビール?」という。
「ああ、ちょっとお仕事中だからビールはいらない」というと、
「いらへんの?」と、拍子抜けのような声を出して居間に座った。
下の写真が妻が切ったもの。なんて事はなくきれいでもなんでもない写真で恐縮だが、ここ数年で私が一番驚いたものである。
早速写真を撮った。会社の相棒はなぜ私がそんな写真を撮るのか不思議だったかもしれない。照れくさくてちょっと言い訳をする。
これは画期的な出来事なのだ。トマトはきちんと等間隔で切り、キュウリときちんと分けて器に盛っている。さらにレモンは搾るように少し太めに等分している。こんな事ができるようになるのだったら、以前に妻が切って盛った野菜を写真に撮っておけば良かったとちょっと悔やんだ。

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■最近おむつの使用量が極端に減ってきた。先週の木曜日(ゴミ出しの日)から金曜日まで8日間で汚して交換したのが3枚。一週間でゴミに出したのは計9枚という少なさ。毎回ゴミ出しの日におむつだけのずっしりと重いゴミ袋を出していたのが嘘のようだ。

■ミニトマトとバジルを植えた。両方とも種からまいた。説明書には四、五日で芽が出てくると書いていたのに一週間しても出てこない。10日ほどしたとき、土の中からほんとうに小さな芽を見つけたときは嬉しかった。しかしそこからがまた長い。バジルの芽がもやしの赤ちゃんくらいの時に我慢できなくなって間引きした。息子にそれはいくら何でも早すぎるだろうといわれた。残った小さな芽の何本かがあっという間に息絶えた。消沈していると、残った芽が最近目立って大きくなってきてホッとしている。ミニトマトの方はまいた種が全部順調に伸び始めた。今度は間引きができない。全部の苗を家にある鉢とプランターに植え替えた。今度は、これだけの数のミニトマト育てたらベランダが大変なことになるよと息子に言われた。実がつき始めたら誰かに配る他ないようである。

Mさんのブログを読みながら考えさせられることは多い(というか、消化しきれないほど多すぎる)。介護する者にとってつきまとう自己嫌悪。たとえば妻の問題行動に対して自分の感情が激しく揺さぶられ、その過剰に抗し得なくなった結果に対する激しい自己嫌悪はなにを語っているのか。問題行動を押しとどめようとする根拠は「問題行動」と断定する社会規範の倫理である。問題行動を押しとどめる前提には、かならず相手にもその価値が容認されるべきであると考えられているだろう。だが相手にその前提がない場合、これは成り立たない。感情が押さえきれなくなった時点で、自他を規定する規範の倫理は相手を容認できない非寛容の暴力的存在として、もっとも非倫理的な自分を現してしまう。倫理的な態度は実は誰からも許されてはいないのだ。(いや、もっと大きな自分を飲み込んでしまう体系の元では、例えば宗教が根拠になっている場合は除外する必要があるかもしれない)ここには質を変えた反転がある。倫理的な態度を推し進めると反倫理の、いわば倫理の裏切り者として自分に返ってくる。
[memo]自己嫌悪こそ、どこにも属することを拒否されているからこそ手放してはいけない残された拠点だ。
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占い遊び [介護と日常]

「橋本病」の薬を飲み始めて5日目。医師は効果がすぐ出るものではないので気長に服用を続けるようにということだった。しかし、服用し始めて懐かしい自分がかいま見えるような気がしている。これは薬の効果なのか、それとも服用以前にすでにその気になっていたものか・・。

ブラウザーを開けるとその日の運勢が出てくる。いろんな占いがあるようなので、遊んでみた。以前脳内メーカーというのが流行してリンク仲間の人もやっていたので自分もやってみた。そうしたら、真ん中に一つ「嘘」があってその周囲はすべて「H」だった。結果に呆れるというより妙にまじめに考えさせられた。ひょっとすると自分の意識ってこんなものかもしれないとその時は思ったのだった。

いろんな占いがあるもので名前と生年月日に血液型を入力すると、まあだいたい似たような結果になる。星座と血液型の性格判断を足して二で割ったようなものだ。その中に文庫占いなんてものがあった。
miyataさんは福武文庫 です!

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福武文庫さんのあなたは、大人の落ち着きと子供の無邪気さの両面を持ち合わせている人です。急なアクシデントにも余裕で対応したかと思うと、新しいゲームに大はしゃぎするかわいさも。そのギャップがたまらない魅力となり、周りの人をとりこにします。それが時には行き過ぎて、人を振り回してしまうこともありますが、憎めないと思われるのは、あなたの人徳でしょう。TPOに合わせてのふるまいを器用にこなし、どんどん社会に進出していくので、うらやましがられる反面、やっかみを持つ人もいます。けれど、それさえも自分を育てる栄養にしてしまうのが、あなたの強さです。『どれが本当のあなたなの?』と興味を持たれることも多いはず。ミステリアスな雰囲気を武器に、世間を楽しく泳いでください。

福武書店が文庫を出していたことをはじめて知った。で、選ばれた文庫がなんでダブリン市民なのかの理由はとんとわからない。ジョイスはほとんど読んだことがない。というか、感受性だけに頼った読書では読解できないというのを文庫の(岩波文庫だった)巻末にあるそれぞれの短編に対する長い解説を読んで知り、打ちのめされた記憶があるだけだ。
ユリシーズに至っては、寺山修司が地方競馬で初めて競走馬のオーナーになったとき持ち馬につけた名前の記憶としてしかない。寺山はユリシーズが初めて出走したときに応援に行って、まるで自分が走る姿を見せられたようで恥ずかしくなったというようなことを書いていたと記憶している。
実は寺山の著書もほとんど読んだことがない。私が読んだ寺山の文章は、若い頃喫茶店でモーニングを食べながら目を通すスポーツ新聞に連載されていた競馬に関する文章がほとんどだった。これが面白くてよく覚えている。
初めて寺山修司の名前を知ったのは短歌でも演劇でもなかった。15歳の時に聞いたカルメンマキという少女が歌ったヒット曲「時には母のないこのように」という歌の作詞者としてだった。母を亡くしてすぐだった私は、「だけどこころはすぐ変わる。母のない子になったなら、誰にも愛を語れない」というところがなぜなのか理解できなくて胸を痛めながら少しばかり考え込んだ。今考えてみても実はまだこの歌詞の意味がよくわからない。同じようにユリシーズを読んだことがない私には寺山がどうして自分の馬にユリシーズと名付けたのかわからない。

アイルランドは86年に一度だけ行ったことがある。ダブリンではなくベルファストの郊外だったと思う。フェリーで渡った。海は荒れて多くの乗客がそこかしこで呻いていた。上陸してベルファストの市中にはいると街のあちこちに装甲車がいて、道路は至る所で鉄条網のバリケードで規制されていた。着いたときは厚い曇が覆い雨が降ったりやんだりして、果たしてここは晴れることがあるのだろうかと思うほど暗い印象だった。
ホテルに着くとチェックインは一緒に行ったイギリス人に任せて広い敷地を散歩したり、街をぶらついた。表に出ている店やパブの看板にはなぜか大きなスプリングがついていた。不思議に思って入ったパブで聞くと風で看板が倒れないようにということだった。強い風に吹きさらされるところなのだということを知った。
小一時間ほどしてホテルに戻るとチェックインがまだ終わっていなかった。一緒に行った相棒は私の姿を見つけるとすぐによってきてチェックインしてくれという。なにを喋っているのか理解できないし、なにを喋っても理解してくれないというのだ。冗談だろうと顔を見るとほんとうに困った顔をしている。仕方がないのでフロントに行き片言の英語で話すとわずか5分ほどでチェックインできた。部屋のキーをもらって渡すと「信じられない。なぜお前は理解できたんだ」という。実はなにも理解してチェックインできたわけではなかった。自分たちが部屋を予約しているということを相手に伝えただけで相手が理解してくれたに過ぎない。相棒は「おれは何度も自分の名前を言ったし書いたのにチェックイン出来なかった」という。嫌われたんじゃないかと冗談のつもりで言ったのだが彼は首を振りながら自分の部屋に消えその夜は出てこなかった。

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人工骨その後 [介護と日常]

8日にようやく主治医に出会えた。主治医はとりあえず割れた人工骨が出てきた頭部を触診し、パソコン上にテンプレートとして保存されている頭部のイラストを呼び出して、位置を決めて赤くマーキングしてから血液検査結果を読む。次に出てきた人工骨の破片を私に要求して確認する。
1.割れて出てきた人工骨は、全体の三分の一であること。
2.炎症値、及び白血球の数値から感染症の疑いは現段階ではないこと。
3.頭部に残っている三分の二の人工骨部分が出てきた破片と同様に尖っているので、また傷つける可能性はあること。
を簡単に説明してくれた。その上で腫れが出たら切開して取り出すという方針を出した。
炎症がいつ起こるのかわからないので体温を測るようにと言われた。微熱がもし続くようであるならすぐに病院に来るようにとも言われた。

人工骨は固定しているものではなく、髄液を排出するためのパイプを通す穴を開けたところにかぶせてあるだけらしい。セラミックであるが、お茶碗のように固いものではなく、頭部に大きなショックを受けなくても割れる可能性はあるという。例えば上下に圧力がかかると割れる可能性もあるし、圧迫でも割れる場合があるという。そんなに柔らかいものなのかと驚かれるかもしれないがこれは私には納得できるものであった。単純に考えてあまりに固いものである場合は逆に本来のものを壊してしまう可能性があるわけだ。だが最近よく骨折などで使われるチタンなどの金属はどうなのだろうかと頭によぎったが、それは聞かなかった。
異物を排出するという事例では、色々あるそうである。ただ、主治医は露出した事例は知っているが鶏が卵を産むように完全に排出してしまった例は今回初めてだと言ってその日はじめて微笑んだ。看護師も他の先生はほんとにびっくりしていたんですよといって笑顔を見せた。
ナトリウム値などは下がっていたので、点滴はなし。足下もずいぶんしっかりしてきた。病院の駐車場は一階に停められずに二階になったが昇降も問題はなかった。

診察が終わって二人でオムカレーというものを初めて食べた。オムライスにカレーをかけた物で、おそるおそるの注文だったのだが意外な美味しさに二人で顔を見合わせて笑った。病院を出てからホームセンターに行き、たくさんのトイレットペーパーと園芸用の培養土を買った。大きなトイレットペーパーは妻が運んでくれた。ホームセンターを出てから陸運局に行き、乗らなくなったバイクを廃車にした。書類を書いて提出し、廃車証明を出してくれるまでずっと落ち着いて一緒に待っていてくれた。

家に帰り着くとさすがに疲れたらしく、「ちょっと横にならせてもらうわ」といってベッドに横になってそのまま眠ってしまった。念のために家中の鍵という鍵を閉めてから夕食の買い出しに出かけ、その足で少しドキドキしながら20分だけ喫茶店でコーヒーを飲んだ。暗くなった道を急いで家に帰ると妻はまだスヤスヤと寝ていた。

暗くなった家の中でぼんやり考えた。鷲田清一の講演の話を思い出した。鷲田清一はケアを考えるきっかけとなったあるエピソードについて語った。それは鷲田が何かの病気で入院し手術をしたときのことで、斜め向かいのベッドにはほとんど目を閉じたままの寝たきり老人がいた。そこに看護師見習いがやってきてカーテンを閉じた。驚いたことに見習い看護師は寝たきり老人にドサッと覆い被さるように倒れ込み寝てしまったのが隙間から見えた。それは15分くらいの出来事だった。鷲田はまだ若くて血気盛んな頃で、教育者の端くれとしてなんとけしからん事をする看護師かと怒り、手術後の痛みが回復しかつこんな事が続くのなら説教の一つでもと考えた。翌日も、その翌日も看護師見習いはやってきて老人のベッドで仮眠をとる。ついに今日こそはと待ちかまえていると、やはり看護師見習いはやってきてカーテンを引き、ベッドに倒れ込んだ。叱りつけようと思ったときその老人の顔を見て鷲田はギョッとした。目をつぶったままの寝たきり老人が目をぱちっと開けて周囲をきょろきょろして見ていたのだ。苦しがっているのだろうかと思って見ると、そうではなかった。老人は廊下を観察しているのだった。婦長や医師が通りかかると倒れ込んだ看護師見習いの立派すぎる肩や腕を細くなって今にも折れそうな手でとんとんと叩いて知らせてやっているのだった。鷲田は叱るのを止めた。と同時にものすごく感動した。一日中目を開けることもなく、そこでそのまま人生の最後を遂げるであろう老人が慣れない仕事で疲れ果てている看護師見習いを守っていたのだった。人間にとって自分が果たすべき役割の大切さをその時知った。役割を奪ってしまう医療や介護への疑問に繋がっていく発見であったという。

妻の寝顔を見ながら、彼女の充足にふと触れるような気がした。それは私にとっては小さくない痛みの発見でもあった。
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びっくりしたこと、病気と診断されてわかったこと [介護と日常]

三週間ほど前の事だった。お風呂から上がって髪を拭いているときに「痛い!」と言ったので調べてみると右側頭部のこめかみ付近、ちょうど手術で骨が陥没している付近に小さな腫れ物が出来ていた。ニキビより少し大きい程度のものだった。その後は妻も気にするそぶりもなく、こちらも忘れて何かの拍子に頭に触れたとき、やはり「痛!」と言われてどれどれと確認する程度だった。
やがて、少しずつ大きくなって先端にちょっと膿が溜まったので針でつついて膿を出して消毒しておいた。化膿はそれで治まったが少し広い範囲が白っぽくなり始めた。脂肪の塊かと思っていた。絞りだそうかと思ったが触ると痛がるので放置しておいた。

異常に気がついたのは先週末のことだった。白い部分が盛り上がってきた。かなり大きくなっている。これは病院で診てもらった方がいいかなと思い始めたのが今週の月曜日。火曜日になるとその白いものが頭皮を破って少し露出してきた。親指の爪ぐらいの大きさで露出がどんどん大きくなる。まるで頭蓋骨の破片が出てきたのではと思ったほど驚いた。病院に連絡すると休みのことでもあり、どうもこちらの驚きと心配が伝わらない。担当医が出てきたときに受診してほしいと言われて待つことにした。ただ妻は痛がったりしなかったし、大きくなった露出物に触っても痛がらなかった。相当固いものだった。

夕食後ベッドに横になっていた時、息子が薬を飲ますために妻を起こした。すると枕に陶片のようなものが落ちているのに気がつき洗い物をしていた私を呼んだ。私に拾ったものを見せながら出てきたんではないかという。こめかみを調べるとぼこっと穴が空いている。明らかに頭から出てきたものだった。慌てて病院にれんらく。救急の外来に相談した。出血がひどかったり熱が出たり、気分が悪いとかの症状がなければ大丈夫だから、翌日病院に来てほしいということでその夜は消毒をしただけですませた。妻の方は全然我関せずという感じですぐに寝始めた。

5月1日は年に二回の病院休み。担当医もいない。頭から出てきたものを持って救急に。若いインターンらしい医師だった。丁寧に診断をして(主に触診)、傷口を調べたりして、とりあえず緊急の処置は必要なさそうなので、専門の脳外科医に診てもらうようにということで帰ってきた。傷口は信じられない速度で回復していて、嘘のようにきれいになっていた。

金曜日、ものすごい人で埋まった病院に行き診てもらった。幸い脳外科はそれほど多くなかったらしく10時半に受付をして12時に診てもらうことが出来た。
結論は人工骨が何かの衝撃で割れて、その片割れが出てきたということだった。担当医はその日外来の当番ではなく、病室の処理をしていたので連絡を取りながら、感染症に対する抗生物質を出してもらい13日の予約診療を前倒しにして、8日に調べてもらうことになった。現時点で緊急性はないが残った人工骨を取り出さなければならないかもしれない。
本人はケロッとしている。むしろすっきりしたせいなのか快調である。

驚いたのは救急で診てもらったときの医師の問いかけに対する答え方。横でハラハラしながら聞いていると、とにかく秀逸な答えをするのである。
「ここを触ってどんな感じですか?」「それを言葉で表すのは難しい。もっと簡単に答えられるように聞いてください」「右と左で感じ方が違いますか?」「多少違う。右の方が変に感じる」こういう検査が顔、腕、足と行われた。
若い医師は妻のカルテを見ながら私の方を向いて「奥様は脳血管性の認知症なんですか?」と驚いている。私が頷くと医師は妻に「お誕生日は?」と聞いた。すんなりと答える。
「今日は何月何日ですか?」
ここで自信たっぷりだった妻はちょっとだけ動揺する。「え〜と、今日は10月の2日かな」若い医師はやっと疑問が解けて安心したのか微笑みながら「はい、今日はもう帰っていいですよ。明日また専門の先生に診てもらってください」
こんな具合だった。病院から出た後、久しぶりに外で食事をして帰ってきたのだった。
それにしても、いつ割れたのか思い当たる節がない。以前の大きな転倒でひびが入り、何かの拍子に割れたのかもしれない。その異物を体外に押し出すメカニズムを目の当たりにして感心した。

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妻の頭から出てきた人工骨  大きさはこのくらい

糖尿病と橋本病
4月上旬、ひどい目眩に悩まされた。横になってさあ寝ようかとするとぐらりと揺れて思わず跳ね起きたり、炬燵に座ってテレビを見ている最中に揺れはじめたり、立っているときや歩いているときでも揺れはじめる。だいたい三秒くらい。気になるので病院へ行った。今度はかなり丁寧な検査を受けさせられた。血管も写る脳のMRIに動脈硬化を調べる超音波検査、頸椎のレントゲン、肺のレントゲン、三半規管、血液検査等。
脳の動脈瘤なし。動脈硬化はなし。頸椎に多少の変形あり。三半規管異常なし。血液検査は血糖値が高いので専門医にまわされた。血液を採取して別の日に専門医のところへ。専門医はまたしても苦手な女医。そこで糖尿病だと宣告された。ところがこの女医さん、雰囲気とは全然違う不快寸前の手前の甲高い声で、そのギャップがイメージ的に少女漫画チックで可愛かった。「糖尿病は一生の病気です。これから一緒に頑張っていきましょうね」といわれて感激してしまい、「頑張ります」と素直に答えて、血液採取、眼底検査、末梢神経検査、尿検査等を受けてから帰宅。日を改めて結果を聞きに行った。合併症はなし。糖尿病の早期発見ということであった。しかし、甲状腺異常が見つかり「橋本病」と診断された。

ここしばらく何事に対しても消極的になったり、集中力もなくやる気も起きない。家から出るのも億劫になり、気分も塞ぐ時期が続いた。弱気になって病院で相談してみようかと思うときもあったが、ずっと拒否してきた。その間、副鼻腔炎を手術したりして頭痛が取り除かれても、重たい気分が晴れることはなかった。しかし、橋本病と診断されたことによって自分が実にすっきりとした気分になっているのを発見した。支点を持たない不安が取り除かれ、病気という支点を得たからだった。ただ、この結果をよく考えてみると「病気」と診断されることにより自分が社会との通路を見つけた安心感ではないかと思い至った。ということは欲していたのは自分の体調や健康ではなく、遮断されているかのように見えた社会とのつながりだったのかと自分の不安の底の浅さに少々しらけた。病気は時に人を孤独にしたりあるいは自分以上の「人間性」をまとわせるように見えるのは、病気そのものがではなく、病気に対する意識が社会との接点、関係性において立ち現れてくるからなのだろうと一人納得した。妻のように病識がない人間の、自由度と不安は底がないのかもしれない。

ところで、私の病気に対する心配は無用である。血糖値はすでに治まっている。ただし、薬は毎食前に服用している。目眩も一般的な目眩の薬を服用することで消えた。薬も飲んでいない。食事指導を受けた。三日間の献立を全部書いて提出した。優等だと太鼓判を押された。もともと妻は減塩食と中性脂肪を抑えるための献立がメインであるからだ。食事指導をしてくれた女性は、これでどうして急に血糖が上がったのか不思議だと言った。だけど、キリッとして美人だがどこかバランスが崩れているから可愛いと思える女医さんに「一緒に頑張りましょうね」と言ってもらったから、これから糖尿病患者として歩んでいくつもりでいる(笑)。
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桜の記憶 [介護と日常]

時まさに桜満開で諸氏乱れる頃、新聞に多田富雄(免疫の意味論の著者)が桜に対する違和感と嫌悪感を書いていた。
「ソメイヨシノは自分で繁殖できない。接ぎ木によって植えられたもの。もとは一本のソメイヨシノに行き着く。
花はいわば生殖器であり、種を残せない桜が一斉にその生殖器をひらくさまは不気味というほかはない」と。
多田は脳梗塞で倒れほぼ全的な介助が必要となった。医療制度の変更でリハビリが続けられなくなり、医療制度の変更に対して抗議声明を出していた。ソメイヨシノ(桜)についての見解はなかなかストレートな暗喩(矛盾する書き方だが)だと受け止めることが出来た。
なるほど梶井基次郎の小説も、多田に感じた面から読むとちがった貌が見えてくるのかなと思ったが、個人的な納得を見いだすに過ぎないだろうと読み直すのをやめた。

中学の卒業式の事。母は病に倒れて遠くの病院に入院していた。父は仕事だったから来るはずもなく、なんの感慨もなく一人で卒業式を終えた。田舎のことだから、大半の同級生は就職し三割ほどが高校に行くことが決まっていた。式場から出て校庭に立つとそこら中に涙があふれていたような気がするが、確かな記憶ではない。少数の友人と短く声を交わして帰ろうとしたとき、田舎では数少ない母の知人が(同級の女子の母親でもあった)私を呼び止めてさめざめと泣き始めた。そこに数人の母親たちが集まり私を囲んで泣き始めた。やんわりと受け流してその場を去るという術はその当時の私にはなかった。意外なことに自分が痛ましい存在としてそこにいることに気がついた。涙と慰めの言葉の中で、いたたまれない気持ちのまま立ちつくすしかなかった。私はもうここ(田舎)にはいられないだろうと思った。その時確かに、校庭に植えられたそれほど大きくはない桜の花びらが舞い散っていた(ような気がする)。

妻と一緒に買い物に出かけたとき家のすぐそばにある中学校の校門脇にある桜が満開であった。そこを通り過ぎるとき、卒業式であることがわかった。ふと昔のことを思い出した。

伯母の死以降、いろいろなことが重なった。
先月の末には息子の彼女の家に挨拶に行った。また、今月に入って妻の実家が引っ越しをした。引っ越しの前夜妻を連れて行った。妻はまだ片づけられていない実家の仏壇の前でずっと動かなかった。彼女は夜中に帰る場所を失った。
神戸にあった家を処分することにした。地主と交渉し、家の売却も地主に任せることにした。更地にする場合、解体費用を私が一切負担しないという前提である。伯母の死と共にmiyata家前世代の記憶に繋がる場所は消滅する。
今住んでいる家もいずれ引っ越そうと考えている。妻と二人では広すぎる。そのためにこれから余分なものを徐々に処分するつもりだ。今年は、妻と二人だけの生活になるための準備の一年になる。

ところでフェルガードを飲み始めて約三ヶ月。途中入院などしたが、それは季節的なもので脳の機能障害によるものだからここが改善する可能性はほとんどない(今の段階では)。が、フェルガードはやはり効果があると言わざるを得ない。話す言葉が違ってきた。例えばテレビで野球を見ているとテレビの画面を指して「これは『どこの』『球場』か」と言いはじめた。もちろん一日を通じてこういう状態が出てくるのはわずかなときなのだが、ここの部分が拡大すれば重度の見当識障害から離脱できる可能性もなきにしもあらずではないかと喜んでいる。仮にこのフェルガードがまったく効果がないとするならば、脳血管性認知症患者の大半が術後何年かを境に自然回復する傾向があり、見当識障害などの改善が見られるという開示された情報・知識に置き換えられる必要があるだろう。
とはいえ、抹茶の粉を化粧品と勘違いして顔に塗ったり歯磨き粉を歯ブラシにつけて髪を梳くなんて事は普通に当たり前の状態だから相変わらずといえば相変わらずの毎日ではある。


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