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<最悪の日>を重ねてはいけない。 [介護と日常]

容態が急変した。
病院から連絡を受けたのは午前11時過ぎだった。病院に行き、医師の説明を受けた。
昨夜から今朝にかけて、肺に血が溜まり500CC抜いたこと。脳に出血が現れたこと。これから再度のCT検査によって手術をするか否かを判断するので待機していて欲しいと言われた。
CT撮影後、若い脳外科医が現れて現状をくわしく説明しはじめた。通常とは違うイレギュラーな展開をはじめたことは理解できた。複数の骨折が負担となり、血が止まらないこと。この状態では手術などの処置が危険すぎてできないこと。したがって、当面濃厚血小板や輸血を継続して血液の状態が改善するのをみて手術のタイミングを計るしかないこと。危険な状態であること。これが私たちが得た情報である。
脳の出血はショックだった。二カ所に出血が見られる。前頭葉の出血は打撲の際の微少な傷から出現したと言えるがもう一カ所はクリップで留めた箇所に重なる形で出血が見られるので動脈瘤の破裂の疑いも拭い得ないとのこと。明日、その箇所を特定するために脳血管の三次元撮影をするとのこと。

皆さんのコメントにお答えしようと思いましたが、予断を許さない状況となりいったん帰宅後今夜及び明日からの準備などに追われております。ご容赦下さい。私自身は、きっともう一度生還してくれることを信じて疑っておりません。このまままさに惨敗としか言いようがない形での介護生活の終わりを受け入れたくはありません。このブログの数少ない読者の皆さんにお願いします。妻がもう一度わが家に生きて帰って来られるように祈ってくれますことを。
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<最悪の日>はなんども訪れる [介護と日常]

昨日、少々大変なことが起こった。妻がベランダを乗りこえて駐車場の屋根を踏み抜き約二メートルの高さから落下した。命に別状はなかったものの(現段階で)、頭部裂傷、鎖骨・肋骨・背骨など複数骨折の重傷を負った。

とつぜん一時仮死状態になった日からこの一ヶ月、対応に苦慮していた。それはまるで在宅介護が始まった頃のような混乱の日々の再現だった。今までの経験や蓄積はほとんど役にたたなかった。意思の疎通が難しくなりまるで連想ゲームのように次から次にわき出てくる想念に私も妻も振り回された。わき出た想念に忠実であろうとしてむなしく突撃を繰り返す妻を止める術はなかった。
私は、こういう状態に至った原因を画像では確認できない新しい微細な梗塞が「記憶」に関わる経路に影響を及ぼしているのではないかと想像した。ひとつの確認を飽くことなく繰り返す状態がたまたま読んだ「七秒しか記憶がもたない男」で記述された状態に酷似していたことにも依る。
私がではなく、妻は出会っている新たな世界の状況とどう折り合っていくのかを彼女なりに猛烈な勢いで探っていたのだろう。それは不安と消滅の無限ループのような状態だった。日常生活の環境全てが危険と隣り合わせだった。ガス・水道・電気・家具・階段etc。

休みになれば、子供達が協力してくれたので私も少しは休むことが出来たが、伸びきったゴムに回復するゆとりもなかった。子供達も妻の様子が明らかに変調したことを認め、休みの日には親子三人で妻の危険行動を制御する日々が続いていた。私の円形脱毛症を発見したのは娘だった。その日娘は私の肩を揉んでくれた。
妻がとつぜん立ち上がって「あ、あれを忘れてた!」と突撃をはじめる約七割が火に関わることであることは記憶に留めておいてもよい。「卵が溶ける」「お餅が溶ける」「薬が流れる(陶器の上絵)」等々。
ある固着というか固執の代表のひとつに「窯の火」があることは以前からわかっていた。それは、倒れた時が「窯詰め」を終え火を入れる準備が整った夜のことだった。だからこの事は、意識が戻ってからずっと彼女を不安にさせる要因だった。息子と一計を案じ当時の窯詰めを再現すれば囚われた記憶から解放されるのではないかと、年明けに予定されている息子の出展の窯詰め作業に彼女を連れて行き、さらに何枚かの見本をつくって絵付けの作業をしてもらい、それを窯に詰めて焼き上げることにした。それは四日前のことだった。

妻は手回しロクロに皿を置いて、上手くはできないけれども「芯を出す」ことも覚えていたし、上手には書けないけれども筆の持ち方や絵の具を筆に含ませるその加減などは時間の断絶は感じさせないほど自然に作業を続けた。筆にたっぷり含まれた顔料は土肌に最初の痕跡を残すと土の中に染み込んでいき、次に炎にあぶられまでその姿を隠す。妻は入れた線を忘れてはまた上書きし、書いた文様を忘れては上書きする。休憩をしなさいといっても聞き入れずに黙々と作業を続けた。五時間も!
息子は窯詰めをしながら「お母さんには時間の観念が無くなってるな」と言った。
私は逆に「時間に囚われてしまって逃げ出せないでいる」と答えた。

この作業で見せた集中力は目を見張るものだったが固着した記憶のロック状態を解除できたかというとまったく無力だった。家に帰ると相変わらずとつぜんわき出た想念に支配されて家の中を駆けめぐる。だが、作業で見せた集中力は今後の鍵になるかと思われた。

運ばれた救急病院でのことを少し書く。救急救命センターの初療室に運ばれて二時間、なんの情報もなかった。待合室で待っているとストレッチャーの上で間断のないうめき声を上げながらCT撮影に運ばれる妻の姿を認めて命に別状はないかを確認しようとしたが、医師ではないのでと明確な答えは得られなかった。撮影が済み、そのまま初療室に入りまた閉ざされた。一時間後医師に呼ばれた。頭の傷は心配ないこと。背骨の骨折もたいしたことはないこと。認知症があるし、安静患者は入院をさせてないので他所の病院を探すことになる、というものだった。この状態だったら家に連れて返っても良いとも言った。妻を見ると意識はなく、ずっとうめき声を上げているだけだった。
医師から相談員を紹介されて、入院させる場合の希望を聞かれたので主治医のいる病院を最初に希望した。運ばれた救急病院は府庁前で家から少し遠かったので、近所の病院を希望した。運ぶ場合、ストレッチャー対応の介護タクシーを紹介された。だが、どこの病院も空きが無く、また認知症に対応できないということで断られた。主治医のいる病院はちょうど明日、つまり今日が定期検診日だったので救急ではなく診察で入院も対応してくれる可能性を示唆してくれた。
そのうち、また妻が初療室から出てきて忙しくレントゲン室に入った。今度は顔色もなく、うめき声もなかった。そして撮影が済むとまた初療室に戻った。三十分後、同じ医師が出てきて、複数箇所の骨折が原因で血圧が低下している。輸血をするので承諾書を書いて欲しいと言って、症状の説明をしてくれた。そして、このまま預かって(つまり入院させて)治療を継続しますと言った。この間、何度も何度も救急車が患者を運び込んできた。緊急処置が必要ではない患者は入院させないという理由がよくわかった。個人の要望を通すには難しい戦場のような現実だった。
病院に運び込まれたのが午後二時。初療室での治療が終わって集中治療室のベッドに移されたのが午後八時過ぎ。帰宅したのは10時前だった。子供達二人が待っている居間の暗さは、倒れた七年前を彷彿とさせるものだった。

ここまで書いて少し落ち着いたので、事故の時の様子を少し書きとめておく。朝起きてから朝食が終わった後も落ち着かないいつもの状態だった。洋服を着ては脱ぎ、トイレに入っては出てを繰り返していた。昼食後、ベランダに出たがったので三度ほど強引に連れ戻した。寝室はタンスの中身や棚が散乱し、目も当てられない状態であるのも最近の普通の光景だった。twitterでちょっとその惨状をぼやいて洗い物をしている時だった。水道の音に紛れて「バサ」っと抜けるような音が聞こえたので振り返ると妻の姿がなかった。すぐに寝室を見て、ベランダを確認したが姿がなかった。ベランダの下の駐車場の屋根を見ると大きな穴が開いていた。なにが起きたかは明らかだった。階下に駆け下りる前に救急車を呼んだ。そして駆け下りて駐車場で倒れている妻を認めた。上着を脱いでTシャツ姿だった。意識はなく、頭部からの出血が血だまりになっていた。妻は衝撃を忘れるかのようになにかの歌を口ずさんでいた。呼びかけるとそれに応えるように言葉にならないうめき声をあげはじめた。少し獣のような声だった。頭部から流れる血とアスファルトにできた血だまりは交通事故現場を想起させ、一瞬もう妻は助からないかもしれないと思ったがそれを吹き払って大声で呼びかけ続けた。その声に近所の人が集まってきた。最初に来たのは救急車ではなくて消防車だった。ベランダとか屋根を踏み抜いたということが消防車出動につながったのかもしれない。大きな消防車が家に横付けされたものだから騒ぎはさらに大きくなった。大家もやってきた。消防隊員はすぐに妻の首を装具で固定し、止血をして担架に身体を固定して、救急車に引き渡した。他の隊員達は現場を撮影するもの、救急車と連絡を取るもの、事情を聴取するものなどとよく訓練された動きをしていた。呼びかけにはほとんど反応しないまま救急車に乗り込み、受け入れ病院に向けて走り出した。救急車の運転は意外にあらっぽく、それに路面のショックがずいぶんダイレクトに伝わるのが気になった。その中で救急隊員は休むことなく受け入れ先病院の担当者と連絡を取りながら汗だくになって救急処置を続けていた。私に出来ることは、ただ声をかけ続けることだけだった。

入院は二週間の予定だが、許されるならば(病院の事情も含めてきっと許されると思うが)年内に連れて帰ろうと思っている。正月は家族四人で迎える。わが家にとっても倒れた時の年のような正月の悪夢の再現はごめんだし、仮に意識はなくともその方が良いからである。とりあえず命ある間は夫婦で、または家族で正月は迎えるのだ。

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※スケッチや粘土細工ではなく、倒れてから初めて素焼きの皿に絵を描く様子。このひと月とは正反対の度を超した集中力を発揮した。

七秒しか記憶がもたない男 脳損傷から奇跡の回復を遂げるまで
この本の感想は後で書くかも知れない。
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11月がもう終わる [介護と日常]

気がつくと、11月も終わりだ。もう師走ではないか。得体の知れないざわめくような不安感が襲ってくる。京都は紅葉の時期を迎えて人で一杯だ。こんなにあふれるほどの人が押し寄せてくるようになったのはほんとうに最近のことだ。散歩に出ても車椅子ではその人混みに紛れて歩くのも憚られるほどで、しかたなく裏道をあてもなく歩く。陽が落ちてくるとことのほか侘びしさを感じる。

なんの前触れもなく、一時仮死状態になった妻だがその後いつもと変わりなく過ごしている。いや、変わったことがひとつある。前のめりになって駆けだし、最後に前方に転倒してしまう追い足というか加速歩行が治まっているのだ。散歩や買い物に出ても車椅子を歩行器がわりに、ハンドルの片側を支えにしながら、長い距離もずっと歩いていける。二週間を過ぎてその状態をまだ保っている。理由はわからない。

自分の首の痛みは、痛みになれてきたこともあって楽になってきた。ただ、「これがこれからずっとつき合っていく痛みか」というような重たいしこりのような痛みが首に居座っている。そろそろ首を鍛えるような運動を始めようかと思い始めている。

べつに書くほどのこともない内容だった。書きたいことはまとまりがつかずますます遠ざかる。ブログを忘れないためにこれを書きとめておこう。
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わたしの願望と [介護と日常]

昨日ひどい感違いをしてしまった。病院の予約はとれていなかった。予約時間だと思って病院に行ってその事がわかった。診察してもらおうにもいっぱいで、しかも主治医はいなかった。患者がとても多いのだそうだ。改めて予約を申し込むと、今日時間外に時間をとってくれた。
妻の様子は、昨日の事など微塵も感じさせないくらいしっかりしている。なんだか意識もより明晰になっているような気がしないでもないくらいである。病院内も帰りの買い物も、よろめくことなくしっかりとした足取りだった。ただ、気になっているのは一昨夜容態が変わると危ないのでほとんど寝ずに起きていたのだが、ネットでくも膜下出血した患者の予後について書かれたHPを見つけて、ちょっと暗澹とした気分になった。発症した年齢との関係もあるだろうが、10年以上の生存率が50%を切っているのである。これまでの考えを修正しなくてはいけないと思い始めている。

さて、寝違えてからのことを少し。
私の頸椎は、4番と5番の骨が変形していて簡単に治らないと言われた。じっさい、日常生活に支障を来す状態からは脱出したが、今も痛みが取れない。起き方が悪かったりしたらまだギクッと痛みが来る。首と肩の張りがひどくてマッサージをしてもとれない。それに、寝違え報告の後しばらく鎮痛剤を服用していたが、それとの因果関係ははっきりとしないが、一週間ほどした時かなりの出血があり服用を止めた。この出血はいわゆる下血なのだが、ずいぶん前に一度経験していたので、病院には行かなかった。出血は二日ほどで止まったがそれ以来あまり体調が良くない。出血の原因は以前と同じだとしたら腸の憩室の炎症だろう。
わが家は、誰かが病になるとうつる。今度は娘が首を痛めて、コルセットをしている。腕にも痛みがあるようで彼女もなかなか治らない。居間は湿布の臭いに満ちている。たまたまテレビのクイズ番組で「一陽来復」が出てきたのだが、わが家では悪いことが起こると過ぎ去ることなく次から次にと重なってしまって、このままいくと立ち直れなくなるよと皆で笑った。

10月は私の誕生月であると同時に妻が倒れた月でもあった。丸六年が経過して七年目に入った。生活も大きく変わった。よほどの金持ちじゃないと自宅介護は共倒れになるよと言われていたが、ひしひしとその重圧を感じている。と同時に時間的には当初考えていたよりゆとりある生活が送れている。なにも蓄積しないし、ただ通り過ぎるだけのようなものではあるが、読書もできるくらいの時間はある。これが続けられるのであれば悪くない生活だがなあと思ったりする。介護には悲劇も喜劇もない。ちょっと視線をずらした「関係」が露出し始めるだけだ。その時々の喜びや悲しみを否定しているのではない。目的化しないだけだ。これは六年間の間に辿り着いた私の願望とささやかな抵抗でもある。

マラッカ物語
大地と海と人間―東南アジアをつくった人びと (ちくま少年図書館―歴史の部屋)
鶴見良行対談集 歩きながら考える (ナマコ・コレクション)
東南アジアを知る―私の方法 (岩波新書)
ココス島奇譚
マングローブの沼地で―東南アジア島嶼文化論への誘い
ー 以上、鶴見良行著 ー

全集 日本の歴史1〜7
旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記 (全集 日本の歴史 1)
エロス論集 (ちくま学芸文庫)

以上最近読んだ本で、中でも鶴見良行は面白かった。なにかをとくに書けないけれども彼のいう「国家中心主義史観」に対する批判は、遙か南の海に広がる人々を鮮やかにイメージさせてくれた。
日本の歴史は勧められて読んだが、一巻を除いてあまり面白いとは思えなかった。七巻まで一気に読んで中断した。そういう感想を述べると、「鎖国という外交」の巻だけは読んでみてといわれているのでそれを読んでみる。
フロイトは、勉強という感じ。わかったようで、わからないようで・・。ただ、あらたに感じたことはそれぞれの論考が学術論文というのではなく、情況論的であるというのがちょっとした発見だった。難しくて読めないというほどでもなかったので、今「自我論集」を読んでいる。人文書院の著作集を過去に何冊か読んだことがあるのだが、文庫にて再読である。

追記
新しい主治医の診察は、べつだんとりたてて書くほどの内容もなかった。とりあえず、新たな梗塞はないということと、くも膜下出血患者にわりあい多く見られる症状でもあること。頻繁に起こるようになると薬の追加などの処置を講じるということ。しばらくは経過観察ということであった。
心構えとして、今後このようなことが起こりうるということを前提に、急激な変化で死に至らしめることがないようにする事が大事だと肝に銘じた。
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今日の出来事 [介護と日常]

今日、救急車を呼んで妻を病院に運んだ。
妻は朝の6時過ぎにやっとトイレに起きた後、そのまま寝てしまったので私ものんびり9時過ぎまで寝た。11時過ぎに遅い朝食を準備して妻を起こした。洗顔をすませて娘が先導してテーブルに着かせた後、私は背を向けて台所を片付けていた。娘が背後で「お母さん、なにしてるの!」と声を上げたが、洗い物をしながら、どうせまたなにかをしでかしているのだろうと振り向きもしなかった。娘は二度同じ事を言った後、悲鳴を上げて妻のところに駆け寄った。そこで私ははじめて振り向いた。妻は意識をなくして椅子の肘掛けに力なく仰向けに寄りかかっていた。目は反転したようになって息をしていなかった。娘が口を開けようとしていたがなかなか開かず、私が顎関節のところを強く押しながら口をこじ開ける手助けをし、娘が口に手を入れ、舌を引き出した。口の中には何も入っていなかった。すぐに救急車を呼んだ。表はすごい渋滞で心配したが電話をしてから15分ほどで救急車はやってきた。その間、妻は息を吹き返した。顔は真っ白で、身体は冷たくなっていた。救急車に乗り込んで受け入れ先病院から指示が来るまでしばらく停車したまま待っていたが、その間にも意識はどんどん回復して救急隊員の問いかけにも応えられるようになり、動けるようにもなった。そこで病院への付き添いを娘に託して私はいったん救急車から降り、家に戻って入院の準備などをして待機した。
幸い行き付けの病院から受け入れてもらえた。すぐにCTなどの検査に入ったと娘から連絡が入った。約一時間後、検査の結果どこも異常は見られないし、点滴が終わり歩けるようだと帰宅してもよいということで帰ってきた。少しホッとしたが、明日脳外科での再診察を受けるように言われている。
このような症状は初めてのことでかなり衝撃を受けた。どうして呼吸を止めたのだろうか。娘が最初に声を上げたのは、ご飯なのに食べようとせず身体を左右に揺らしていたからだという。その後すぐに顔色が無くなり、椅子の肘掛けに倒れかかったので異常に気づいたのだという。私から妻までの距離は一メートルもなかった。ただ、背を向けていたのでまったく気がつかなかった。
今は元気でテレビを見ている。身体が冷たいのでまだ少し早いと思ったが炬燵を入れることにした。清水寺では夜の拝観が始まり、たくさんの人が出ている。年末が近づくとろくな事がないという記憶だけが残っている。そうそう、病院で妻は時分の生年月日を間違わずにしっかり答えたそうである。名前も旧姓ではなくmiyataと答えたと言っていた。
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テレビとか、誕生日とか、ああ、自民党。 [介護と日常]

先月の20日午後、突然ネットが切れた。約10日間を経てようやく繋がった。この間に送られてきたメールで迷惑メールに振り分けられたメールが1394通。受信フォルダに収まったメールが346通。迷惑メールに振り分けられたメールの中で3通の正常メールを見つけ出して受信箱に入れ、逆に受信箱に紛れ込んでいた迷惑メールと必要がないメールを338通削除した。この作業に費やした時間は約1時間半。ヘルパーさんが来てくれている時間の半分をこの作業に費やした。わけのわからない「件名なし」という中身も何もない亡霊のようなメールが100通以上溢れていた。馬鹿げているなと思いながら黙々と作業を続けた。いっそ全部うっちゃってもたいした問題でもなかろうにという誘惑の声に惑わされながら。

29日火曜日。主治医のほんとに最後の診察日だった。両親の面倒を見るために地元の病院に変わるのだという。妻にお礼の手紙を書いて持っていこうかと提案したらその気になった。前日の夕食後に書こうかと練習帳を出して書き始めたのだがすぐに目がとろとろになったので寝てもらった。
翌朝早くから再挑戦したが、提案したことを後悔した。書こうとしては、別のことに気が向いたりやろうとしていることをすぐに忘れたりで二時間もかかって焦った。時間が無くなってきたのでもう止めて病院に行こうと言ってからようやくその気になって、どう書いたらいいのかと聞いてきたのでちょっとぞんざいに「何でも良いから先生ありがとうと書いたら」と答えると「先生、今までありがとうございました」とデコボコの不揃いな字を二行にして斜めに歪めて書いた。自分の署名も間違っていたが、読めないわけではないのでそれを封筒に入れて持っていき診察が終わった後に手渡した。次の担当医はまだ決まっていない。

DSC_0034.JPG昨日は誕生日だった。今年も一人暗くMacからおめでとうと言われて、それからささやかに妻と二人でお茶でもしながら祝ってもらおうと思っていたら、前日の夜息子が帰ってきて明日の誕生日に彼女がちらし寿司とかいろいろつくってくれるそうだから、夕飯の準備はいいよと言ってきた。誕生日を妻以外の家族から祝ってもらうのは初めてだ。それも妻が倒れてからは旧Macと少数の友人からのお祝いメールだけだった。ほんとうは、こんな感じがとても気に入っていた。息子が私の誕生日を知っていたのが意外だったが、これは私のもう戻れない時間の残り香が次世代のDNAによって上書きされ消えようとしているのだと思う。嬉しいより、さびしいがいたしかたあるまい。甘んじて喜ぶことにしよう。はやく妻と二人だけの生活を始めたいな(-。-) ボソッ

※追記:早めに帰ってきた娘が初めてではないと言った。まだ妻が元気なとき、娘が誕生日に私と家族を料理屋に招待したという。そういえばそんなことがあったことを思い出した。それはそうと誕生日会は息子と彼女がケーキまで用意してくれていて盛大に祝ってくれた。いよいよおれはこれでお終いだなとの思いを強くした。

テレビもおかしくなった。リモコンで消すと次にスイッチが入らない。コンセントを抜いてから差し直しスイッチを入れるとリセットされて点く。販売店に相談してみた。買ってからもう五年経つので保証の対象外なのでおそるおそるだった。ところが意外にも無償で診るという。すぐにメーカーから派遣された修理人がやってきた。手際よく液晶の裏のパネルを外し、基盤を5枚新品に変え電動ファン二つも新品に。ADCユニットのカバーを開けると中をそっくり出して真新しい中身に変えた。外側だけ買った時のカバー。これで復活した。画面のシャープさが戻り美しい。無料が不思議なほどの内容だった。で、販売店に理由を聞いた。メーカー保証と別に販売店保証がありその販売店保証を使うようにしたという。私の方は有料を覚悟して、直してもらうときに液晶は長持ちするというから買ったのにと嫌みのひとつでも言おうと思っていたが、感謝の言葉を言うことになった。だが、あの直し方を見ているときっと製品不良が報告されているのだなと秘かに思った。

連続テレビドラマ「つばさ」が終わった。面白かった。前の「だんだん」と比べると私にはうんと面白かった。今から思うと「だんだん」はきっと私とそう年の違わない人が若い人におもねるように「自分探し」をテーマにドラマを書いたのだろうと思った。島根の方言がなかったら途中で見るのを止めていたと思う。「つばさ」にはもうちょっとはっきりしたテーマがあってドラマを面白くしていた。それはドラマでも何度も語られた「つながりとは」というものだった。主役の若い女優も好感が持てたし、視聴率が低かったのが不思議だ。「ちりとてちん」も関東では低かったらしいし朝の連ドラそのものがもうかつての吸引力を失っているのかも知れない。新しく始まったドラマはまだ様子見の状態だ。わりあい近しい世界を扱っているので、ちょっと最初からお腹が一杯みたいな気がしないでもない。見続けるかどうかは来週を見てからという感じか。

任侠ヘルパーの最終回を見た。施設に立てこもってお上と世間と対決して渡り合う。「たまゆら」の火災事件のことをすぐに思い出した。きっとあの事件のことがドラマの背景に隠されているのだと思う。たまゆらの火災事故に対する報道や世間の声に対する正面からのけっこうな揶揄になっていて、最後に意図がはっきりしてせいせいした。「てめーら、ご託を並べる前に現場で身体張ってみろ!」ってことなんだろう。私のような単純馬鹿は世間の正義の批判よりもこちらを圧倒的に支持する。やっぱり「良いこと」を押しつけようとする考えも社会も良くない。たとえどんなに豊かな人間愛にそれが満たされていたとしても、だ。

その他よく見るテレビ番組でお気に入りは、NHKの世界ふれあい街歩きとか、吉田類の酒場放浪記、あとは時々のドキュメント番組。BBC製作のBS世界のドキュメントなどは面白くてよく見る。民放でも感心するドキュメントもある。ボクシング。これは欠かさない。今年の大河はほとんど見なくなった。子供がよく見ていて時に覗いて大笑いするのが秘密のケンミンSHOW。特に毎回やり玉にあげられるかのように出てくる大阪が面白くてたまらない。
吉田類の酒場放浪記を見ていると自分もコップ酒をあおりたくなる。よく似た番組が他でもあってそこでは文人のような人物があちこちの酒場で蘊蓄を傾けながら飲むのだが、これはもう最悪で二度は見たが後は見てない。文人なのか文化人なのか知らないけれどもタレントにもなれない中途半端さと自分の大衆性を脱色しようとするスタイルのいかがわしさが原因である。
そうそう、それからなんでも鑑定団もよく見る。あれは自分や他人の欲望に対する冷徹な審判を野次馬として参加して観る爽快感がある。それにしても骨董屋とか古美術商というのは詐欺のような商売だなと見ていて毎回思う。

民主党に政権が変わって八ツ場ダム中止とか、ファーストレディーとかいろいろ賑やかだ。そういえば前原って私の選挙区の人間だったんだ。今頃知った。なんだかとても官僚的な物言いをするなという印象を持つが新しい政権がどんなことをしようとするのか、私にとってはどうでもよい。で、ひとつだけわからないことがある。新しい民主党の女性議員の「過去」の仕事がなんだか仰々しくワイドショウや週刊誌で取りざたされるのはなんでだろうヽ(。_゚)ノヘッ?
映画にヌード出演していたとか風俗ライターをしていたとかがそんなに問題なのだろうか。私にはちっともわからない。いろんな職業からいろんなタイプの政治家が出てくることを歓迎はしても、こんな風にいかにもスキャンダルのように差別的に取り扱うのは不当だと思う。私はマドンナ旋風が吹き荒れた選挙で政界に進出した進歩的おばちゃんたちの「生活現場の声を国政に」とか「台所からの感性を政治に」(ほとんど不正確です)とかのスローガンのおぞましさに鳥肌が立ったけれど、それはこの人たちが大衆を代弁するとか主婦の声を代弁するとかの真っ赤な嘘っぱちをほとんど平然と言っていたことに対する嫌悪感であって、職業とかに対するものではなかった。公職に就くということは、こういう不当な扱いに対しても甘んじて受け入れるということなのだろうか。なんだか痛々しいを通り越して無惨だ。ひどい職業だなというのが正直な感想だ。標的にされた議員さんには頑張ってもらいたい。
民主党を支持しているわけでもなんでもないということは過去にも書いたけれど、政権の座から降りた自民党が実は今までどれだけ不作為であったのかということがお笑い番組などでどんどん白状したり暴露されたりで思わず声を上げて笑うほど悲惨で面白い。総裁選のくそまじめさは薄ら寒かった。くそまじめな自民党なんてちっとも面白くない。それにしても自民党は今度の参院選での復活も無理だなと思えてきた。
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ある日の散歩 [介護と日常]

河原に下りるスロープの場所を間違えて階段に出てしまった。
階段のしたにランナーが見える。キャップをかぶりサングラスをはめ、お腹を露出させたランニングシャツに青いランニングパンツ。褐色の顔と肌。筋肉質の肩と腕、割れた腹筋には隠せないシミとたるみが見える。彼は階段の手すりにつかまって念入りにストレッチをしていた。
妻に車椅子から降りてもらい、妻は手すりをもちながら下りる。私はそのすぐ横を後ろ向きに車椅子を一段ずつ下ろしていく。下にいた彼が声をかけてきた。
「車椅子の前を持ちましょうか」
不意をつかれた感じで急に恥ずかしくなり車椅子をすぐにたたんで片手で持ち、妻の手を引いて階段を下りた。
「しかし、元気になりましたね。階段をひとりで下りられるようになったんですね」
私の全然知らない人だった。
「いや、奥さんにはよく遊んでもらったんですよ」
ああ、そうだったんですかと振り返ったとたん、妻が転んだ。
慌てて起こすとその彼は
「すみません、よけいなことを話しかけちゃって」と申し訳なさそうに妻を起こすのを手伝ってくれた。たいした転け方ではなかったので妻の方も苦笑いしながら起きあがる。

コンクリートの遊歩道脇の草が生えているところでゆっくりと歩く練習をする。それから下りてきた階段よりゆるやかな階段を使って上り下りを一回。ひと息ついてから車椅子に座り、河原をのんびり散歩する。
蒸し暑い日差しが向こう岸の建物に遮られ、不揃いの影がこちらの岸に届きはじめる。
傾いた陽に途切れない川の流れが染み込んでいく。暑さが少しずつ冷めていくのがわかる。

小太りで坊主頭の中年男性が水鳥にパンくずを投げている。
その人はエサを横取りされてしまう鳥を気遣って、
まるで釣り師のようにパンくずを投げ分けている。
狙いの鳥が目的を遂げると彼は小さくヨシッと飲み込むようにいい、別の鳥に目配りをする。
パンくずを投げる時、白い七分袖の袖口から鮮やかな刺青が見えた。
横でじっとその様を見ていると、パンくずのついた手をはたきながらこちらを向いて小さくヨシッといってから意外なほどの身軽さで護岸の階段を駆け上がっていった。

視線を遠くにやると、ずいぶん太った犬がよたよた歩きながらこちらにやってくる。
「ずいぶん太った犬だね。まるで豚さんみたいだ」と妻に話しかけながら近づいてみると、ほんものの豚だった。近くを散歩していた二匹の犬も驚いたように立ち止まり、私や妻と一緒に物珍しそうに近寄っていく。
豚は足を止めることもなく、よたよたと歩を進めながらこちらを一瞥し、まるで豚と同じように鳴いた。犬は驚いて離れ、何事もなかったように飼い主とともに遠ざかる。
連れている初老の婦人に聞く。豚も散歩が好きなんですか?
「あまり好きじゃないようだけど、寝てばかりだとねえ。」
思わず笑う。豚はくだらなさそうに上目で私たちを見てから、また豚のように鳴いた。

走ることも跳ぶことも知っている私たちの眼に、
影の裂け目に輝きを沈めようとする陽光の中をよたよたと歩を進める意志の豚。

「ご機嫌よう!
歩むにしても、横たわるにしても
僕たちの行く手は暗いのだ」

豚を見送ると、上機嫌になった私たちは河原を後にして家路についた。
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もう九月か。 [介護と日常]

今年ももう九月。めっきり秋らしくなってきた。とはいえ、まだ湿気の多い蒸し暑さでクーラーをつける日もあるのだが。
先週の土曜日、妻と一緒に買い物をかねて散歩に出かけていた。車椅子には乗らずに歩けるところまで歩いていたのだが、細い小路にさしかかって車椅子のままだとすれ違いが難しいので半分にたたんで行こうとしていたら、何を思ったのかいきなり横をすり抜けて、追い足になり転倒した。道路で転倒したのはじつに久しぶりだったが、車椅子をたたんでいた私は不意を突かれてまったく対応ができずに「止まれ!ああ〜!」と声を上げることしかできなかった。妻はまるでお約束のように、勢いよくヘッドスライディングのように転んだ。慌てて駆け寄ったが幸い以前のように顔面を強打することなく手のひらと膝をすりむいただけですんだ。ただ今年息子からプレゼントしてもらったズボンの膝小僧は穴が開いてしまった。妻が転倒したところに、外国人の女性がいた。妻は視線の先に彼女の姿を見つけて早く通らなければと思ったかもしれない。で、話は妻が転んだのを見て驚いた外国人女性である。いきなり信じがたい転倒を見たせいか顔面が蒼白になり、立ちすくんでしまった。私が妻を起こし、前を塞いだことを謝っても声が出ない。いまにも崩れ落ちそうで逆に困った。起き上がった妻もその女性に大丈夫かと声をかけ二人で支えながら小路を抜けた。小路を抜けてから妻は「ごめんね、びっくりしたでしょ」というと、やっとその女性は我に返ったようで、目に涙を浮かべながら妻の手を握って何もいわずに小走りに去った。

昨日火曜日は診察日だった。診察前に血圧計で血圧を測るのだが、この日はスイッチを入れるとすぐに肘を抜いたりして測れない。だんだん腹が立ってきて「からかってるのか」と怒り始めたころ名前を呼ばれた。その日が主治医の最後の診察予定だったが、成り行き上先生の今月末のほんとうの最終診察日に診てもらうことになった。名残惜しい。検査結果は安定していて治療はなし。診察室を出ると看護師さんから最終日は診察予定が殺到しているので、なんとか予約時間に間に合うように来て欲しいといわれた。引きずり出しても行かなければと思っている。妻は愛想よく笑顔で「わかりました。遅れないように連れてきますから」と約束していた。私を引きずり出しても連れて行かねばとその笑顔は決意に満ちていた。

世の中には面白い趣味の人がいる。感心したのはどこかの主婦なのだが蜘蛛の巣の標本を集めている人だった。写真なら驚かないが標本というのがミソだ。蜘蛛の巣の標本を採取する手順は次のようにやる。
まずくもの巣を発見するのは当然だが、つぎにそこの主人である蜘蛛に退散してもらう。その次に白いスプレーを蜘蛛の巣にまんべんなくかける。それから糊を塗布した板を巣の形を壊さないように背後に持っていきそのまま巣を貼り付ける。次にその場でその貼り付けた板に透明スプレーをかけて固定する。見事に蜘蛛の巣の標本ができあがりである。それにしてもじつに多種多彩(?)な蜘蛛の巣があるものだと驚いた。近くで展覧会でもあれば見に行きたい。

選挙よた話として(ほんとのよた話ですから)。まず、自分がこんなに選挙や政治好きだとは思わなかった。選挙後のワイドショーやニュースも別に苦にならずに見ている。私の田舎である高知県では各選挙区とも自民党が議席を守った。それがまずきっかけだったのだがふと今回の選挙での各政党の分布をwikiで見てみるとさっそく出ていた。
そこで気がついたのは東と西の違いである。自民党の多くはほとんど西日本に偏っている。これはまるで民主=東日本で東西対立の様相を見ているようだ。京都や大阪、奈良などかつて都があったところはほぼ完全に与野党が逆転しているから、それはなんだか笑えてくる。都人は時局を見るにさといという感じなのかしらね。
宮本常一は、東と西では「家制度」がまるで違うということを書いていたことを思い出した。西日本は伝統的に保守というより、地域拠点型・密着型のボスを仰ぐという文化的な風土が今もあるのかもしれない。とはいっても、ちょっと気がついただけのことでここから何か敷衍的なことを引っ張り出してくる知見は私には全くないのであしからず。
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選挙雑感 [介護と日常]

朝食を終えた後、妻は少し休むと言ってベッドに横になったのでこれを書いている。
昨夜からテレビは選挙一色であった。そんな中で今年はあまり熱心に見ていないMHKの大河ドラマや教育テレビの福祉番組などでとりあえず選挙報道を交わしながら最近お気に入りの番組であるNHK・ETV特集「シリーズ日本と朝鮮半島2000年」を見てから、選挙速報を見た。小泉政権の元での郵政民営化選挙といわれた前回の選挙を思い出していた。私はこの時、今から思うと不思議なくらい興奮したような感想を記事にしている。
今回の選挙結果について、郵政民営化が駄目だったとか改革路線が駄目だったとか敗因を小泉政権に求める声がかなりあることに気がついた。今朝、朝の連ドラを見た後、チャンネルをまわしていると、社民党の福島瑞穂と元金融担当大臣の竹中平蔵が出ていた。福島は小泉改革に対する審判が下ったのではないかと竹中に言い、竹中はそうではないと反論していた。
国家社会主義者である福島には変わらぬ幻滅を感じながら、前回の選挙はなんだったのかを考えてみた。あの時、多くの有権者は根底的な変化を小泉に仮託しようとした。それは「保守」革命幻想とでもいえるものだった。だが、その後それが望めないことを知った有権者は自民党を捨てた。民主党が勝ったのではない。自民党が自らその舞台から下りたのだ。自民党を排除しなければ変化は望めないという有権者の判断が今回の結果を作り出したのだと思う。
次は変化を望んだ有権者が自ら望んだ変化に向き合わざるを得なくなるということで、おそらく新たな政党の契機はその場所に民主党でも自民党でもない「自民党」「民主党」が問われることになるだろうなと思う。(この辺りは自分が書いた記事との整合性がないところだが)
私自身は小泉が行ったイラク戦争追随をのぞいて郵政民営化や、やろうとした改革路線は間違いではなかったと評価している。自民党はその方向性を理念としても政治課題としても持ち得なかった。

ところで、昨日週刊誌に書かれていたたけしの記事を読んで、そうかなあと、ちょっと考えさせられた。たけしによれば有権者は民主党を選ぶというより、偉そうにしている自民党の議員が落ちるところを見て喜びたいのではないかと書いていた。たけしってニヒリストなんだなと思った。私は、何も期待しないと言いつつどこか楽天的に信頼しているところがある。
とはいえ、選挙番組で面白かったのは京都比例区で伊吹が落ちたこと、郵政改革反対だけを執念のように主張するまるでゾンビのような国民新党の代表が落選したこと、テレビに良く出てはその発言の背後にいつも恫喝を臭わせる大村という議員が落ちたというのを知った時は面白かった。だけど伊吹と大村が比例で復活したのを知って、ちょっとがっかりした。

※それにしても最近またソネットが重たいなあ。記事作成ページになかなか入れないや。
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夏の終わり [介護と日常]

朝四時過ぎ、寒さで目が覚めた。開け放した窓と障子を閉め、妻をトイレに起こしそれがすむと布団をしっかりと掛けてもう一度寝てもらった。
今は高くて青い空がひろがり、爽やかな風が吹いている。透明感がある明るさはもう夏が去ったことを告げている。声を上げて泣きたい気持ちにおそわれる。

高校野球が終わった。世界陸上も終わった。たくさんの終わりをしまい込みながら変わらぬ日常の居間でうずくまるように座っている。

りんさん(りんさんは一時ブログをお休みしているのでリンクは貼らない)からアドバイスいただいた茄子の漬け方で、問題は一気に解決した。茄子をぬか床に漬けて約12時間で望んだ味になる。嬉しい。りんさん、ありがとう。

私の先祖は農耕民か狩人かはわからないけれども日本海側の河口脇の谷間に定住した。屋号を幸右衛門という。私で十三代目である。子孫である私にはかなり厳しかったであろう自然条件の中で生き抜いてきた先祖の知恵があまり残ってないようだ。プランター栽培で出来たものはバジルだけである。トマトは誰にでもできると聞いてやってみたができなかった。トマトがなぜできなかったのかちょっとだけ理由がわかったので、来年はひょっとすると上手にできるかもしれない。バジルは雑草だから栽培できて当たり前と子供達に言われている。それでも株分けもしてたくさん収穫した。二回もバジルペーストをつくった。あと一回収穫して終わりになりそうだ。花は育てたことがない。ほとんど枯れさせてしまった。妻が栽培していた花の中で一鉢だけ生き残り、あまり季節に関わりなく花を咲かせているのがゼラニウムである。こいつにはちょっと責任を感じて水やりを忘れないようにしている。白っぽい淡いピンクと真っ赤に近いピンクの花をどういう加減かわからないけれども、まるで退屈しのぎのように咲かせている。

今週末に選挙がある。やはり自民党は敗色が濃さそうである。民主党が政権を穫るとどうなるのかと想像してみるに、国に関わる議論が保守化していくのだろうなと思う。自民党が攻撃している財源の問題などは実はどうでもよいと思っている。普通に考えて財源がないという批判は今の規模を前提に考えているのであって、どうにでもなるし、そういうものだろうと思う。だがたちまち具体の問題に直面させられるわけで、選んだ側がその問題にどう向き合うのかということには少し興味がある。具体の問題というのはたんに技術的な問題に還元されない共同的な層を背景にした激突を含んでいるわけで、ある種内戦にも似た状況がさらに露出してくるのだろう。そうなった方が良いと思う気持ちとうんざりだなと思う気持ちが相半ばしている。政党、政治に期待はない。それにしても町は静かだ。京都の場合大勢は決しているのかもね。
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お盆休みの収穫 [介護と日常]

お盆も終わった。表通りの人通りは大谷さんへのお墓参りで人が溢れるが、住んでいる町全体としてはひっそりとして静かである。
お盆の期間中、仏壇へのロウソクと線香を絶やさぬようにしてはいたが、なにをどのようにしたらよいのか私にはわからない。
そんな私の様子を見ながら妻は、花をこちらに置けとかロウソクの場所はここだとかベッドから指示する。はいはいと返事しながらそれを聞くわけにはいかない。花は仏壇の上に置いてロウソクは位牌の上につけろとかいうからである。家は浄土宗であるが私自身が選んだわけでもなく仏教徒の自覚も知識もない。おおむね宗教に関心を持ったこともない。したがって普段の私はかなりの日本人がそうであるように、都合のよいときに神頼みをするだけで、すがったり救いを求めることもなければその心性を理解することも難しい。ただ、空気のような風習の光景は嫌いではない。
昨日は大文字だった。大文字を見ると夏の終わりを告げられた気分になる。これもまといつくような空気のせいだろう。住人として関わる夏の行事は23日の地蔵盆をもって終わる。

昨夜目覚めて妻をトイレに連れて行き、再び寝かせてからテレビをつけてみると世界陸上の100メートル決勝をやっていた。
ボルトという選手が驚異的な世界新記録で優勝した。ただ、驚くだけだった。「感動」というのは自分と世界との境界で予定調和的(俗語として)な結末や展開を想定して成り立っているのだと思った。感動は現実の驚きに追いつけない。無力だ。
だから、ついこんな風に書きたくなる。二位の選手の美しく伸びる洗練されたストライドは悲しいまでの絶望とあえぎを伝えるだけだった・・と。

日を跨いでこれを書いているのだが、ボルトの世界記録のニュース関連を見ていて「100メートルで9秒58ってすごい。私の50メートルより速いなんて、すごい!」という日記を見つけて思わず吹き出したけれど、この日記を書いたおそらく若い女の子はきちんとボルトの記録と自分との関係が把握されていて、すごいと思った。そうか、私の驚きはただの混乱であって自分との関係性において事実を受け止められない状態をただ驚いていただけだったということがよくわかった。

ぬか床はついに60日を超えた。どうやら夏を超えることができそうだ。ただ、お漬け物にお茶漬けがおいしいという季節を過ぎる秋から晩秋にかけて危機を迎えそうな予感がするので、なんとか年を越せるようにしたい。おいしいけれども「抜群」ではない壁をどう破るか、いろいろネットで調べてみるのだがよくわからない。なかでも茄子は難しい野菜だということがわかった。浅漬けにしようとすると中がキリギリスさんのエサのような状態だし、しっかり中まで漬けようとすると、漬かりすぎになる。皮を一部剥くとか楊枝で穴を開けるとかやってみるのだが、まだ加減がわからない。
面白い謎々のような問題に遭遇した。夏場は一日二回は混ぜるようにとどのHPにも書かれている。が、各野菜の漬け方のところで茄子を漬けたときは色が落ちて周囲の糠についたりするから動かさないようにすることと書かれていた。いったいどうすればいいのだろうか・・。

季節の移ろいを追いかけて移動するのはネット上だけになって久しい。蛸壺の中から出るためにとブログを書き始めたのだけれども、事態は逆方向に進んでいる。気力も失せつつある。妻の状態がそうさせているわけではない。世界が自分の等身大に収縮してきているような感じで、悩みとかでもなく、それを止めようがない。ここを歩むしかないなと諦めにも似た心境というか。ようするに「順序」の問題かもしれない。そんな中、娘が夏休みで三日ほど妻の世話や家事などをやってくれた。やはりちょっと疲れていたようでとにかくよく寝た。それが世間的にはお盆休みの収穫であった。
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今日の出来事 [介護と日常]

今日は残念ながら朝から雨。陶器祭りは今日で三日目。今年は土日がはさまり店を出す人たちにとっては、期待の日曜日だっただろうが、あいにくの天気となった。
そんな中、田舎の友人というか幼なじみが奥さんをともなって訪ねてきてくれた。
ちょうど娘も夏休みとなり職場の友人と羽目を外してわが家で一泊し、結局昨夜の晩ご飯まで一緒に食べて帰ったということもあり、交替で外に出してもらい雨の陶器祭りを一通り見てから、昼間からビヤホールに出かけた。飲食のために外に出たのはもう何ヶ月ぶりのことであろうか。いや、半年はきかないかもしれない。
昼間のタイムサービスということでビールは半額。すると、注文はすぐにビール四杯。友人の奥さんは飲まないので私と友人の分が最初の注文で四杯である。頼んでみるとじつに合理的な判断であったことがわかる。
結局、タイムサービスのある時間内に飲んだのは二人で10杯。その後ジョッキを重ねて最後に小ジョッキで締めて、何杯飲んだか記憶にない。
午後一時に入って、出たのは五時。友人の奥さんは三時過ぎに先に出た。
高知の男はと一般化できないけれども、少なくとも私の田舎の友人たちはよく飲むし、よく喋る。しかも声が大きい。弁も立つ。
行ったビヤホールは、私が京都に出てきて初めて連れてもらったところ。昔と装いはずいぶん変わったが今もくつろげる雰囲気が残っていたのにはちょっと感激した。
友人から聞いた話はとても刺激的で勉強になって面白かった。おもに、田舎の歴史的なことや現状のことだった。
翌日早くから仕事があるということで、二軒目三軒目の梯子はできなかったけれど阪急電車四条河原町駅まで見送ってから、私は百貨店の地下の食料売り場で買い物をして帰ってきた。傘を店に忘れてきてしまったのと買った食材が重くって、家に帰り着いたときには汗と雨でぐしゃぐしゃになってしまった。
シャワーを浴びてさっぱりしてから、今これを書いている。
妻に、ちょっと飲んできたよと報告するとなんだか嬉しそうに「よかったね。どこへいったん?なに食べてきたんえ」と聞いてきましたので、あそこに行って、あれ食べて、これ食べて、こんだけ飲んでと報告しました。そうしたら、それは飲み過ぎだといわれてしまいました。
すこしまだ酔っぱらっていて、いつもと違うのは新規作成のページに直接書き込んでいること。
いつもはテキストに書いてあらっぽく校正してからペーストして記事をアップする。
だから記事が飛んだ!という経験はない。飛んでもすぐに現状復帰できる。そういうことが起こってくれると、ちょっとまた面白いかなと思いつつ、ヒヤヒヤしながらこれを書いています。
ま、たまには酔っぱらい記事でもいいかな。
ということで、今日はちょっとおちゃらけてみました。
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一日遅れの野次馬実況中継 [介護と日常]

丁度、昨日のこの時間。私はAlloraさんのコメントに返事を書いていた。
外からなんだか嫌な音がした。
シャッターを開ける時の音を大きくしたような音だった。お隣がシャッターを開けた時に積んであったものが崩れたのかしらと一瞬思った。ほとんど間をおかずに、もう一度同じような少し小さな音がした。
返事を送信してから、外に出てみると家の前にガラスの破片やら黒いプラスチックの破片が飛び散っている。向かいの家の前に転がっている丸いプレートらしきものをみてみるとフォルクスワーゲンのマークプレートだった。
視線を通りの北方向に移してみると北隣のお隣さんの前に一台のタクシーが止まっていた。近づいてみてみると、運転席側のドアが半分ちぎれて道路側にせり出している。運転席をのぞくと運転手が会社に電話をしているところだった。
「事故に遭いました。相手は逃げました・・・・」
あの音は事故の音だった。しかも飛び散った破片のうち車体から剥がれたような破片はほとんど逃げた相手の車のもののようだ。近所の人がわらわらと集まってきた。
運転手はまだ動揺しているようで外側にせり出したドアが道路を塞いでいるのでさらに左側に寄せてから、ドアを内側から蹴るようにして開けて外に出てきた。千切れかけてせり出したドアを乱暴に車側に押し込んでいる。
道路に残っているスリップ痕のようなラインは液体の痕だった。触ってみると燃料ではなくどうやらラジエター液のようである。ぶつけたワーゲンのものと思われる。近所の若い兄ちゃんといってもすでに若い父親だが、この漏れ方だと逃げてもエンジンが持つまいと専門家のようなことを言った。
家の前の通りは北行き一方通行でワーゲンは東からこの通りに向かって走ってきてT字路となって合流する地点でぶつかった。その後、少しバックしてからUターンをして逃げた。その時にまたどこかにぶつかった。二度目の音である。二度目にぶつかったところにも破片が落ちている。こんなに明々白々な落とし物をして逃げるなんて、だれが考えても飲酒だったのだろう。車種から想像してたぶん一般人。若いサラリーマン。
警察への連絡を終えた運転手に話しかける。緊張からややほぐれた運転手は饒舌に情況を語り始める。
「出会い頭じゃなかった。黒い車が突っ込んできたので一瞬ハンドルを切って逃げたがそのまま突っ込んできた。ちょっと間をおいて相手の車をみたらUターンして逃げていった。車の前部には傷がないので向こうが突っ込んできたようだ。運転手は見えなかった。」
さすがプロの運転手で、私にさえ自分に落ち度はなかったことを説明しようとしているようだ。いずれにせよ、一旦停止義務はT字路側にあるので、逃げた車の側が多くの責を負うことになるだろう。運転手、タクシードライバーは私と同年代の男だった。さきほどさすがプロと書いたが、電話をかけていた様子では長くこの職業に携わっているようには思えなかった。してみると、リストラか何かで今はタクシードライバーの職を得ているということだろうかと、この辺りからまたいい加減で勝手な推測や憶測で想像をみたそうとしている自分がいる。現場を離れて家の中に入り、妻を起こしてトイレに連れて行き少し漏らしていたのでシャワーの準備をする。

夕方四時頃、買い物のために玄関を出ると一人の若いサラリーマンらしき人物が警察官二人とともになにやら実況見分らしきことをしている。彼が逃げた本人だとしたらまったく想像通りの若者だったのでかえって驚く。おそらく想像するに、不動産関係か車のセールスマンだろうと思いながら不快指数100%のへばりつくような暑さの中、途端にあふれ出てくる首筋と腹回りの汗を感じながら、八百屋に行った。

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左に寄せて止まったタクシー。バックして逃げた軌跡。ラジエター液の痕がよくわかる

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ワーゲンのプレートが。

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バックしてUターンし、逃げた先にも散乱した破片。

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運転席側のドアが千切れかけたタクシー。
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梅雨明けかと思ったら [介護と日常]

書き始めは

やっと夏がきた! 昨日、影に映らない額の汗をぬぐいながらこれからの夏をどうやって過ごそうかと重い買い物袋を下げ、狭い路地を抜けようとしていた。

と、ちょっと気取って書き始めたばかりだった。
外が少し暗くなったと思ったら、いきなり雷が鳴り始め大粒の雨が音を立てて降りだした。いやはや。だけど、これが梅雨明けの知らせのような気もする。

前回私はこう書いた。「うんと調子がよいときには自分を50代というときがあるが、不思議なことに倒れたときの年齢を超えることはない。」
ところがあっさりとこれは覆された。
7月29日の夜、私の部屋に来たのでブログの写真を見せたら「ああ、ほんと。けど年とったなあ。70やもんなあ」誰が?「あたし」それはないでしょ。もっと若いよ「え?そう?67やったかな」ちがうちがう64「64?そんなに若いことないわ」
いきなり、実年齢を飛び越えてしまった。自分を若くいうということに問題の本質はなかったということだ。ブログに載った自分の写真を見て実年齢を超えたとはいえ「老けた、年をとった」という認識に接近できたのは、日常において自分を把握するための自分を外部に投げ出す二重化に困難を生じているのだろう。私たちと共通の現在につなぎ止めるためのよい方法があれば混乱を少なくする道筋が立てられるかもと思ったが、メモを書いたり張り紙したりとかはさんざんやったので、現時点ではなにも思いつかない。

hanaさんがコメントに書いていた「任侠ヘルパー」という草薙君主演の番組をやっと見た。このドラマが始まる前には見ようと思っていたのに今まで見逃してしまいこれは縁のないドラマかなと諦めていたら、息子が予約を入れてくれていた。突然チャンネルが変わったのでびっくりした。
施設の責任者役の夏川結衣はわりあい好きな女優で、再放送でたまたま見た阿部寛と共演した「結婚できない男」は笑った。あ、だけどこの時は阿部寛に笑ったのだが。夏川結衣がときおり見せる夜叉のような表情もけっこうすごみがあって、ああこんな女、横にいたら耐えられないなと思わせるに足る女優だと評価していた。今回も役所での会議で「だったら家族が見ればいいじゃないか」って啖呵を切るところなんかなかなかよかった。
このドラマ、けっこう面白い。介護が必要な老人を祭り上げるわけでもないし、巷に溢れる介護に対する安っぽいヒューマニズムにも何かを言いたげである。この方向で「任侠」という設定なんかしないで老人介護の現実に正面からぶつかるドラマを作ればもっとよかっただろうに。
ヤクザ組織の幹部争いのためのというあり得ない設定(だからドラマなんでしょうけどね)で切り込みたい主題に防護線を張り、主張したいことをいうための逃げ場所を用意しておくちょっと卑怯な社会派ドラマともいえる。ある種の、匿名を利用したようなドラマだとも思ったが、傾聴に値する台詞が随所にでてくるし、木曜日の楽しみがひとつ増えた。草薙君はなかなか芸達者なところを見せて、迫力もある。ヤンキーのような役どころの可愛い顔のヘルパー役女優は、とんがりすぎで薄っぺらくてつまらない。あれをもうちょっとなんとかすると草薙君の役とメリハリができてちょっとした深みが出てくるのになあとか思ったりした。

※記事をアップしようとしたら、強い日差しが窓から入ってきた。どうやら雨雲は通り過ぎたようだ。
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青空が見えない [介護と日常]

26日の朝、久しぶりに青空が見えている。だけど、9時過ぎには雨マークでその通り雨が降ってきた。こんなに外は明るくて、蝉の鳴き声も聞こえていたというのに。
カレンダーを見てみると、祇園祭が終わったのに16日からずっと雨か曇りの日が続いている。こんなのあまり記憶にないなと思っていたがふと気になって前のカレンダーをめくってみたら2006年がやはり同じような気候で、まったく同じように「祇園祭が終わったというのにずっと雨だ。なんという天気なのだろう。あまり記憶がない。」とメモ書きをしてあった(苦笑)。記憶というのはほんとうにあてにならない。
雨が降ったりやんだりの中、妻は娘と一緒に近所の美容室に髪をカットしに行った。その後喫茶店で待ち合わせをした。さっぱりとした頭ですまして珈琲を飲んでいた。この間、天気のせいかあまり元気がないのだが「さっぱりして、若返ったようだ」というとまんざらでもなさそうに「そう」といって髪に手をやった。娘と妻は先に出て買い物に行った。久しぶりに夕食の支度から解放され少しくつろいでから喫茶店を出て歩いていると、いきなり大粒の雨が勢いよく降り始めた。慌てて走り始めたが、間に合うような勢いではなく、ずぶ濡れになってしまった。買い物帰りの娘と妻に玄関で出会った。娘も妻も傘でカバーしきれなかったようで、車椅子の妻は下半身がびしょ濡れになっていた。だけど、お互いの様子を見て笑いあったのだった。

27日は妻の誕生日だった。この日も朝から元気がなかった。夕方になって身体を起こしケーキを前にやっと笑顔を造ってくれた。誕生日の写真をふり返るとやはり年々衰えているのがわかる。今年になって気がついたのだが身体を支えたりするときに体重は減っていないのに重量感が以前より少なくなった。妻は私より一足先に老いを迎えようとしている。残酷だがしかたがない。
誕生日恒例の、「今年いくつになったっけ?」の質問。47歳だそうだ。うんと調子がよいときには自分を50代というときがあるが、不思議なことに倒れたときの年齢を超えることはない。デイケアで毎年もらってくる写真入りのお誕生日カードに60歳を超えた自分の年齢が書いているが、それは認めない。断固拒否する。いつも年齢を聞くわけではないが、普通はだいたい30代の年齢をいう。娘や息子がいつまでも赤ん坊のような年齢のはずである。ご飯を食べているとき、目の前に娘や息子がいるのに大きな声で子供の名前を呼びご飯を知らせる。以前はこれに娘や息子は傷ついた。腹を立てて途中で席を立ったこともある。ひょっとしたら泣いていたのかもしれない。私は夜になると突然消える。私は「おばちゃん」になる。おばちゃんがだれをさすのか今もってよくわからない。

頂いた手作りジャムが、おいしい。ヨーグルトにも合うということなのでさっそく試してみた。ほんとにおいしくて妻も喜ぶ。写真を撮ってみたが上手に撮れないので(おいしそうに見えない)載せるのは止めた。この手作りジャム、ご主人が作るのだそうだが趣味の域を超えてると思う。私もなんどか挑んでみたが、おいしくできたためしがない。
最近ふと自覚したのだが、どうやら自分には料理を作る才能はあまりなさそうだ。ぬか漬けも40日を超えた。不味くはないのだがとびっきりおいしいというレベルには至らない。あれこれやってみるのだが、普通の域を超えられない。どんな料理もそうなのだ。化学調味料を使うと間違いなくおいしくなるが、微妙に重たくなるので今ではほとんど自分で出汁を取って料理する。最初の頃は、ひょっとしてこれは自分の隠れた才能に出会っているのではないかと喜んでいた。だがそれは勘違いだったようだ。きっと器用さだけはあるのだろう。どんなものでも食べられるというのは結局、どこまでも妥協できるということを言うのだ、きっと。わが家の自家製ぬか漬けを少しだけレベルを超えておいしく食べるコツは、味の素を少々かけて食べることである。味の素は偉大だと再認識している。6年もかかって知った悲しい現実である。

妻は食べるとき、なんでもごちゃ混ぜにして食べる。刺身や酢の物にソースは普通で、から揚げに酢をかけたり冷や奴に炒め物を入れてかき混ぜ、お酢と醤油とソースをかけてご飯にのせお吸い物や味噌汁をかけて食べる。おかずを一皿に入れて皆で食べようとすると油断ができない。ソースや醤油などの調味料を手の届かないところに置くか、テーブルにはのせない。少し前までこれが許せなかった。本気で腹が立った。取りあげて全部捨てて、一から意地になって料理し直したこともある。抗議しても妻は涼しい顔でこうやって食べるとおいしいのだという。
最近テレビを見ていて世界でもだいたい何でも混ぜて食べるのが基本なのではないかと気がついた。中国の田舎の農民の食べ方や、インドやアフリカ、南米等自分の皿に取ってから混ぜて食べてる。味が違う物をそれぞれ分けて食べるというのはきっととても新しい習慣なのだ。そう考えてみれば離乳食なんて柔らかくして全部混ぜて食べさせるのだし、それぞれ料理ごとに取り分けて食べるというのは物心がついた頃から押しつけられた習慣・文化だったのだ。腹を立てる方が逆に閉じこめられていたのかと妙に得心した。それにしても、やはり刺身にお酢やソースはかけられたくないので、日々細心の注意を払いつつ自由と闘っている。
誕生日.jpg
64歳の誕生日。この日やっと笑顔を造って見せてくれた。
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ちょっと思いつくまま [介護と日常]

第二次オムツ大作戦はあえなく失敗。いったん撤退する。ストレスからか、普段以上のお漏らしをし始めたからだ。時期と方法を変えて再度挑戦することにした。第一次は本当のオムツに夜には尿取りパッドをあてていた時期からリハビリパンツに変えたときを指す。まあ、本人もさして今の状態を嫌がっているわけでもなく、汗疹などの問題もないわけで今のままで充分といえば充分でよけいなお世話といえばそうなのだ。徐々に今まで通りに戻りつつある。こう書くと今まで通りの状態がわからないので書いておくと、失敗は排尿の場合一日一回から二回。排便は週二回から三回。これが普通。一番よい時期は排尿・排便とも一週間に一回程度とほとんど手のかからない時もある。

政治には疎いので自分の感覚が一般的かどうかぜんぜん自信はないが、少しだけ。(ま、こんな前置きを書くこと自体が最初から逃げを打っているのだけれど(苦笑))
都議会議員選挙の結果が出た後、民主党の岡田幹事長が自民党の迷走に国民はうんざりしているんだ、民主党に対する期待がこの結果を生んだみたいなことをコメントしていたと記憶する。それを聞きながら、ちょっと違うんじゃないかと思った。
民主党に対する期待を国民がそれほど持っているとは私には思えない。とうぜんコメントする方もそういうことは百も承知だろう。そうじゃないと岡田という政治家はぜんぜんたいしたことのない三流政治家だ。
私が感じる大方の意識は自民対民主ではなく、流動化への期待ではないかと思う。この流れは衆議院選挙にもそのまま続くと思われるが民主党の安定政権を保証するものでもなく、現状のままの自民党の復活をたやすく許すものでもないと思う。
指向性が未だ明確ではないということで変化ではなく流動化と書いたが未だ期待にとどまるにしろ、細川内閣や自社連立時代の見かけだけの変化にたいする幻想はくぐり抜けてきているのだから、この期待は政党選択を超えた朧気な意思をみせているのではないかと思ったりする。
流動化への期待にとどまるという評価は、現状どこが政権を担ったとしてもさしたる成果を上げられるわけではないということは周知のことであり、その周知を露出させつつある状況は国政だけにとどまらない、いわばすでに自分たちの毛細血管あるいは末梢神経まで行きとどいている地方政治、地方行政までを貫いた統治形態そのものの変革を含むものであることの認識を私たちは必然的に強いられているからだ。こちらの方が大変な気がする。
その意味では変化まで選択できないがゆえの分断と対立の時代に突入しているのではないか。それは深刻な停滞の出現である。この停滞の深度によって変化の選択はあり得る。むろん、それすらも信じないという立場は当然有りだと思う。だって、その変化の中には当然また戦争やったり先祖返りすることも含まれているわけだし、だからあんまり喜んだり騒いだりしない方がよい。民主党が政権を穫ってもシレッとしているのが正しい態度だと思っている。騒ぎ立てるのはマスコミは別にして三流以下の政治活動家と知識人に決まっている。

それはそうとMさんの記事が示唆的だ。
まず為すべきことは、とジジェクは書いている。対立から<みずから>を差し引くことだと。傍観者であるときにこそ、その対立から<わたし>を引いてしまえば、残るのは偽の対立だけである。対立する二項から引かれる第三項がつねにあり、真の対立は、対立する二項と、あらかじめ減算された第三項とのあいだの敵対である。

というわけで、真の敵対を表す数式は<1+1=3>となる。自民民主の敵対と真に対立する「急進的な解放的政治」があり、その第三項は、あらかじめ排除された政治のなかにある。脳死か心臓死かという敵対に真に対立するのは<完全な死>である。
<完全な死>は脳死か心臓死かという倫理的かつ経済的な対立を解放する。だれが完全な死を判定するのか。だれもできない。完全な死は審級ですらない。それは対立図式を超えた対立である。射程の長さが違うというべきだろう。

昨夜娘が買ってきたビールを久しぶりに飲んだ。胃がびっくりしたのだと思うが、食後しばらくしてかなりきつい胃痛になった。胃の鎮痛剤を飲んでも効き目がない。何か手だてはないものかとトイレで戻すとやっと楽になった。食べたものはほとんど消化されていなかった。最近冷たい飲み物ばかり飲んでいるので、胃が弱っていたのだろう。おかげで早く寝て(それもぐっすり)、早く起きた。熱いお茶を飲んで、熱い珈琲を飲んだ。猛烈にお腹がすいてきて、お茶漬けを食べて満足しこの記事を書いている。
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七月を跨いだ雑記帳の続き [介護と日常]

妻の歌
昨日の早朝のことである。雨が降っていた。5時過ぎに妻が私の手を強く掴んで起こそうとする。トイレかなと思ったが「雨が降っているのでもう少し寝る」というと、「まだおきひんの?」と言った後唐突に歌を歌い始めた。
 
 あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめでおむかえうれしいな ぴちぴちちゃぷちゃぷ らんらんらん

聞いたこともないような鼻歌を歌うことはよくある。仏壇の前や、布団の中で目を見開いて一心に歌う姿はめずらしくない。が、歌詞をここまではっきりと、しかも最後まで歌うのを聞いたのは倒れてから初めてだった。
なんでそんな歌を歌って私に聞かせたのだろう。子どもと間違ってないかと聞いたが笑いながら否定した。なんでその歌なのかを聞いたが「なんでやろ。気がついたら歌ってたわ」といってまた眠りに落ちた。読めない。

主治医のこと
妻の執刀医であり、主治医でもあるH先生から9月で病院を辞めることになったと伝えられた。病院を変わるのだそうだ。北海道の稚内だそうだ。遠いですねと聞けば、そちらのご出身だった。脳外科医であり、認知症の専門医ではなかったが一番信頼してきたし、妻の状態をもっとも理解してくれていたと思う。頻繁に通院が必要だった頃、苦労したのは決められた時間を守ることだった。何度も約束の時間を守れずに病院に行ったが、その都度「気にせずに、来られるときに来てください」と言ってくれた先生はこの人だけだった。ある専門医のところでは、二回目の診察時に30分ほど遅れてやっとの事で診察室に行ったらいきなり怒られた。それからそこには二度と行かなかった。
慎重な検査と緻密な分析から治療方針を導き出す姿は、まったく有能な技術者の姿だった。それほど互いに親しさを表す関係ではなかったが、いなくなると思うとさびしいし残念だ。新たに医師を捜して病院を変えるかもしれない。

秘密作戦
最近ひそかにオムツ脱却作戦を展開していた。作戦の肝は①サインを素早く見抜くこと。②本人に緊張を強いること(苦笑)。
二日間ほどうまくいった。二日前の朝、起きてからトイレもすませ朝食を食べて、テレビを見ながら話し相手になっていた。10時を過ぎる頃にうとうとし始めた。テレビの前で横になろうとするので、ベッドが楽だからと連れて行った。妻はすぐにスヤスヤと寝始めた。これ幸いとばかりに久しぶりに自分の部屋に行き、机の上をあれこれと整理しながら読書をしたりして11時半をまわった頃昼食の準備に台所に立った。ちょっと気になって寝室を覗くと妻はまだスヤスヤと眠っていた。暑くなり始めたのでクーラーをつけてやろうかと、はねている上布団をかけようとしたら染みになっている。うっ!と思って触ってみると着ているものから敷き布団までビショビショであった。久しぶりの大洪水。うっかり油断した。幸い晴れ間が出ていたのでシャワーで身体を洗った後、大洗濯。「しめた!いまだ!」というこの感覚は、結局痛い目に遭うということだった。反省。
オムツ脱却作戦はまだしぶとく展開中だが成果に比して被害は甚大だ(泣)。いったん撤退か前進あるのみか、思案中である。

叔父の小説
家の整理をしていたことは前回書いた。その中で亡くなった叔父の荷物の中から未完の小説がでてきた。作家を目指していたのかと驚いた。出来はさておき、興味深い内容だった。
終戦後「マッカーサー徴用」で復員船に乗り込んだ主人公が、様々な経歴の乗組員との絡みや、かつて戦地であった南方で復員兵や引き揚げ者たちを焼け野原になった日本に運ぶなかで、軍需物資や積荷を捌く闇のシンジケートに巻き込まれていくというストーリー。沖縄やフィリピン、マニラ、シンガポールなど一帯の密貿易に関係するシンジケートには米軍関係者、華僑、それに復員船の乗組員。彼らは復員船から下りた後も朝鮮戦争特需の中で利権に群がり蠢いていく。そして日本の闇市からやがて巨大な百貨店を築いていく男や、ナイトクラブ王と呼ばれる男になっていったりする。そんなストーリーだった。
かなり実体験をもとにした小説だと思う。私の父がやはり戦後進駐軍に徴用されて輸送船に乗り軍需物資の横流しの疑いをかけられてGHQから追われたはてに、土佐の小さな海辺の街に身を隠して結果私がこの世に生まれたという話を伯母から聞いたことはすでに書いた。叔父もまた戦後船に乗っていた。してみると、伯母から聞いた父の話は相当美化された話で、父も叔父が描いた小説の登場人物たちと同様の蠢く人びとの一人だったのだろう。自分を模したと思われる主人公の中に私は父の姿を見るような思いだった。また気になったのは、唐突に主人公の父の妾が短く出てくるのだがこれは私の母がモデルではないかとはっとした。叔父はひょっとすると私の母に思いを寄せていたのではないかと思った。

興味深く読んだのには理由もあって、ちょうど南無さんの一連のエントリーと微妙に交錯したからだった。発端は南無さん経由で勝手に三上先生にリンクしていたのだが、佐野眞一関連のエントリーを興味深く読み、自分も図書館で佐野眞一の作品を何冊か借りて読んだ。読んだのは「旅する巨人-宮本常一と渋沢敬三」「宮本常一の眼差し」「宮本常一のメッセージ」「宮本常一が見た日本」「渋沢家三代」「大往生の島」「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」。
正直期待していなかったのだが宮本常一と渋沢敬三を扱った「旅する巨人」がよかった。満州ものや戦後史関係も読もうと思ったが、キリがないと思い止めた。この辺りは南無さんが微妙な含みを残しつつまとめていて、覗き込んでいる深度がさすがだと思った。

私は叔父の小説を読みながら、以前読んだ鶴見良行の「バナナと日本人」を思い出して「ナマコの眼」を図書館で借りて読んだ。これが圧倒的に面白くて他の著作を借りて読んでいる。鶴見良行はバナナと日本人以外は読んだことがなかった。この本に「これ、面白いなあ。困ったなあ」と書き込んでいる。理由はすぐに思い出せた。べ平連をとにかく頭っから毛嫌いしていたのだった。まったく、偏狭そのものだった。この偏狭さはその後の自分の生き方にもずいぶん影響していたんだなと最近思うようになった。

バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ (岩波新書)
ナマコの眼 (ちくま学芸文庫)
アジアはなぜ貧しいのか (朝日選書 211)
海道の社会史―東南アジア多島海の人びと (朝日選書)
アラフラ海航海記―木造船でゆくインドネシア3000キロ

パソコンに珈琲
妻がようやく寝静まった後、珈琲をいれた。居間で珈琲をすすりながらノートパソコンを開いた。何かの拍子に、珈琲をこぼしてしまった。ワインやジュースをこぼしたというのはよく人からは聞いた話だった。自分には無縁だと思っていた。なんの根拠もない思いこみだったことを証明してしまった。即座にパソコンを裏返してこぼれた珈琲をきり、なんとか終了させてバッテリーを抜いた。それから乾いたタオルで何度も水気を取って扇風機で乾かした。翌日起動してみると問題なく起動したが、やはりキーボードとトラックバッドに障害がある。修理の相談をしてみるとキーボードだけなら18000円だがトラックバッドの場合はロジックボードも調べてみないとわからないので何ともいえないという話。ちなみにそれらを全部交換するといくらかと聞くと他の機能も異常があるかもしれないので確定はできないが最低でも50000円はするという。だったら新しくした方がよいかもしれないので、駄目元で自分で調べてみることにした。キーボードは簡単に外れたが、トラックパッドはアッパーケースをむき出しにしなければならない。HDD、DVDドライブ、エアポートカードと順番に外していき、いよいよロジックボードを外す段になってこれ以上分解したら組み立てられなくなると直感的に感じて作業を中断した。外したキーボードを水で洗い(おそるおそる)、乾かしてから、トラックパッドの部分にもヘアドライヤーで少し温風をあてて、なんとか全部もとに組み付け直した。テスターで調べても断線は見あたらない。これで駄目なら諦めるしかないと起動してみたら、全部正常に戻った。運がよかった。キーボードにカバーをつけるのは嫌いなので、これからはパソコン使用中に食べたり飲んだりしないようにする。

ぬか床
男子たるもの、せめて食べものの蘊蓄や家庭料理うんぬんは語らぬダンディズムを持ちたいと思うものの、いかんせん根が小心で小市民であるが故の悲しさで書きたくてしかたがない。25日目である。おいしくなった!
子供は「おかずがいらないくらいだね」といい、妻ですら「これおいしい!」といってくれるようになった。苦虫を潰したような顔で返事もそこそこに箸を進めるが、心の中は喜びで飛び上がらんばかりなのである。なんと悲しいことだろう。かくなる上は、冬になると私はきっと大根を大量に漬けることになるだろう。京都の旧家杉本家のレシピ「朝夕茶漬け、香の物。昼は一汁一菜」というのはなにも非現実的な食卓ではなかったということである。

訃報
平岡正明が亡くなった。脳梗塞だという。68歳
ずっと「せいめい」と思っていた。
南無さんがすでに書いている。





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六月の雑記帳 [介護と日常]

7月になった。ようやく梅雨らしい暑くてジメジメとした実に耐え難い気候となった。しばらく扇風機で我慢していたが、24日に我慢できなくなってクーラーをつけた。運転する前にフィルターを見たら各部屋のクーラーともホコリがびっしりだった。水道の蛇口を全開にして張り付いたホコリを飛ばした。ベランダでちょっとした水遊びだった。
この一ヶ月は間歇的な寝不足と炊事、洗濯、掃除に明け暮れた月だった。寝不足の原因はサッカーのコンフェデレーションカップ。感想はやめときます。ワールドカップ予選、日本はまあワールドカップに出られてよかったです。芦田先生の記事(岡崎のシュートを巡る「反」大久保論)はおもしろかった。勉強になった。

妻は相変わらずで、元気だったり元気をなくしたり。やっぱり微熱が出たりするのが治まらないのは心配だが、それ以外は特に変わったことはない。いや、変わったことはある。服用する薬を大幅に減らしてもらったことと定期診察が二週間に一回から一ヶ月一回になったこと。日常で対処できない高ナトリウムと脱水にはその都度対応ということにした。
薬のメインは中性脂肪とコレステロールを抑える薬だ。ロティファミンという精神活動を活発にする薬も朝夕一錠ずつ処方されているが、飲むとよくないので中断した。飲まない方が調子がよい。この薬が最後のチェックだった。次回の診察でやめてもらうようにする。変わらないのは尿崩症の薬であるデシモプレシン点鼻を夜1回10ミリ鼻に噴霧する。とてもシンプルになってきた。後は目を離さないことと、体調不良の場合の原因を注意深く見定めることぐらい。
悲鳴を上げるようなことをしでかすことは、まあないわけではないが目くじらを立てるようなことでもないし、妻の場合本質的な改善は薬では望めないことがとりあえず現段階での確信的な結論だ。普通にケンカしつつも仲良くやっている。認知症になってからの妻は実に笑顔がいい。なかなかお目にかかれない笑顔で和ませてくれる。こんな妻は倒れる前には知らなかった。

洗濯と掃除
雨が少なかったので良く洗濯をした。特に25日からこたつ布団、毛布、シーツ。それにこれから着る夏物、しまう冬物とくたびれるほど洗濯をした。
わが家に来る一番若いヘルパーさんの「お父さん、これだけベランダが広ければ毛布やこたつ布団は絶対家でやるべきですよ。私は干すところがないから仕方なくクリーニングに出しますけど、ここだったら絶対に自分でします」と断固とした口調に後押しされた。クリーニングに出してあったものを再び出した毛布をどうしようかとちょっと悩んでいたところだった。
掃除もよくした。遂に納戸の整理を終えた。納戸の広さは畳二畳分に高さ三メートル50ほどで、二段になっている。ここにわからないものがギッシリ詰まっていた。残るはいよいよ自分の部屋と使わなくなった事務所の整理。事務所の整理が終わるとそこに息子が移ることになっている。

蜂の巣
ベランダに出て洗濯物を干しているとハチの姿を見かけるようになった。刺されたりはしなかった。だからすぐに忘れて気にかけることもなかった。だが、六月になって頻繁に飛んでくるようになり、巣でもあるのかしらと思っていた。
急に思い立って今年もバジルを植えることにした。そこでベランダの隅に転がっている小さな竹かごから土いじりの道具を出そうとしたところ身を潜めて警戒する蜂と小さな蜂の巣を見つけた。じっと身構える蜂と視線があった。慎重に道具を取り出したが襲われることはなかった。蜂との奇妙な共存関係はしばらく続いた。
ベランダに違う方向からやってくる蜂を見つけたのは六月も中旬を過ぎた頃だった。姿を追いかけてみるとアロエの鉢の上にある手すりの下に小さな巣を見つけた。これも小さな巣だった。さらに燐家と隣接したベランダの屋根の下にも小さな巣があることがわかった。依然としてそれらの巣の住人との共存関係は続いていたが、家族から苦情が出始めた。蜂が飛び回って危なくて仕方がないというのだ。たしかにここ最近急激に蜂の数が増えたように感じていた。巣の大きさから判断するとその数は多すぎた。
ある時注意深くベランダを見渡していて、息をのんだ。わが家と接している隣りの家の壁から出ている小さな軒下に手のひら大の巣が三つ。きっとそこからあふれた集団がわが家のベランダに巣分かれしてきたのだろうと思われた。激しく悩んだが、私だけではなく妻もヘルパーさんもベランダに出るので駆除すべきという意見に従うことにした。
18日午前五時。蜂はまだ寝静まっているようだった。殺虫剤を巣にかけると驚いた蜂が巣から出ていく。そのタイミングで巣を取り除きゴミ袋に入れる。都合六つの蜂の巣を全部片づけた。その後しばらく蜂は巣を求めてベランダにやってきていたがやがて諦めたように姿を見せなくなった。ときおり遠くからこちらを眺めている蜂の視線に気がつくことがある。ベランダの下にある駐車場の屋根の上から私をじっと見つめていたりする。

ラッキョウ漬
六月に入ってすぐのこと。八百屋に行き、今年もラッキョウを漬けなくてはと塩出しされ処理済みのラッキョウの袋を手にとっておもわず「たけえな」とつぶやいた。八百屋の若い主人が声をかけてきた。
「ご主人、漬けるんやったらいっぺんこっちのラッキョウでつくってみはったらどうですか」
みると土と茎がついたラッキョウだった。それは経験がなかった。調理済みのラッキョウにラッキョウ酢を買ってきてそのまま漬けるだけだった。
「やり方を教えますから、いっぺん挑戦してください。簡単ですよ。味と歯ごたえは全然違います。値段も半額以下だし」という。
そこで教えてもらった方法でラッキョウを一から漬けることにした。
  1. 濃い塩水の中に土を付けたまま一晩浸ける。
  2. 翌日、一皮めくれて土も落ちたラッキョウの両端をひとつひとつ落とす。この時大切なことは、両端を切りすぎないこと。
  3. 土と両端を落としたラッキョウをもう一晩濃い塩水に浸ける。
  4. 翌日、薄皮が取れるのでそれを取って、甘酢に漬ける。甘酢は米酢に砂糖(好みで)、鷹の爪数本を入れて塩をひとつまみ。それだけ。火にかけて砂糖と塩を溶かし、冷ましたものを使う。二週間もすれば食べられる。
以上を忠実に実行した。いうほど簡単ではなかったし一つ一つ皮をはがして両端を落とす作業は山椒の実ほどではないにしろ面倒だった。においもなかなかのものだった。
二週間後、少し残っていた前年のラッキョウと比べると歯ごたえは全然違うし味はシンプルで非常においしい。市販の酢はベトッとして調理されたラッキョウはグミグミとして歯ごたえがない。まあ、歯ごたえがないのは時間が経ちすぎているということもあるのだが。

ぬか漬け
これが、本題。妻が倒れて入院している時、ぬか床を駄目にしてしまった話は以前書いたように思うが、その時の処理がトラウマとなりぬか漬けには手を出せなかった。とにかくおぞましかった。しかし、妻が漬けるどぶ漬けは大好きでとくに水茄子の漬け物は大好物だった。
17日 意を決してぬか漬けに挑戦することにした。ぬか漬け用の甕を出してきて洗い、天日で干して消毒。糠を二キロ買ってきて塩水で練る。糠を火で煎るのはやめた。捨て野菜を漬けたり、生姜やニンニク、唐辛子、昆布などをいれてかき混ぜる。ついでに、「ぬか床日記」をつくって(笑)、毎日の作業や様子を記録するようにした。
最初はキュウリを漬けても茄子を漬けても塩辛いだけ。一週間を過ぎた辺りからかすかにぬか漬けらしさが感じられるようになってきた。だが、10日目くらいにちょっと酸っぱくなってきたので野菜を全部出して糠と塩を足し玉子の殻を入れた。酸っぱさは治まったが、まだぬか漬け本来のおいしさにはほど遠い。が、毎日食卓にお漬け物があるのはうれしい。
そういえば、母は漬け物が得意だった。近所の人や父の会社の人も母の漬けた漬け物を食べにきた。私も母が漬けたお漬け物は大好きだった。母はけっして料理がヘタだったわけではないが東北出身だったから、土佐の田舎の味は出せなかった。とくに苦労していたのはおすしの味だった。神祭などでつくるおすしは、友達の家で食べる方が圧倒的においしかった。自分がつくるすしの味に落胆した母は近所の名人のところにいって教えを請い、「今度は上手にできたと思うから」と感想を求めてきたりもしたがそれでもやっぱり微妙に田舎の味とは違っていた。今から思えばおいしくないという評価はずいぶん母を傷つけたのではと思う。
母は、お漬け物がおいしいと言われると嬉しそうだったなというような記憶がかすかによみがえってきた。
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左膳さんを悼む [介護と日常]

左膳さんの最後のブログ記事が更新されたのは四月の終わり頃だった。五月の中旬を過ぎた辺りで少し気になり始めた。お互いよく行くブログにも左膳さんの足跡が消えた。ご機嫌伺いのコメントをブログに二度ほど書いたが返答はなかった。左膳さんに何かが起こっているだろうとは思った。そうこうするうちに左膳さんの友人が、左膳さんに連絡が取れないが何か知らないかというようなコメントを左膳さんも良く訪れていたブログで見て胸が騒いだ。
これは神戸まで行くべきだなと思い始めた頃、姪御さんから訃報の知らせが届いた。
その後間をおかずにだるまさんの記事で様子を知ることができた。病気の再発ではなくて癌が原因で亡くなられたということだった。

左膳さんとは面識はなかった。神戸まで様子を見に行くべきかと思うことがすでに踏み込みすぎたおせっかいかもしれないと思ったりもしていた。

残された左膳さんのブログを何度も読み返しながら、自分の意志では変えようがない現実に対する絶望と、その現実をなんとか開こうとする左膳さんの姿を見つけて、自分の中途半端な関わり方を悔いた。
脳内出血で片麻痺となり、日常生活の介助が必要だった左膳さんを支えていたのは認知症が進む年老いた母親だった。その母親にすこしでも社会的な交流の機会をと介護サービスを受けさせるのだが、その記事を読んで涙を止められなかった。
この記事が書かれた時にどうして泣けなかったのかなあ。その時に泣いたからといって何かが変わったわけでもないだろうがと書いて、いやきっと何かが変わったはずで変わりたくなかった自分を認めたくないだけだと思いなおす。きっと、絶望的な現実になんとか風穴を開こうとする左膳さんの姿に出会えたはずだった。
そんなこちらの関わり方を左膳さんはきっと見抜いていたんだろう。

残されたお母さんのことなど、心残りだったろうと思う。
冥福を祈るしかない。

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意外な穴場を発見 [介護と日常]

連休の後に、もう寒くなることはあるまいと炬燵布団を洗ったことは書いたが書いたしりから夜に冷え込み、慌てて毛布を出した。せっかくクリーニングに出したものだったのに・・。その後も日中は真夏日のように暑くなるかと思えば夜になると寒くなって座布団だけの居間ではちょっと我慢できない。仕方がないのでまた炬燵布団を出してきて炬燵にかぶせる。さすがに炬燵の電源を入れることはないが、昼間は汗をかき夜には炬燵布団に足を突っ込みながら、ときには潜り込みテレビを見ている。

ソネットブログの設定を調べていると、今月アクセス数が突出している日があった。とはいっても何千とかではなくて何百のレベルだが(苦笑)。
その日はちょっと変わったというかkinkyなコメントがあり、いったん削除したがまたすぐに書き込まれているので返事を書いた。ところが書くと全然返事がない。じゃあコメントを削除しますよと伝えて待っても反応がないので削除した。これはスパム以外では初めてのことだった。そんな日だったことを思い出した。
で、忍者ツールというのを設定しているのを思い出して検索とかアクセスを見てみるとこんな検索条件で私のブログが参照されているのが見つかった。この検索条件と変なコメント主とは別だったが意味不明の条件だった。これはきっと見る人が見ればすぐにわかるのではないかと思って、お尋ねします。この検索条件はなにを表しているのでしょうかね。
「\xe3\x81\x82\xe3\x81\x98\xe3\x81\xad\xe3\x83\x95\xe3\x83\xa9\xe3\x82
\xa4\xe3\x83\x91\xe3\x83\xb3\xe3\x80\x80\xef\xbc\xa9\xef\xbc\xa8」

発熱と脱水からいったんすぐに回復した妻だが、また発熱した。木曜日のヘルパーさんが気づいて検温すると7度8分もある。本人も元気がなくベッドに横になったのでヘルパーさんもすることがなく一時間切り上げて帰って行った。保冷剤で冷やすと今朝にはもう平熱に戻った。元気満点である。この間ちょっと辛かったのは、早朝およそ4時前後頃から俄然やる気満点で起きだして、片づけや炊事をやろうとすることだった。私は妻を横目で見ながら7時半からの連ドラをみる。それが終わると妻の後を追いかけるように後かたづけをする。三日ほど前のこと。残念だったのは、冷蔵庫から野菜を出して刻み、鍋にその野菜を入れて何かをつくろうとしていたのだが、鍋には野菜とともに雑巾が煮込まれていたことだった。

現在、火、水、木以外はずっと妻と顔をつきあわしている。妻が突発的に何かをやりたくなった時にはできるだけ妨げずに一緒に行動するようにしている。なにか実現できることがあればいいのにとは思うものの、なかなかそれがなにかに到達できない。絵を描くことも土を捏ねることも今のところ妻の欲求から外れている。たとえ遊びでも妻はもうこのまま器の世界に戻ることはないのかもしれない。
そんな中、月曜日に思い立って区の図書館に行ってみた。図書館を利用することはほとんどなかったのだが、たまたま読んでみようと思った本を購入すべきか少し考えたが、やがて本を処分しても二束三文だし、いたずらに本棚を増やしても仕方がないと図書館利用を思い立ったのだ。車椅子を押しながら図書館に行ってみると意外に充実していたので驚いた。妻も粘土の辞典を手にとって熱心に見ている。ちょっとした穴場を見つけた気分だった。私は読んでみようと思った本を5冊予約し、二時間ほど図書館で時間をつぶして帰ってきた。飽きるまでしばらく図書館通いで時間をつぶせそうだ。
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新ショウガと山椒の実が [介護と日常]

GWも過ぎてみれば、ただいつもの日常でしかなかった。いや、少しだけ変わっていたことといえば娘がなんの予定も出かける気力もないということで、ずっと家にいた。その機会に20年ぶりに知人を訪ねた。今年後期高齢者となった知人に会うのは少し怖かった。が、彼は歯がなくなっていたり少し神経痛に悩まされていたが、衰えは感じさせなかった。

また、私も設立に関わったらしい(それは事実なのだが事実ではないと思う。私はなにも果たさなかったから)施設の文庫を訪ねたりしたことがいつもと違う事だった。
まるで夏の日差しの中、汗をぬぐいながら鴨川沿いを下がり、水遊びの子供達を見ながらずいぶん歩いた。
その建物の前にきた時ふいに「こんにちは」と二階の方から声がした。その声の主を捜して顔を見上げても見つからず、立ち止まっているとその建物の玄関がある小さな川の向こうにすでに立っていて迎えてくれた。さほど年も変わらないはずの彼とも長い間会っていなかった。別に親しかったわけでもないが彼の笑顔には見覚えがあった。
小さな書庫に案内してもらい(それは見事に整理され、充実していた)、その後彼と知り合ってから初めて長い時間話し込んだ。日が暗くなりはじめて、照明を点けなくては相手の顔の輪郭が滲み始めるという時間になってようやく腰を上げて帰ってきた。私のGWだった。

母の日に息子が夏らしい服をプレゼントしてくれた。前日に発熱をして元気がなくなっていた妻だったが、ベッドから体を起こして嬉しそうに身につけた。考えてみればこの三年ほど衣服を買うこともなかった。
発熱は火曜日まで続いた。ずっと保冷剤を頭の下に敷き、水分を補給するように勤めたが病院で診てもらうと脱水だった。風邪か何かの原因で発熱し脱水になったのだろうということで、点滴をすることになった。

点滴をしてもらう間、いつもの看護士さんが忙しく電話の応対をしている。うとうとし始めた妻がその声で目を開けると「うるさくしてごめんね」といいながら、話してくれた。
シャント術をしている児童が嘔吐を繰り返して倒れたという知らせが外来に来た。そこで彼女はそのまま外来に来ると順番待ちや救急の処置が出来ないことを考慮して、救急に行くようにと患者に指示し、自分は救急外来と担当医師に交渉をしているのだった。「そんなことで救急に回すなって怒られるけど、ええねん。もし主治医がいなかったら救急患者やもん。シャントが詰まった時に出る症状なんやけど、救急処置を優先してその後うちの先生が診て治療方針出したらええもんね」
ああ、そういう患者の交通整理も外来看護士の仕事なんだと思った。

点滴が終わると予想外に妻は元気になった。自分から車椅子を下り、病院でトイレを済ませ二人で病院のすぐ近くのマーケットで買い物をして帰ってきた。マーケットで今年初めて新ショウガを見た。高知県産の山椒の実がびっくりするほど安い値段で売っていたので思わず買ってしまう。帰ってからもう寒さは戻ってこないだろうと、炬燵布団を洗濯機に入れた。
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アマゾンにストアを開店した [介護と日常]

私が普段読ませてもらっているブログに時たま本の紹介がそのままアマゾンなどにリンクされていることがあり重宝していた。どうすればそうなるのか興味はあったが、そこまでで終わりだった。
時に、あなたのHPやブログでアフィリエイトを始めませんかという案内が届くが、それはそういう目的を持った自分のページを作る必要があるのだろうと思っていたし、アマゾンでは購入した本を出品しませんか、出品すると総額でいくらになります、とかという案内を受けることがあるが、出品して注文確認のメールを出したり、いちいち包装して送る手間を考えると面倒くさくてやる気もなかった。
ソネットのブログでも「ブログ選抜」に参加して商品紹介をすればお小遣いがかせげますというネットビジネスの案内が来ていたが、自分のブログでそういうことをすることがイメージできなかったので興味はなかった。記事中のキーワードにリンクされる広告表示も記事が読みづらいので非表示にしてあった。

あるブログを見ていてそこのブログ主が読んだ、あるいは持っている書庫の内容の一部をそのままアマゾンのネットショップにしているのを知った。これならできるのではないかといろいろ調べて、昨日「miya blog・ストア」としてオープンした。新装開店である(笑)。
とりあえず認知症関連の書籍を並べた。廃棄した本と自分の判断でくだらないと思った本は含んでいない。中に未読が二冊あるがシリーズ本で他を読んだ限りではひどい内容ではないので並べた。家族の体験本や現場専門家の体験本はそれぞれ感動したり得るところもあったがほとんど並べなかった。とくに理由はないが時々で相づちを打って感心をしても一過性と個別性を免れない気がして、今後カテゴリーを増やしていったときに別ジャンルで扱うようにしようと考えた。脳科学の分野は巷に溢れていて私があえて紹介する必要もないだろうということで除外した。
並べてみると、専門書とよべるものは少ないしずいぶん偏っているように思う。でも、とりあえず自分の置かれた状況と悩んだ(でいる)部分を重ねるとこういう判断が残ったということになる。また、精神医学の入門であったり心理学の入門であったりと内容的に錯綜している。ほんとうはもっと振幅が大きくて、収拾がつかなくなっているところがあるのでそこの部分(主に原典)も除外した。全部ではないが少しだけ簡単な感想も書いている。これから感想も埋めていきたい。ということでぜひ一度覗いてください。

本なんて読まずに最良の介護(自分も被介護者も含めた)を実現している人もたくさんいるだろうし、いくら本を読んでも最悪の結果でしか表現できない人もいるだろう。そういう意味では読書は自分の関心に対する動機づけや関連づけに役立っても現場ではなんの役にも立たないとも言えるし、何気ない一行がするっともつれた糸をほぐしてくれる事もある。私の場合、実用書の類でそういう感覚を得たことは三好春樹を除いて少なかった。

妻から目を離せないという状況でなかったなら、私は多分読書に時間を割くことはあまりなく、きっと釣りに行ったりオートバイに乗りに行ったりしていたと思う。読書に対して実利的な動機はもちろんあるとして、それ以上に日常生活を送る上でのバランサー的な役割を負ってくれている。正直にいうと、一冊読んでその内容がなにも頭に入っていないことなんて普通にある。活字を目が追っていることだけで心が保たれているのだ。その状態を思い返すと、良くない生活をしているなあと実感する。ブログに記事を書いたり旅行をしたり、おいしいものを食べたりしている方がよほど健康的であり人間的だと思える。

開店早々からこんなことを書くとまるで誰も利用してくれない気がしてきた(笑)。長年の仕事を離脱した今、介護と経済的安定の両立は大きなテーマでもあり私が立ち向っている現場でもある。ここでこんな事をやってもなんの足しにもならないことはわかっている。だけど、できることは面倒くさがらずにやってみることで、そろそろ社会復帰の一歩を踏み出したい。
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牡蠣とタラの芽 [介護と日常]

忘れないうちに。昨日の午後、岩手の宮古からクール宅急便が届いた。S先生からだった。開けると見事な牡蠣!
息子はこれを見て夕食時にワインを買ってきた。娘に今日は早く帰るようにと息子からメールをしてもらったが、あいにく家庭訪問が入りすぐには帰れないという。それは残念と夕食の準備にかかった。焼くか酒蒸しにするかと意見も出たが、それはなかろう。いちばんシンプルにレモンをかけてそのまま食べるのが一番であろうと殻を開けて皿に並べていると玄関のチャイムが鳴った。宅急便だという。夜の八時である。しかもこれまたクール宅急便であった。
開けると中からタラの芽がどっさり。それとコシアブラが。練習菌さんからだった。
早速お礼のメールを送ろうとしたらすでに午前中に「ブツ発送」の知らせが届いていたのだった。これまたすぐに天ぷらにすることに。
特別むずかしい調理ではない。ただ山菜の天ぷらの場合は衣を薄くして揚げるだけ。それから少し残した山菜をつかってパスタを作ることにした。
九時前、三人で遅めの夕食をワインの乾杯で始めたときに、玄関が開く音が。娘が帰ってきたのだった。息子が「やっぱりな。あいつはこういうチャンスを逃すことは絶対しない女なんや」という。三人で笑っていたら上がってきた娘が「おお〜間に合った。また私の悪口を言って笑ってたんやろ」とテーブルに座って乾杯のやり直し。牡蠣(岩牡蠣だろうか。なかの身が大きく詰まっていた)にレモンを搾りかけ口に入れると潮の香りが口に広がる。山菜のほろ苦さと甘さが何ともいえない。久しぶりの贅沢な夕食だった。菌さんが送ってくれたタラの芽は新潟の大日が原というところで穫ったもの。
偶然にもその日hanaさんも新潟に行かれていたようだ。
見事な牡蠣とタラの芽の写真は残念ながら撮り忘れた(__;)

代わりに今年の桜と散歩の写真を。
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有意義な一日 [介護と日常]

暑い日曜日だった。今日は娘がいたので有意義な一日をと思ったがなにも思いつかなかった。部屋で本を読み始めてもただ視線が文字の上を滑るだけですぐに閉じてしまう。
居間でテレビをつけるとホリエモンが出て評論家や議員の質問を受けていたが興味もなくすぐに自分の部屋に戻る。
何か有意義なことをと、未整理だった妻の血液検査結果を時系列にデータ化して脱水に関わる項目を抽出してみたが、思いこんでいた季節による変化はほとんどなかった。一年を通じて血中ナトリウム値は高いままだった。自分の思いこみにがっかりした。
妻の生存条件となっている今の身体的自然をコントロールしようとするのは不遜なことなのだと思った。

有意義なことなど何一つ思い浮かばない。ぶらりと外に出て行き先もなく歩き始めたものの建仁寺の境内に入るとまるで外国の風景を見ているような気分になりすぐに帰ってきた。家の中はまだひんやりとしていて気持ちよく、床に体を伸ばして横になるとすぐにうとうとし始めたようだ。気がつくと妻が私を起こしていた。娘は夕飯の支度を始めるところだった。

外はまだ明るいのでもう一度外に出て近所の喫茶店に出かけアイスコーヒーを飲んだ。近所の人が奥さんの世話をしてえらいと話しかけてきたが、曖昧に返事するにとどめる。ずっと家にいて何をして食べているのかわからない得体の知れない存在に対する「不信」が背景に隠れている。応える気力もない。喫茶店の奥さんがそれに気づいて話の続きを引き受けてくれる。が、奥さんの話を聞きながらもっと大げさな賛辞を私に向ける近所の人に、さらに増幅する不信のうねりを感じて不快になり店を出る。

家に帰り、Mさんの知人が危篤状態から奇跡的に生還されたという記事を読み、考える。

「もし私にiruguさんの奥さんほどの行動力があれば、妻を救えたかもしれないと思ったりした。適当に病院を選び、信用できない医者だと思いながら、その医者に委ねてしまった。 私はわざとそういうものを選んだのではないかと、いまでも自分を疑っている。」
M.Freezing『約束のない再会の雨が降る』2009 / 04 / 12 ( Sun )より
http://inmzk.blog77.fc2.com/

詩人の奥さんの場合は脳の中で出血したため、白金コイルで何ヶ所も止血してあるのだそうだ。脳の中というだけでも、私の場合よりはるかに危険で、難しい医療技術だったろうと思うのだが、極端なことを言って、これが100年前であったなら、どちらが難しいもなにも、その日のうちにどちらとも死んでいたのだ。そういう意味では二人とも医療の現在性(歴史性)によって、つまり必然性によって生かされているということになる。しかしどんな必然性の中にあっても、命が運ばれるその場、その場の選択の吉凶は、いつも偶然性でしかないということも言える。そして人はこの偶然性に神意を読もうとするのだ。そうでなければ関係の罪障感によって、これを埋めあわせようとする。

医療の専門<知>は、思想も人格も保証し得ない。iruguさんの奥さんの総合<知>が専門知を超えた瞬間にiruguさんの生還が決定されたのだと思った。
罪障感の根拠は吉凶を占う偶然性の背後に、獲得しうる可能な<知>の存在を認めているからではないだろうかとも思った。
こう思ったことで、昨日は有意義な一日であったのだと思えたのだった。

※朝四時半頃に突然妻が起きだして「とんちゃん(全然知らない人)が来てるから」と玄関に降りていったので、一緒に外に出た。外はまだ暗くて少し肌寒かったが、気持ちがよかった。外に誰もいないのはもちろんだが、表通りまで確認のため出て帰ってくるとまたすぐに寝始めたのでこの記事を書いている。


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答えから遠ざかる悩み方 [介護と日常]

昨日は久しぶりの雨。妻の診察日だったので家を出ると大谷さんとかの桜は見事に葉桜だった。すぐ近所の中学校は息子が中学二年生の時に新校舎になったが(15年前かな)小中一貫校の拠点学校となり、今工事が進みほぼ解体されてしまった。校門脇の小振りながら元気のよい桜もきれいに散っていた。

朝食もあまりすすまず、相変わらず元気のない妻だったが血液検査の後昼食に行くと食べたいものはなんと「焼き肉定食」。しばらく顔を窺ったがどうやらその気のようで注文する。さすがにあまり食べきれなかった。私は軽くうどんで妻が残した焼き肉定食を片づける。

検査の結果は、問題なし。前回の時、尿の回数が少ないので勝手に薬を止めて脱水になっていたので今回はうまくいった。体はしんどそうだが意識レベルの低下はないのでそうかなとは思っていた。歩行や動きの検査の後医師は、体がしんどいのは服用を止めたステロイドの影響がひょっとしたらあるかもしれないが、飲んでいた量が極めて少ないのでなんともいえない。次回にホルモンの検査をしてみましょうということで帰ってきた。

今日はデイケアの日。朝も食欲はあまりなかったが、それでも半膳のご飯を食べてお迎えの車に乗ると笑顔で手を振って出かけた。まあ、ぼちぼちということかな。

介護がテーマのブログでファンブログの一つに「新・和ちゃんと一緒に!! 野田明宏の介護日記」がある。いかにも男臭い介護ブログである。無駄なことはいわない。人がありがたがるような有益なこともいわない。男はだまって耐えるというわけでもない。長い介護生活で表も裏も噛みしめた日々を短い文章で綴っている。体育会風で実際本人は高校球児だったようだ。時代の香りがほのかに漂うユーモアとペーソスに孤独と意志が感じられる。
そこでブログ主が世話になっているという介護雑誌が行っているアンケートへの協力願いの記事があった。さっそくアンケートのリンクに飛んで内容を読んでから、はたと考え込んでしまった。

私にはアンケートの質問が難しすぎて答えを書けないのだ。これはいったいどうしたことなのだろう。妻が倒れる前、私はたぶん答えを出すのに一番近いところにいたと思う。だが、介護生活を続ける中でどんどん答えから遠ざかってしまうように生きてきたのだろうか。答えが書けないからアンケートに協力は出来ない。が、自分がこの間、答えを直ぐに出せる価値観への疑問をずっと抱えながら、そして同時に妻からも突きつけられながら生活してきたことを改めて気づかされた。答えを棚上げするために自分は考えたり悩んでいたりしていたのだろうかといささか複雑な気持ちになった。

雨が上がり、空にかかっていた雲も少しづつはれてきたようだ。
さあ、洗濯でもするか!
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夢の話 [介護と日常]

今朝短い間に見た夢が気になったので書きとめておく。
妻が6時くらいに話しかけてくる。「今日絶対にしなくてはいけないこと」寝ぼけ眼で応対する。トイレに行く。ご飯を食べる。洗濯をして、外に行こう。とかを話していてまた寝てしまう。

この応対から目覚める間のわずかな時間に病気論だ!みたいな夢を見る。なんだか自分が科学者か哲学者になったような探求が始まる。人や自然が超大型の地球規模のよくわからない機械でスキャニングされていく。見ろ!病気とは全部自然の変化なのだと。一人が病気になると周囲を観察しろ。人や自然の木々や花を観察しろ。そこでは人も木々も花も等しい自然の要素に過ぎない。ペストを思い出せ。ペストは伝染病ではない。発生したその地域の変化なのだ。鳥インフルエンザも同様だ。宿主が地域を渡る。宿主とは全ての生物なのだ。そこである地域の風土に触れる。宿主に変化が起きる。病気が起こるのだ。その変化はその地域の空気や水や樹や花に等しく起こっている自然の環境なのだ。病気も人と同じ等しい環境であり自然なのだ。我々が語る個人に現れた病気は単純に人の問題であり人の物語なのだ。だから人の問題と病気の自然とを切り分けろ。
だんだん、夢の中で語る声が自分を離れ威厳に満ちた隅々に届くような声になっていく。
やばいなあ。これって夢だけどまるで宗教で、疑科学の話しと同じなんじゃないか。福岡伸一の本に出てたことと同じような話でもあるな。いきなりペストなんて何故出てきたんだろう。どこかの記事で読んだっけか。昔読んだ小説の中身はとっくに思い出せない。
夢の中でもがいているうちに、また起こされる。
「あんた今日はよく寝てるね」目が覚めて起きる。
6時50分だった。 吸い口に水を入れて妻に渡す。一口飲んでちょっと蒸せてから残りを飲み干して「あー、おいしい。ありがと」と妻はいった。昨日から水をたくさん飲ませているが尿はほとんど出ていない。前回の時と同じ。昨日よりましになっている。と、ここまでを書いてどこから夢なのか夢を創作した話なのか自分でもわからなくなった。

昨日妻は一日中ベッドの中だった。夜8時になってようやく食事をしてまたすぐに寝た。寝ている間中何度も水を飲ませた。その度に「あーおいしい」といってからすぐに目を閉じて寝息を立てた。この暑さにまたからだがびっくりしているようだ。無理に起こさない。洗濯や仕事の整理をしていた。
8日は私の通院日だった。血糖値は良好。なにも問題なし。前回の記事に書いた症状のことを伝えると医師は様子や時間を慎重に聞き書きしていて、どうやらほぼ間違いなく低血糖であろうということだった。血糖値が正常範囲におさまる辺りで薬を服用しているとわりあい起こる症状らしい。薬を少し減らすことになったが、完全に止めるのではなくて低血糖様の症状が出るようなら飲まないという自己管理。
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散歩 [介護と日常]

暖かい日だった。10時過ぎに遅い朝食を食べた後、外に出てみないかと声をかけるがあまり乗り気ではなさそうで電池の切れた携帯電話を触ったり、私の電子辞書を触ったりして立とうとしない。私が読みかけている本をめくったりしてそのうち横になって寝始めた。
妻の携帯電話は倒れる前は最新式だったが、今では少し古典的な趣をもっている。そしてずっと電池が切れたままになっている。それでも電池が切れていることに不満を言うわけでもなく、ずっと友人にメールを送ったり、時にはテレビのリモコンや仏壇の線香に火を点けるライターになったり、まったく用をなさない万能の道具でありながら手放せない大事な道具となっている。
午後二時過ぎに目覚め昼食を食べた後またかなり時間が経ってからやっと腰を上げる気になったようで、近所まで桜を見に行くことにした。鴨川に出てみると満開の桜があるかと思えばまだほとんど蕾のままの桜もある。しだれ桜のピンクの花びらが枝からこぼれるように咲き始めていた。
木屋町に出ると高瀬川添いは満開だった。木屋町四条を上がったところでお茶でも飲もうかと思ったが目を疑った。高瀬川に面した角にあった珈琲亭という喫茶店がなくなり焼き肉屋に変わっていた。まるで記憶の中の地図が一つ一つ消されていくような気がする。新たに書き加えられることもない生活の中で欠けたピースのように空白が増えていく。
引き返して南座を下がったところのマーケットで買い物をして川端を下がって帰ってきた。疎水縁の用水路脇の桜は満開で、この辺りで妻もようやく落ち着いたのか「満開やな」と桜の枝に手を触れながらしばし立ち止まり満開の桜を楽しんだ。

さて私は糖尿病と診断されて以来、医師から処方された薬を毎食前飲んでいる。経過は順調(といわれている)で、薬を飲む時だけ病人という状態だ。今日、妻の車椅子を押しながら川端にさしかかった頃から急に体の力が抜けてきて脂汗が滲むような感覚に襲われた。それに猛烈な空腹感を覚えた。なんとか家にたどり着き、時間も6時を過ぎていたからすぐに夕食にすることにした。空腹を満たすために急いで食べたが、力が抜けたような状態が元に戻らない。もちろん食べる前には食前の薬を飲んだ。妻の世話を娘に任せて炬燵に入りテレビを見ていたが手と足が痺れるような感じになってとても座れなくなり、そのまま横になった。
そこからが不思議な感覚だった。夢を見ているようなのだが寝ているわけでもない。だけど自分で起きあがることは想像すら出来ない状態で、痺れたようになった両手と両足は重くて自分の身体とは思えなかった。苦痛があるわけではない。ただテレビの音を聞きながら夢なのか現実なのかわからなかった。
ようやく目を開けて体を起こすことが出来たのは9時半を過ぎた頃だった。手足のしびれの感覚が残ってまだ空腹感があるので買ってきたパンを食べるとようやく自分を取り戻した。落ち着いて考えてみるとどうやら低血糖を起こしたようだ。これは初めての経験だった。最初に異変を感じた時に低血糖だと気づいていれば夕食の前に薬を飲まないか、帰宅後に甘いものを口に入れれば良かったのかもしれない。だけど気がつかなかった。
原因を考えると昼食に思い当たった。食欲があまりなくて自分だけ頂き物のあん入り餅を一個食べただけで済ませていたのだった。その量に対して食前の糖尿病薬が強すぎたのかもしれない。次回忘れずに医師に報告することにしよう。
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やっと200記事 [介護と日常]

ついにというか、やっと200記事たどり着いた。2005年4月にこのブログを書き始めたから4年もかかったことになる。超マイナーブログと別に胸を張るわけではないが、ぼちぼちと自分のペースで書き続けられたのはずっと見守っていただいた皆さんのおかげだという他はない。改めてお礼をいいます。
何かを伝えたいという欲求よりも自己満足を得ることが主目的のようなブログであるにも関わらず気長にお付き合い頂けたことはいろんな局面でほんとうに救われました。感謝します。

妻の認知症と向き合ってまる六年。いっこうに状況は変わらないし、経済的なことも含めて生活全般のことを考えれば悪化の一途をたどっているかもしれないけれども、ポキッと折れてしまうような危うさはかろうじて回避してきたのではないかと思っている。こうは書いても自分の意志で決定できることは限られているし自分で折れるのならまだしも、意に反してグシャッと潰されてしまうことだってあり得るのだからこの辺りはあまり確信めいたことは言えない。

最近、微妙に今のブログに書ききれないと思えるようなところが出てきた。自分の中でどこかに背伸びをせざるを得ない面がふくらんできたことにもよる。背伸びといえば普通ならこの年になると若い人の背伸びをいさめたりというのがある種の日本的な大人の定型であるように思うが、私はそんな偉そうなことは言えないし、そんな立場にも立てない。逆にかつて背伸びのはてに放棄せざるを得なかった知識へのすり寄りが新たに装いを変えてせり上がって来たような実感がある。

もともと介護生活を自分の生活の前提とするようになってからその都度自分の現状を納得するために様々な理由をつけていたもののそれでは解消できないでいる自分がいた。
たとえば「妻への恩返しとか罪滅ぼし」とかは、書いたこともあるように思うがもっとも自分には縁遠い理由づけだったし、妻の側に立つかのように装った家庭での介護もそれが疑似的である以上、介護する側の都合の良い物語を際限なく生み出していくことに他ならなかった。問題を社会に投げかけても同じ事で、ここに留まっていてはなんの解決にもならないというある種の強迫観念は日を重ねるごとに大きくなっている。

そこで別ブログを設けることにした。別ブログの方はたぶんすぐに煮詰まってしまうような事がテーマとなるだろう。ようするにさらに自己満足の世界をつくってそこを安全弁というか落ち込み場所としてつくり、今のブログの記事を積み重ねようという算段である。実は昨年の三月に「miya blog2」としてブログを開設してある。ソネットが複数のブログをもてるようになったときにつくってずっと放置したままだったがそこを使うつもりだ。

以下、思いつくままに。

連ドラ
NHK朝の連ドラ「だんだん」が終わった。これだけ苦痛を感じながら見続けたドラマは初めてだ。まあ祇園からシジミ漁に歌にボクシングに介護に終末医療に地域医療とてんこ盛りでバラバラ。しかし、なにが苦痛だったかというと下手な歌をドラマの中で本格的に聴かされすぎたことと、下手な踊りをこれまた本格的に見せられたことだった。それでも見続けたのは松江の方言が耳に響くのにまかせて響かせていたかったから。私にとって隠岐と亡くなった岡田さんの記憶に触れることだった。
へんなドラマだったとはいえ、ふたりっこの子役だった双子はなかなかの演技者だった。
新しい朝の連ドラ「つばさ」はまあちょっと様子見という感じ。これとは別に、大河は今回ほとんど見ていない。

妻の定期診断
ようやく血中ナトリウムが正常値に入った。ステロイドは医師と相談して中止することになった。少し落ち着きを見せ始めている。来週には一緒にお花見に行けるのではないだろうか。

追記・高齢者施設たまゆら火災事故
この痛ましい火災事故についてニュースを見聞きしていると、違うことをどうしても言ってみたくなる。
落ち着いたら記事にしてみたいが、ようするに無届け施設といわれる施設こそさらに増殖させるべきではないかと考えたい。高齢者施設や障害者施設を区域内に建てさせようとしない地域住民や、裕福な人しか入れないような民間認可施設から排除されている自立生活が困難な独居老人や要介護者を緊急に救うには、逆に法や規制から解放されることが解決の早道ではないかと思える。
要介護者を抱えてみたらわかる。スプリンクラーがある家など集合住宅をのぞいてほとんどない。徘徊に悩まされる家庭で家に施錠しない家があるとしたらそれはうっかりかネグレクトだ。ベニヤ板造りで何が悪い。ベニヤ板を使わない家がどれほどあるというのだ。入所者が煙草を吸って何が悪い。老いてなお煙草の楽しみまで奪うような施設に幽閉するな。この事故をネットでちょっと調べていて溢れる批判に気持ちが悪くなった。批判はそうやってそういう施設を孤立に追いやることではない。むしろ認可の敷居をうんと下げて、入居者の安全と施設の充実に関わる補助やサポートを国や自治体は急げと多くの批判者はいうべきだ。と正義の威を借りて少し毒づいておく。

※この事故について次の記事「群馬県老人施設火災事故の背景にあるもの」がよく問題をまとめている。こういうきちんとした記事が出てくると、私の反射的な怒りも無責任な批判と同じくネット上のノイズにすぎないと実感する。ブログ主は社会保障論、社会福祉の経済学を専攻する大学の教授(ほやほやの)だそうです。ただしこの記事へのコメントはあまり見ない方が良いと思います(苦笑)。感違いが自覚できない社会正義の典型という奴です。ー 4月4日追記しました。

吃驚した
高橋洋一東洋大学教授が窃盗をして書類送検されたというニュースには驚いた。私はこの人の本はほとんど読んでいて、ずいぶん啓発された。

夜になって急に冷え込んできた。細かな雨が降り始め今にも雪に変わりそうな感じだ。
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クリップ・WBC他 [介護と日常]

●WBC
原の采配が最悪。4番城島は今までの展開を考えるとないよ。
1回から送りバントはない。最少得点で逃げ切る戦略なのか。
こんな大事な場面で「高校野球」をやるなんて。

勝ちそうだ。
勝った。よかった・・。

※上記の落書きのような記事は勝ったチームに悪いかなと消そうと思いましたが、このままにします。(17時29分)

※皆さん、こんにちは。
前記事の返事が送れてすみませんでした。
いつも炬燵の上に置いたノート型パソコンで妻の様子を見ながらコメントを書いたり記事を書いたりするのですが、このパソコンのACアダプタが壊れてしばらく見ていませんでした。純正を調べるとびっくりするような値段でしたので結局自分で直しました。コネクタの部分が断線していたので割合かんたんでした。

22時追記
今朝のスポーツ新聞を見たところ城島の4番は規定の方針だったようだ。その理由に4割を超える打率に、対韓国戦では13打数7安打のキラーだというのがその理由だと書いていた。これをそのまま信じるわけではないが、おかしな根拠だと思った。
日本の投手陣は、世界一だ。この投手力があるおかげで日本の打者は長打を捨てることが出来た。ランナーを進める、塁に出ることに集中できる。しかし、城島は典型的なプルヒッターで状況に応じて打ち分ける技術を持った打者ではない。米国戦と同じオーダーで臨んでいればもっと打線は機能して韓国を突き放していたと思う。今回の日本のベストピッチャーである岩隈はきっと勝利投手になっていたと思う。
逆に、最終戦でこういう判断をする指揮官の下でも勝てたということは、日本の力はぬきんでていたということだ。

●百円玉
先週の火曜日に診察を受けた時、うっかりカメラを忘れてしまった。主治医は忘れずにフィルムを用意していてくれた。しまったと思ったが携帯を持っていたので携帯のカメラで撮った。
DVC00004.jpg

今回確認のレントゲンは撮らなかったが、ほぼ心配ないだろうということだった。

24時追記
●小沢の秘書起訴
だれがどう考えたって検察は変でしょ。過渡的、仮装の絶対正義。国策かどうかは知らない。しかし、当然今の政治体制によって過渡的、仮装的権力を得ているのだから補完はもとより補強するのは当然だろう。だけど、今回は流れは変わらないと思う。もう自民とか民主を超えてパンドラの箱は小泉の時に開いてしまったんだって。だから小沢が逮捕されようがされまいがそんなことはたぶん大勢に影響ない。と思う。

●定額給付金
うろ覚えだがどこかのブログで定額給付金に国民の多くが反対しているにもかかわらず、法案が通るとこぞって受け取るのは国民のモラルが低下しているのではないかと進歩的新聞のコラムに書いてあったとのこと。そんなの当たり前じゃないか。もらうんじゃないよ。もともと国民から収奪した金じゃないか。受け取った上で選ばないというのが大方の普通の感覚だろう。嫌だねえ、進歩主義者っていうのは。思い通りになるわけないじゃないかというのが、我々下層庶民の知恵ってもんだ。それは進歩的マスコミや政府に対してもそうだという意味。私はこの政策を批判したが、当然受け取って普通に使うよ。

●高齢者施設の火災事故
ニュースの解説を聞いていたら、亡くなった何人かにこの施設を紹介していたのは行政だったという。これはちと慎重に考えないといけないと思った。マスコミの無届けの悪辣な施設とか家族から捨てられた高齢者とかお得意のフレームアップに乗せられると本質を見失いそうな気がする。生活保護費は支給する行政単位の居住地の住人に限られるはずだが、越境して支払われていたこと(東京都墨田区)などを考えると、行政のもっとも良心的な部分と評価できる面もあるように思う。事故をきっかけに無届け施設の立ち入り調査が始まるらしいが、ひょっとして最後の受け皿であったかもしれない民間施設が、なんの対策も立てられないで深刻な事態を招いている行政の無策の権力に回収されてしまう可能性もある。

27時追記
●誕生日おめでとうございます
遅くなりましたがMさん南無さんお誕生日おめでとうございます。すぐにコメントしようと思いましたが、Mさんのところには一呼吸おいて書きこもうとしたら詩人の(ような)言葉でコメントが先に書かれていて、書けなくなってしまいました。ちょっと自分の舌は荒れすぎてるって感じがして退散してしまいました。
南無さんのところは、しばらく油汗が滲むほど勇気を振り絞りましたが自分の舌の中途半端な荒れ具合に気がつきすごすごと退散しました。わが身を振り返ると後二年少々で還暦!です。自分では見る前に跳んだり撥ねたりしてきたつもりでも見事に「適度」な範囲に収まる小市民だった事がなんとも口惜しいです。

以下、僕。と、書いてみたい。いや、別に大したことではないのだけれども。
僕の記事2009-02-25は実はエルサレム賞を受賞した村上春樹のスピーチについて書いてみようと思ったのでした。村上春樹のスピーチになんだか第一次戦後派が蘇ったような妙に古風な感覚を覚えたのでした。キーボードを叩いている途中にMさんの記事「道は断崖と絶壁によって挟み撃ちにされている」が書かれていることを発見しました。Mさんはこう書いていました。
いったい何が打倒されてきたのか。個人とシステムを対立項として描くような視点であったはずである。それが1960年から1990年にかけての、我が国の思想の、たった一歩の前進だったと思っていた。

おお、それそれ。自分が自分のためにも書く必要は無くなったと思いあっさり撤退しました。その後イスラエルとパレスチナについて考察を進めるMさんの記事についたトラックバック記事をふと覗いてみて、少々呆れつつ読みました。ところでその記事を書いた人物のハンドルネームになにか引っかかりを感じました。引っかかりの原因をようやく思い出したのです。
何年だったか定かではありませんが試行を読んでいる時でした。三島由紀夫の自決や連合赤軍による浅間山荘事件が過ぎた頃です。松下昇という寄稿者の一文に釘付けになりました。僕にはそれはまさに初めて読んだ、詩の言葉で書かれたアジビラだと思えたのです。厳冬の季節にコートの襟に首をすくめながら盛り場を彷徨している時にまるで「恐怖新聞」(これは「怪奇」じゃなくて「恐怖」でしたね。25日追記)のようにコートの内ポケットに忍び込んできたアジビラであるが故に否定された詩。そんな衝撃でした。今でもその一文の衝撃を諳んじることが出来るほどです。京都の寺町に三月書房という書店があります。そこで「あんかるわ」から別号深夜版として出された「松下昇表現集」を買い、読みふけりました。あまりの政治性、未成熟の構成、言葉の深い裂け目にとまどいつつ、やはり衝撃を受けた「なにものかへのあいさつ」は出色でした。その時期最も優れた表現だと確信し、胸に刻みました。
最近ふとネットで松下昇を検索した時、最初に出てきた人物。ということを思い出したのです。私が衝撃を受けた松下昇とはずいぶん遠い松下昇がそこには描かれていました。これもやはり松下昇なのだろうかとアジビラであるが故に裏切られた詩を想いました。ただそれだけのことですが。
倒錯の根底にあるのは、きっとこのときも抑圧と抵抗の物語であり、その中でもっとも楽な選択、おそらく享楽的な選択が倒錯を招いている。倒錯が、私たちの正常を支える場合があり、それがなければ滅びているかもしれない主体を倒錯が救っている。

というのは、かなりこたえたな(笑)。

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素人判断はやっぱり危ない [介護と日常]

まったく素人というのは、どうしようもない。いや、これは私のことである。
とんでもない感違いをしていた。前回の記事で尿が出なくなったからデシモプレシン点鼻という薬を中断していると書いた。しかもこれはとても助かるし、ステロイドの効果ではないかと書き、さらに尿崩症から離脱したのではないかというところまで広げてぬけぬけと書いていたけれど、大間違いであった。

今日は通院の日。血液検査の結果が楽しみだった。ところが出てきた結果は予想と正反対。血中ナトリウム濃度は前回よりもさらに悪くなってさっそく点滴。しかも今日は連続二本の点滴に。要するに、尿の回数が減っていたのは脱水状態が継続して、さらに悪化していたということで、点鼻薬を中断するのではなくて継続しつつ水分をもっと摂らないといけなかったのだ。尿が出ないことの方が良くないという思いこみがあった。
生半可な知識など役にたたないばかりか危険でさえあるというのを実感した。

その罰でもなかろうが、今日は結構たいへんな目にあった。天気がよくて暖かいし、妻も元気そうだから買い物をしたまではよかったが、マーケットの前にあるバス乗り場に来たバスを見て乗ろうというものだから、なんと妻が倒れてから初めて一緒にバスに乗った。これがいけなかった。わずか15分ほどのバスだったのに刺激が強すぎて、降りたら身体がグニャグニャ。トイレもしたいようで息がハアハアしている。すぐ近くの区役所のトイレに入った。だけどわずかに間に合わなかった。ズボンが濡れているのでタクシーにも乗れないし、さりとて背負ってはみたもののグニャリとした体をおぶったままで歩く事は難儀で20メートルくらいで諦めた。よくリハビリパンツを買う薬局の店先で見てもらい、家まで車椅子を取りに帰った。いやはや判断が全部狂ってしまっている。

家に帰って浴室でシャワーをしてパジャマに着替えてベッドに寝かせたら直ぐに寝始めた。夕食は機嫌良く食べてテレビも見て、早めにベッドに入ったまではよかったが今頃点滴効果が出てきたのか、起きだしてウロウロし始めた。今は小康状態で炬燵の私の横で鼻歌交じりに爪を爪切りのヤスリで研いでいる。しかもヤスリ部分ではない面で。やれやれ、今夜はなかなか終わりそうにない。明日のデイケアも午前からは無理かもしれない。まあ、こういう時もあるさと引きつった顔で笑って心で激しく泣く。

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